木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

ヴォーリズと同志社カレッジソングとカレーライス~1

2013年07月29日 | 人物伝
ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(1880年10月28日~1964年5月7日)。
アメリカ合衆国カンザス州に生まれ、日本に帰化した人物。
建築家、実業家にして熱心なプロテスタントの布教家。
彼の設計した建築物には関西学院、神戸女学院、大丸心斎橋店などが今も現存する。
と、ここまで書いてもピンと来ない人が多いと思うが、ヴォーリズの興した会社が近江兄弟社だと言ったら、ある年代以上の人には分かるかも知れない。
近江兄弟社はメンソレータムを製造・販売していた会社だ。
現在、メンソレータムはロートが販売権を持ち、近江兄弟社はメンタムを販売している。
ヴォーリズの名前は知らなくとも、メンソレータムなら大概の日本人は知っている。
近江兄弟社という会社名を風変わりな社名と捉えた人も多いのではないだろうか。わたしもそうだった。
兄弟が経営していた会社なのだろうか?
社名も変わっているし、そもそもヴォーリズとはどのような人物だったのであろう。

コロラド大学で建築学を学んでいたヴォーリズ青年は、一方でYMCA活動を熱心に行っていた。
カナダのトロントで開かれたYMCAの世界大会に参加したヴォーリズは、大会開催中に行われた講演会で中国で殉死した少年の話を聞き、天の啓示を受ける。
「お前はそこで何をしているのか」とキリストが直接語って来たかのように思った、と後にヴォーリズは回顧している。
講演会を境に、ヴォーリズは建築家としての道を捨て、宣教師への道を選ぶ。
1904年(明治38年)2月に26歳で滋賀県近江八幡市に英語の高校教師として来日。
彼が日本を選んだのは、殉教に困難な地を選んだからだという。
高校教師として生徒の信望も上々であったが、ヴォーリズの熱心な布教活動が保守的な田舎での反発を招く。
ときは、日露戦争のころである。
二年後の1906年には教職を解雇される。
不運であったが、この苦い経験が後の幸運に繋がる。

ヴォーリズは支援者の力を借りながらも京都に設計事務所を設立。
その後、シカゴでメンソレータム社の創業者A・A・ハイド氏と知り合い、日本でのメンソレータムの販売権を認められる。
ヴォーリズ合名会社を設立して実業家の道を歩むともに、近江ミッションという布教団体を創設し、近江八幡を中心とした布教活動にも力を入れる。

ヴォーリズの会社が一層の発展を遂げるのは、1920年、メンソレータムを販売するようになってからである。
近江セールズ株式会社を設立し、設計とメンソレータムの販売を二本の柱とする。
ヴォーリズがメンソレータムの販売権を得てから、日本での販売が10年もの日数を要したのは、設計の仕事、布教活動に多忙を極めた点と、メンソレータムが日本の風土に受け入れられるかはっきりと分からなかったからであろう。
実際、売りだした当時はまったく売れなかった。
価格も12g入りが現在の価格に換算して千円程度で、現在のメンタムの定価の3倍以上だった。
この価格で売れれば、ボロ儲けといってもいいくらいの高収益である。
当初は売れなかったメンソレータムは、次第に売れ行きを伸ばし、国内生産しなければ間に合わないほどになった。
ヴォーリズは、事業によって得たこの収益を何に使っていたのだろうか。
ヴォーリズが会社で得た収益を何に使っていたかを知ることが、近江兄弟社の社名の由来や、彼の考え方に繋がる。

~続く


大正12年に建てられた今津にある旧百三十国立銀行(現・滋賀銀行)。現在はヴォーリズ資料館として一般開放されている。

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