木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

南方熊楠②

2007年07月05日 | ちょっと昔の話
  天才として喧伝されることが多い熊楠ではあるが、大学予備校の時、代数の点が足りずに落第したのも事実である。下から数えた方が早かった成績は、枠にはめられることのきらいだった熊楠がほとんど勉強していないで試験に臨むのだから、当然だ。だが、いい点をとろうなどとはサラサラ思っていなかった熊楠もまさか落第するとは、考えていなかったらしい。
 この落第で、彼は神経症になるほど、落ち込んでしまい、大学への道も断念してしまうのである。
 彼は渡航を決意し、アメリカからイギリスへと渡るが、彼が一躍有名になったのは、科学雑誌「ネーチャー」であるが、これは間違って伝えられるように懸賞論文ではなく、読者の質問に読者が答えるというコーナーであった。
 とはいえ、「ネーチャー」に署名入りの論文が掲載されることは、名誉なことには変わりなく、熊楠は、それからというもの「ネーチャー」と「ノーツ・アンド・クィアリーズ」に積極的に投稿をするようになる。
 その実績が認められ、英国の学者とも親交を重ねていくようになるが、一方でオランダの学者シュレーゲルらと派手な論争も行っていた。
 私にはこのシュレーゲルとの論争は、道場破りのような匂いを感じさせる。
 ライデン大学教授であり、ヨーロッパ一の東洋文学権威と言われた相手をうち破って、自分の名声を高めるという意図があったのも事実である。
 正式な学歴を持たない熊楠が、このような方法で名前を高めていったのは、タクティクスだと思うし、当然だと思う。入り口が違えば、最初に入っていく部屋も違う。そういった意味では、熊楠は好きで変人じみたことをしていたというよりは、選択の余地がなかったのではないか、と思える。
 ただし、一町村一神社制にしようとした神社合祀令に対して、反対運動を起こしたのは、ごくごく自然の発露ではなかっただろうか。世に言う田辺中学校講堂乱入事件も酒に酔って、乱入しようとしたら、そのまま警官に連行されただけであるが、酒でも飲まなければ乱入できなかった熊楠の不器用さが偲ばれる。
 不器用さ、といえば、柳田国男がわざわざ和歌山まで熊楠を訪ねて来たときも、熊楠は親交を結びたかったが、年下で都会派の柳田にどう接していいか分からず、泥酔してしまったという。
 さらに、熊楠の結婚は三九歳であるが、この時も、「これまで女性と接したことは皆無で」と自ら告白しているが、これは照れ返しである。
 人間関係ということでは、熊楠は、非常に不器用だったと思う。そのため傍若無人に見える行為を取らざるを得なかったこともあったのだろう。

 「南方熊楠 一切智の夢」 松居竜五 朝日新聞社
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