木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

武士の禄

2015年04月21日 | 江戸の話
尾張六十一万九千石とか、紀州五十五万五千石と称されるが、この「~石」というのは、実収入ではない。
いわば身分格式を表す公称のようなものだった。
水戸は三十五万石と称せれるが、天保年間に藤田東湖が記したところによると、歳入籾四十二万石とある。
このうち半分が行政費と藩主一族の生活に、残り半分が藩士の禄に充てられた。

百石取の藩士といっても、まるまる百石が取り分となるわけではなかった。
山川菊栄の「幕末の水戸藩」にその辺の事情が詳しく記載されている。

文公、武公の時代までは百石取りの禄は籾にて七十二俵渡さる。(略)烈公の時に至りてお借り上げと称し、四表引きにて六十八俵となりしが、一ヵ年限りの借り上げにもあらず、三年、五年と続くこともあり。この百石の取米をことごとく売却して代金二十両を得ること能わず。嘉永、安政の頃は金十両に籾四十俵内外の相場なれば、六十八俵にては二十両に足らず。この内より役金百石につき二分納むるなり。

禄高は、玄米支給と籾支給があった。
当然、玄米のほうが有利であるが、水戸藩は籾支給だった。
お借り上げとは、給料カットである。百石取といっても、なんだかんだと削られ、水戸では実際は年間の収入が二十両に満たない。
これでは生活が苦しくなるのも無理がない。
さらに、下記のような記述もある。

禄の支給には地方(じがた・知行取り)と物成りとあり、両方組み合わせたのもあった。知行取りは中以上の武士に多く、それらは一定の地域を知行所としてわりあてられ、そこから直接に年貢を禄として受け取る地頭であり、物成りは藩が農民からとりたてた御蔵米の中から扶持を受ける俸給生活者であった。


また、別のところでは、

(禄は)大身の場合は大部分は籾、一部分は現金、小身の場合は現金で支給された。お役料何石という米本位の計算でも、その年の米価に応じて金に換算し、現金で支給されるのが普通だっという。これをお切米とも、切符米ともいい、隔月に渡された。

千石取といえば、随分高給取のように思うが、「幕末の水戸」では千石取の家老・肥田和泉守政のエピソードを紹介している。
それによると、和泉守が冬の寒い日、「家の者に暖かいうどんをふるまってやってほしい」と執事に命じたところ、「いま、家中には五十文しかないので、とても無理です」という返事があったそうだ。
ついでに、あまりにも貧乏で、梅干ばかり食べていたので、梅が水戸に名物になったという。
本当かな、と思わぬでもないが、時代が下るにつれ、武士の生活が困窮していったのは間違いない。

参考文献:「幕末の水戸藩」山川菊栄(岩波書店)


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武士の言葉

2015年04月19日 | 言葉について
江戸時代は、身分社会であったから、当然、武士の言葉遣いに関しても、厳格な規定があった。
規定というよりも、常識、あるいは暗黙の了解といったもので、破る者はなかった。
この辺りに事情は鈴木丹士郎氏の「江戸の声」に詳しい。
本書は、矢田挿雲の「江戸から東京へ」を引用して、江戸留守居役の言葉遣いを説明している。
古参の留守居役は、新参者を「貴様」、同輩を「お手前様」、他藩主を「お家様」、自分の藩主を主人、旦那様と呼ぶとしている。
新参者が古参者を「お手前様」などと呼ぼうものなら、大目玉を食らったそうだ。
また、別のところでは、家中の武士の二人称は「貴殿」、一人称は「身ども」が代表的だと書いている。
「わたくし」「それがし」なども使われるが、固い言葉であり、「拙者」も同様に改まった言葉である。
文尾も呼応しており、人称が「おれ」となると文末には「だ」や「じゃ」が、「拙者」の場合は「候」「ござる」、「私」「身ども」「それがし」らでは、「だ」「じゃ」「候」「ござる」が混在しているとしている。
勝海舟はべらんめい口調で有名だったが、私的な場では、武士も町人もあまり言葉遣いは変わらなかったようである。
特に、遊郭などへ行って武士言葉を遣うのは、田舎者とされたようだ。
殿様を「旦那様」と呼び、自分を「おれ」と言うのでは、武士のイメージとは違うが、実態はそんなものだった。

参考資料
「武士の言葉」鈴木丹士郎(教育出版社)
「東海道膝栗毛」十返舎一九(学研)

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黄八丈は同心の定服だったか?

2015年04月12日 | 江戸の暮らし
どこぞのホームページを見ていたら、町廻同心の定服が「羽織の下に黄八丈」という表現があって引っかかった。
さっそく、手元の「江戸町奉行所辞典」を引いてみる。

定服としては黒の紋付羽織に白衣帯刀である。
白衣とは白い着物のことではなく熨斗目以外の着物の着流しをいうのである。
廻方同心あたりになると、竜紋の裏のついた三つ紋付の黒羽織を、俗にいう巻羽織といって裾を内側にめくり上げて端を帯に鋏み、現在の茶羽織のように短く着るのである。これは活動によいし、粋に見える。
夏は黒の絽か紗の羽織をつける。下は格子か縞の着流しで、帯は下のほうにしめ、懐中には懐紙、財布、十手を入れてふくらまし、身幅は女幅にして狭くし裾を割れやすくしてある。颯爽としたスタイルで足さばきも良く雪駄をはいて歩く。

とあり、羽織の下の着物は定めがないと分かる。

天保年間に発刊された「守貞謾考」によると、八丈縞は、

今世、男用は武士、医師等稀にこれを着すなり。御殿女中、上輩の褻服、下輩は晴服に着すこと専らなり。

とある。つまり、男は滅多に着ず、女性は比較的身分の高いものは勤め着に、庶民は晴れ着にしていた。
黄八丈は染色に手間が掛かり、かなり高価であった。
粋を自負する定町廻りの同心が着たかもしれないが、黄八丈が定服であったという確かな記述には行き着かなった。

医者が黄八丈を着たのは、黄色が不浄の色だからであり、定町廻りも、それに倣ったという説もあるが、真偽は分からない。


八丈は、黄色の黄八丈が有名であったが、茶色や黒色の八丈もある。
また、幕末から明治に掛けて、八丈の人気が上がると、八丈島だけでは生産が間に合わず、他の地域でも作られるようになったため、八丈島で作られたものを特に「本場八丈」といって区別したという。
いま、インターネットでみても「本場八丈」は反物で三〇万円以上する高級品だ。





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殿さまのお言葉

2015年02月22日 | 江戸の話
江戸時代、殿さまは、家臣に対してどのような言葉を話していたのだろうか。
現代で言うなら、天皇陛下を当てはめると理解が深まる。
天皇陛下は寡黙である。
江戸時代の殿さまも、とにかく寡黙だ。

大垣藩は、戸田家が代々、殿さまを勤めた。
戸田氏教が参勤交代から帰る際、国家老三人が出迎えに出た。
殿さまの言葉は、
「出たか、との御意これあり」との伝言。
登城し、お目見えすると、
「久しうで」
の一言。
上京の際、見送りに出ると、
「息災でとの御意これあり」
の伝言。
片言だけで、主語も述語もない。
戸田氏教は、宝暦から文化年間、江戸中期の人物でえあり、かつ老中主座を勤めたほどの大物。
江戸末期ともなると、片言だけしか話さない殿さまでは機能しなかったであろうが、この頃はこんなものだったのかも知れない。

だが、下って幕末、最後の藩主・戸田氏彬の正室である大栄院の話がある。

上段の間で威儀を正して座っている大栄院に向かって、頭を下げ畳に手をついて、「ご機嫌うるわしく新年をお迎えあらっしゃいまして誠におめでたく恐悦に存じ奉りまする」と、教えられたとおりに申し上げると、ただ一言「めでとう」と仰せられてお立ちになった。

家老であった戸田直温の回想である。
「おめでとう」の「お」の字まで取っているところに封建主義の徹底した上下関係が感じられる。


参考文献:殿様のくらし 清水進 大垣市文化財保護協会


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太秦ライムライトと福本清三さん

2015年02月01日 | 映画レビュー
「地元を大河ドラマの舞台に」といった活動を行っている地域は少なくない。
「八重の桜」だとか「黒田官兵衛」などのヒットを見ても分かるように、経済効果があるのだろう。
しかし、気がつくと、「水戸黄門」の放映も終わり、NHK以外で時代劇はほんの1本か、2本しか放映していない。
「時代劇ブーム」と言われているのは本当なのだろうか。
自分自身、時代小説を書いていながら、時代劇はあまり観ていなかったので、時代劇衰退の原因はよく分からない。
ただ一つ、勧善懲悪の時代劇において「正義の主人公」を演じることのできる説得力のある俳優が少なくなったことが要因の一つのように思えてならない。

「太秦ライムライト」に主演した福本清三さんは、説得力のある悪役だ。
福本清三さんがにわかに脚光を浴びだすようになったのは、「ラスト・サムライ」に出演した頃からである。
「ラスト・サムライ」は2003年の映画だから、早いものでもう10年以上も前の映画になった。
その頃はまだ、「水戸黄門」も放映されていたのだから、隔世の感がある。

脇役に徹して何十年。
どう斬られれば主役が引き立つか、を考えて稽古する毎日。
福本さんの殺陣の切れは、さすがに一流だ。
斬られたあとで、後ろにエビ反りになりながら倒れるところなど、凄い。
よほど身体が柔らかくないとできない。日頃の精進あっての所作だ。
「どこかで誰かが見ていてくれる」
福本さん自らの著書のタイトルともなった言葉が映画の中にも出て来る。
本当、そうだよなあ。
努力がすぐに認められるとは限らない。
実際は、どんなに努力しても、認められない場合の方が多い。
そんなとき、どうするのか。
諦めてしまうのか。自棄になるのか。
それとも、努力を続けるのか。
努力が、自分の思い描いていた結果を導き出してくれるときばかりではないが、夢があるなら、諦め悪く一歩一歩努力していくしかない。

ところで、映画の中で、殺陣のシーンをCG合成で撮ろうとする監督が出て来るが、本当にそんな日が来るのかもしれない。
そんなものは、時代劇とは呼びたくないが。

アメリカでも西部劇は衰退の一途のような気がするが、福本さんと、ハリウッドの最後の西部劇スター、たとえば、クリント・イーストウッドが、東京で会ってお互いに何かを感じるって映画は作れないかな。


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SONYと味噌

2015年01月20日 | 江戸の人物
盛田久左衛門という人物をご存じだろうか。
久左衛門は踏襲名であるので、15代・盛田久左衛門。
正式には、盛田久左衛門昭夫。
正解は、SONYの創立者である盛田昭夫氏である。

今は株式会社となっている盛田は、1665年創業の酒蔵である。
後に、味噌も作り始め、明治になると、醤油を製造するようになる。
愛知県知多半島にある常滑市小鈴谷が工場所在地。
分かりやすく言うと中部セントレア空港の近くである。
すぐ目の前には、海が広がる。
昭夫氏は、名古屋の旧武家地である東区の白壁町の生まれで、育ちも同地。
夏の間は、小鈴谷に来ていた。
当地には、盛田が創った鈴渓(れいけい)義塾という私塾があったから、昭夫氏は、小鈴谷では、のんびりとスイカをかじっている暇もなく、勉強に励んでいたのではないだろうか。

酒、味噌、醤油といった日本独特の文化から、SONYが生まれたというのは非常に興味深い。
これらの業種は、当時、非常に儲かった産業であり、昭夫氏も生まれながらの、ブルジョアであり、経営者であったと言える。
盛田家は、江戸時代、イメージ戦略を計り、灘の酒に対抗するブランド力の立ち上げに成功したし、明治に入ってから、いちはやくワインをつくりだしたりと、進取の気性には富んでいた。
ちなみに、東海地区にはCOCOストアというコンビニがあるが、このコンビニは、日本で最も早くできたコンビニと言われている。COCOストアは、早い時期に店内での調理を行っていたし、各地の名産を扱ったりするなど、結構面白いことをやっているが、このコンビニを作ったのも、盛田である。

こう見て来ると、酒蔵がSONYを創ったというのは、突拍子もないことのようでいて、その実、盛田の家風だったのかも知れないと思えてくる。


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昭夫氏とシンディ・ローパー。二人の人柄をしのばせるようないいショット!
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一万石大名の給料

2014年11月02日 | 江戸の話
武士は九千九百九十九石までは旗本・御家人であるが、ここに一石増えて、万石取となると、大名となる。
大名は旗本とはあらゆる規定、待遇が違ってくる。
一万石級の大名(五万石以下の大名を小大名と呼ぶことも多かった)の暮らし向きはどうだったのだろう。

武士には軍役といって禄高に応じて兵力を維持しなければならなかった。
一万石の大名だと軍役は二百二十五人。平時でも二百名くらいの人員が必要であった。
会社にたとえるなら、社員二百名、アルバイト二十五名といったところか。

石高が収入だが、一万石取といっても全てを得られる訳ではない。
これは領地での生産量であり、四公六民とすると、収入は四千石。

重役に当たる家老級の給料がだいたい二百石。一万石クラスの家だと家老の数は三名くらい。合計で六百石。
江戸藩邸と領地の費用は石高の十分の一程度が割り当てられ、比率は江戸七:国許三程度。
江戸二千八百石、領地千二百石。
殿さまの給料は収入の十分の一を欠け、三百五十石くらいである。

米価を用いた貨幣価値は江戸前期と後期では大きく違うが、仮に一石=十万円とすると、

総収入     4億円


江戸藩邸諸費用 2,800万円
領地諸費用   1,200万円

藩主の給料   3,500万円
重役の給料   6,000万円
藩士の給料 2億6,500万円

藩士の給料は単純に二百名で頭割りすると、年間一人あたり132.5万円にしかならない。
このため、藩士の数を減らす諸藩も多く、幕府に定められた軍役数を確保していた小藩は少なかった。

三河国・奥殿藩(一万六千石)の藩士数を見ると、二百四人とある。
家禄から見ると、兵役数(225名)より少ないが、この数はかなり真っ当だといえる。

大名の年俸3,500万円は多いようにも思うが、様々な経費計上が認められている現代企業とは違い、ポケットマネーを出さねばならなかった場合も多かったであろうし、手放しで多いとは言えない。

参考資料:江戸幕府役職集成(雄山閣)笹間良彦
     数字で読むおもしろ日本史(日本文芸社)淡野史良

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直訴は死罪になったのか?

2014年11月01日 | 江戸の暮らし
一揆や直訴と聞くと、佐倉惣五郎に代表される義民伝説を連想する人も多いはずだ。
直訴を行うと、陳情者は必ず磔獄門に処せられたかのようなイメージである。

しかし、そのイメージは正しくはない。
江戸時代では驚くほどの数の一揆や直訴が行われていた。
それらの指導者で処分されなかった者は、処分された者よりずっと多いのである。

百姓一揆に対する処置が明文化されたのは、吉宗の治世下、寛保元年(1741年)が初めてである。

頭取死罪、名主重き追放、組頭田畑取上所払、総百姓村高に応じ過料

と厳しいものであるが、厳密に守られなかったようである。事実、一揆はこの規定ができた以降も減るどころか、増える一方だった。
しかも、この取り決めは天領(幕府直轄地)に留まるものであり、各藩内の領地の一揆まではカバーしていなかった。

「百姓と胡麻の油は絞るほど出るものなり」
と暴言を吐いたのは元文二年(1737年)勘定奉行に就任した神尾春央であり、彼は強硬に年貢増税策を推進しようとし、ある程度の成功を納めたが、農民も黙ってはいなかった。
たとえば、畿内の天領領民は年貢未進を武器に、減免の訴願を続けた。
訴願は代官所だけに留まらず、大坂町奉行、京都所司代、京都東町奉行、江戸勘定奉行、京都目付、朝廷の内大臣とあらゆるところに行い、二万人の百姓が京に集結した。
その結果、延享三年(1746年)には、妥協せざるを得なくなる。
享保以降、年貢増税政策を推進してきた幕府であったが、これ以降は大規模な年貢増税はできなかった。

訴願は今で言う訴訟のようなもので、禁止はされていなかった。
また一揆の規定もあいまいで、強訴の目的で集まったとしても取り締まりの対象とならない場合も多かった。
訴えは、
合法的訴願 → 弾圧・無視 → 領主への訴願(越訴) → 弾圧・無視 → 幕府への越訴
といった過程を経るケースが多かったが、幕府は農民から訴え出られると、意外なほどしっかりと調査を行った。
その結果、改易に処せられる領主もおり、場合によっては切腹を申しつけられる者もいた。

幕府は明和三年(1766年)から徒党禁止令を頻発するようになるが、この禁止令によると百姓一揆とは「徒党・強訴・逃散」と規定した。明和八年(1771年)五月には処罰細則も定められ、一揆鎮圧に鉄砲の使用が認可された。

しかし、百姓一揆は打ちこわしへと闘争形態を過激化して行き、減ることはなかった。
参加者も百姓だけでなく、町人、商人も加わるようになり、身分的差異が障害とならなくなっていた。

武士の経済的な危機状況が深刻化していくと、藩主と家臣団は経営者対被雇用者としての対立図式を深めることになった。
その中で、年貢の税率をどうするかという政策を巡っては多くの藩の内部で対立を招いた。
この対立は諸藩と幕府の対立にも繋がっていったため、百姓一揆には誰もが神経をとがらせた。

百姓一揆は初期は減免や不正代官の粛正を求めていたが、後期には幕府の政策そのものを否定する動きが出てきた。
たとえば、水野忠邦の「三方領地替」である。
幕府は、庄内、長岡、川越の三藩に領地替を命じたが、各藩の百姓は幕閣への度々の駕篭訴、隣接諸大名への訴願などを行い、その混然とした様は「天下の大乱と相申すべき」と表現されたものだった。
領主も訴願を抑制できず、次第に上地令反対へと向かわせていく。
その結果、幕府内部でも分裂が起き、ついに水野忠邦は罷免される。
民衆の声を力で抑えるつけるには、限界が来ていたのである。

参考資料:一揆の歴史(東京大学出版会)
     百姓一揆とその作法(吉川弘文館)保坂智



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藤川の棒鼻

2014年10月05日 | 江戸の交通
棒鼻{ぼうはな}というのは現在では使われなくなった言葉だ。
大江戸歴史講座(晋遊舎)によると、

宿駅の外れで傍示杭が立っているところ。棒端とも書く。

とある。


言葉だけでなく、棒鼻自体見ることがなくなったのだから言葉も使われなくなって当然だ。
愛知県岡崎市にある藤川宿跡には、棒鼻が再現されている。
東海道五十三次に描かれている藤川の棒鼻を忠実に再現していて、分かりやすい。

ちなみにこの辺りの西大平藩を統治していたのは、越前裁きで有名な大岡忠相{ただすけ}を初代藩祖とする大岡家である。
忠相は、町奉行としては初めて大名となり、万石取となった。
実際は忠相は、一回も西大平に赴いたことはなく、その後の大岡家も定府大名として江戸に留まった。

参考資料:大江戸歴史講座(晋遊舎)若桜木虔編





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吉良家の饗飯~上級武士の礼式における食事

2014年08月25日 | 江戸の暮らし
吉良家というと「忠臣蔵」で知らない者がないほど有名になった吉良上野介義央{よしひさ}の家である。
松の廊下事件で、結局、吉良家は元禄十六年(1703年)に改易になった。
その後、享保十七年(1732年)に再興がかなった。
西尾市にある歴史民俗資料館には、吉良流礼法に基づいた吉良御膳の再現フィギュアが展示されている。
上級武士のハレの場での食事が分かって興味深い。
展示によると、
本膳が

小煮物(時季のもの)、小なます(今回は鯛)、潮吸物、汁(赤味噌)、飯、焼塩、梅干、山椒。

二膳が

鮒寿司、指塩(ハモの刺身)、焼鳥(うずらの照焼)、はらみきんこ(ナマコの類)、赤味噌物(鴨汁の味噌仕立)

とある。
もっとも、展示には地元の料理店を使って現代風にアレンジしたと書いてあるので、どこからがアレンジで、どこまでが正式なものか分からないのが残念だ。
だいたい、こんなものだった、という雰囲気を再現しているのだろうか。
確かにこの献立なら、現代でも立派な贅沢として通じる。
だが、現代だったらここに天ぷらだとか、から揚げのようなハイカロリーな品目が加わるに違いない。
やはり現代は飽食の時代には違いない。





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