木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

小枝橋~滝川播磨守の判断

2009年07月06日 | 江戸の幕末
戊辰戦争の際、勝敗を分けたのは火力の差であったという説をよく耳にする。
新政府軍はアームストロング砲を始めとして英国流の兵器を多数所持していた。
だが、幕府軍もミニエー銃や山崎関門にはカノン砲などフランスの指導による兵器を所持しており、単純に新政府軍の火力が優っていたとは断言できない。
たとえば、前回書いたように、山崎関門でも、新政府側に転向した津藩は、対岸の福井・小浜藩と淀川を挟んで砲撃戦を行ったが、幕府側の死傷者が300名を超えたのに対し、津藩の死者は僅かに1人であった。
津も当初は幕府側に従くと決めていた。当初から有意な戦法が取られていれば、明らかに火力で優勢な拠点となったはずである。

ここでいささか疑問に思うことがある。
戊申戦争は、小枝橋の小競り合いから始まった。
北上する幕府軍の指揮者である大目付滝川播磨守具挙と薩軍の間で、淀川を渡る小枝橋を「通せ」「通さぬ」の押し問答が続いた後、強引に進行しようとした幕府軍に薩軍が発砲し、戊申戦争の初端を開かれた。
薩摩としては、相手が先に攻撃してくるのを待っていたのだが、結局、幕府の強引な進軍によって開戦に踏み切った。
薩摩藩は配下の浪士隊を使って江戸の町を攪乱扇情、開戦のきっかけを作ろうとした。
薩摩の挑発に乗ったような格好で三田の薩摩邸を焼き討ちした幕府であるが、結局、これも直接は開戦に結びつかない。

いずれは始まったであろう戊申戦争ではあるが、薩摩も幕府も相手に刀を先に抜かせようとしていた。
特に、薩摩は相手が先に抜いてくれる必要があったのだが、結果としては、最初に手を出している。
これ以降、開戦の正当性というのは曖昧なままに本格的な戦いに突入していく。
薩摩側は、ここまで苦労して工作してきた割には、何となく開戦してしまった感がある。

しかし、逆から見ると、滝川播磨守の態度には、薩摩を開戦に踏み切らせるようなものがあったのだろう。
そして、播磨守は、まさかここで薩摩が発砲してくるとは考えていなかったに違いない。

あまり指摘されていないが、戊申戦争の幕府側の敗退は、現場指揮者、敢えて言えば、滝川播磨守の判断ミスが大きな要因になっているといえる。



昔の小枝橋は、今はコンクリートの橋となっていて昔の面影はない。現場には、石で出来た標識と簡単な説明板が残るのみである。


南の方角を眺める。昔は田んぼ道だったいうが、幕府軍はその田舎の道を歩いて来たのだろう。緊迫感が薄く、ここで攻撃されるとは思っていなかったと想像される。


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