木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

慶応三年の水練侍

2016年11月30日 | 水泳(所感)


来る12月7日、㈱朝日新聞出版社から弊著書が発売となります。
内容は江戸時代の水泳に関するものです。
江戸時代版、スポ根もの、とも言えます。
常識から考えると、江戸時代に近代水泳に近い泳ぎがあったのは、あり得ないと思う人もいらっしゃるでしょうが、四方を海で囲まれた日本は水泳に対する関心がかなり高かったと言えます。

今回、僕が提示した泳法等は荒唐無稽のようですが、決してあり得ないことではないと思っています。

ぜひ、一回手に取ってご覧になっていただければ幸いです。


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中山道の道幅に驚く

2016年11月03日 | 江戸の交通
東海道五十三次が陽の道だとすると、中山道六十九次は陰の道である。
東海道にある大井川の渡しや七里の渡しのような川や海の難所はない代わりに、木曽の険しい山々や、冬には厳しい寒さが待ち受けていた。
現在、岐阜県にある中津川は、江戸から数えて四十五番目の宿駅である。
町並みには卯建(うだつ)の上がる商家が並び、商都としても栄えた場所で、今の景観からも往時が忍ばれる。
その中津川の中山道の途中に、非常に細い道がある。
今はほんのわずかに残っているだけで、気を付けないと見落としてしまうが、この細い道も紛れもない中山道であった。
中津川の本陣のあったあたりの道は、かつての道をなかなか忠実に再現している。
道は何回か直角に曲がっているが(枡形)、これは外部から中心部が見渡すことができないようにとの意図から為された工夫である。
前述の細い道も、細いうえにかなりの勾配が付いている。
これも一度に多くの人間が押し寄せられないようにする軍事的配慮からであった。
この細くなった場所には番人が詰め、通行人を監視した。
軽自動車も通れないくらい狭い道幅であり、一見すると「これが天下の中山道の一部か」と驚くものの、よく考えると、理にかなったものであると分かる。



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アスファルト

2016年10月01日 | 映画レビュー
久しぶりにいい映画を観た。
フランス映画の「アスファルト」。
監督は、サミエル・ベンシェトリ。
「歌え!ジャニス・ジョップリンのように」の監督である。

「ジャニス」でも奇妙なサミエル・ワールドが展開されていたが、「アスファルト」でもその世界は健在だ。
コメディなのだが、イギリス的なブラックジョークではなく、ほのぼのとした笑い。
団地の屋上にいきなりNASAの宇宙船が不時着する不条理さは、サミエル・ワールドでないとさばき切れない。
サミエルにかかれば、NASAの宇宙飛行士もエリートではなく、ただの人間。

キャスティングも魅力的。
宇宙飛行士役にマイケル・ピット。
「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」でトミー・ノーシス役を演じた「あの」俳優である。
高校生役は、ジュール・ペンシェトリ。
監督の息子だ。
母親のマリー・トランティニアンは鬼籍に入ってしまったが、サミエルとの間に生まれた子供がこんなに大きくなっているとは、何だか感慨深い。

ストーリーを重視した映画ではない。
男女二人×3組により、人生の機微のようなものを描き出す。
6人の誰もが、いずれも心に傷か、あるいは寂しさを持っていて(マイケルだけはどうか分からないが)、人と人の関わりによって、少しだけ心が休まる。
舞台設定は奇抜だが、ストーリーは淡々と進んで行く。
いきなり宇宙飛行士が訪問してこられたら、誰もが動揺するだろうが、「アスファルト」の住人は冷静である。
そのギャップがまた面白い。
サミエルの描く映画には、悪人がいないのもいい。

ヴァリア・ブルーニ・テデスキが演じる看護婦役はマリー・トランティニアンにもぴったりだったなあ、と観ていてしみじみ思った。



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さくら咲く ~ 嘉門達夫 

2016年07月30日 | 日常雑感
替え歌メドレーで有名な嘉門達夫は、イロモノっぽく見られることの多いシンガーだが、バラードには驚くほどよい曲がある。
「さくら咲く」もそのひとつ。
この歌を初めて聴いたのは、名古屋の栄歌フェスタだった。
たしか二年前だ。
そのとき、私自身も自分の「さくら」を咲かせたいと思った。
それから二年。
やっと、自分の「さくら」を咲かせることができた。
具体的な報告は後日になるが、スタートラインに立つことができた。
これからは、いままでにもまして精進しなければならないと、気を引き締めているところだ。


嘉門達夫「さくら咲く」


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参勤交代の人数

2016年04月10日 | 江戸の交通
参勤交代については、広く知られているようでいて、その実、あまり知られていない部分が多い。

「超高速! 参勤交代」によると、

参勤交代とは、全国の大名を定期的に江戸に出仕させる事により、藩の財政に負担を与え、幕府への叛乱をおさえる制度である。

と端的に述べている。つづいて、

参勤交代は武家諸法度の実質的な第一条として掲げられており、参府を渋ったり、遅れたりする大名は厳しく処断された。

とある。
実際、多くの人が参勤交代に持つイメージもこのようなものであろう。
しかし、武家諸法度で述べられているのは、下記の文言である。

大名小名江戸の交代相定るところなり。毎年夏四月中、参勤を致すべし。従者の員数、近年甚だ多し。且は国郡の費、且は人民の労(つかれ)なり。向後(きょうこう)その相応を以てこれを減少すべし。

山本博文氏も、

参勤交代は大名の経済力を削減させようと定められたものではない。この制度の本質はあくまで諸大名の将軍に対する服属儀礼であった。

と書いている。参勤交代が華美になっていったのは、大名間の見栄や競争心によるもので、幕府としては人数を縮小するように、再三申し入れを行っている。

では、行列はどのくらいの人数であったのであろうか。
これについては、幕府から享保六年(1721年)に指針が出ている。

          馬上      足軽      人足      合計
 一万石     3~4騎     20人     30人      53~54人
 五万石       7騎     60人    100人     167人 
 十万石      10騎     80人    140~150人 230人~240人
二十万石以上 15~20騎  120~130人  250~300人 385人~450人


加賀百万石前田家の大名行列は多い時は4000人を数えたというが、この指針からすると、450人でこと足りたのである。
ただし、前田家の場合は4000人の行列であっても、百石当たりの人数は0.4人である。
一方、小大名の場合は、百石当たりの人数が1.5人程度になることも多く、負担が重かった。

参勤交代の費用に目を向けると、

人足費   43%
運賃    32%
物品購入費 20%
宿泊費    5%
(文化二年、鳥取藩)


とある。

藩支出の割合でみると、

江戸入用 30%
京阪入用  2%
道中銀   3%
国許入用 20%
俸禄   45%
(文化1~15年の平均、松江藩)


となる。参勤交代に掛かる費用としては、全体の3%でしかなかったと分かる。むしろ大きいのは江戸での滞在費である。

また、参勤交代には、戦力の提供との意味合があり、常時戦場が建前だった。
であるから、殿様は夜もゆっくりと寝てはいられない。
殿様の枕元には、小姓が座っており、夜なべして軍記の類を朗読している。周囲に夜のあいだ、ずっと起きている姿勢をみせるためだった。
参勤交代が苦役であったのは、間違いない。


写真は、甲州街道小原宿本陣。
本陣といえども、殿様にとっては、安息の施設とはいえなかった。

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足を洗うの語源

2015年09月14日 | 江戸の話
「足を洗う」の語源としては、「修行僧が外の修業から寺に帰ったあと、足をあらって世俗の垢を落とす行為」から来ているとの説明が多い。
間違ってはいないと思うのだが、江戸時代の人々が「足を洗う」の語からまっさきに頭に思い浮かべたのは、仏教ではなく、「儀式」のことだった。
遊郭を出る遊女も、出る際に「儀式」を行ったが、これも僧を真似ていたのではない。
では、本当の「儀式」は何かと言うと、人別帳から帳外(人別帳から名前を外されること)となっていた者が、再び人別帳に名前を載せてもらい、常人に戻る際に行う際に行う儀式である。
復帰を希望する無宿者の親類縁者は、乞食頭の車善七に願い出て、町奉行所に人別帳への再記載届けを出してもらう。
もちろん、けっこうな金は掛かる。
所定の金額は決められていなかったが、そうやすやす納められるような額ではなく、儀式を行えるのは縁者に裕福な者がいる者であった。
金が支払われると、浅草の乞食小屋のある空き地で「儀式」が行われる。
空き地には水の入ったたらいと、湯の入ったたらいが用意される。
を行う者は、まず水の入ったたらいで身体を洗い、次に湯の入ったたらいで身体を洗う。
用意された衣服に着替え、車善七が型どおりの検分を行い、常人に戻ったことを宣言して、乞食の人別帳から名前を消す。
これが江戸時代の「足を洗う」の意味であるが、いまではほとんど語られることがない。

「時代劇のウソ・ホント」笹間良彦(遊子館)


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抜き身の刀を持って走るとき

2015年07月28日 | 江戸の武器
笹間良彦氏の「時代劇のウソ・ホント」という本を読んでいる。
面白い。
常識は往々にして忘れ去られる。
当時の人からすれば当たり前過ぎるほど、当たり前だと思っていたことは、意外に記録に残っておらず、後世になると分からなくなる場合も多い。
そんな行為のうちのひとつとして、「抜き身の刀を持ちながら走る」といった場面がある。
時代劇で主人公が複数の刺客から襲われ、逃げるシーンがある。
刺客は抜き身の刀を普通に持って走り回り、

「いたか?」
「どこにも、おらぬ」
「逃げ足の速い奴だ」

などという会話が交わされるのだが、笹間氏は、これらの持ち方は「デタラメ」だという。
刀を立てたり、前に出して走れば、味方に当たるかもしれないし、切っ先を下げて走れば、自分の足を切る恐れがあるからだ。

切っ先が後ろになるようにして、右肩に担ぐのが正解だ。
しかも水平にすると、後ろにいる味方を傷つける恐れがあるので、必ず斜めに担ぐ。
右の拳が、右あごよりも右肩近くになるようにして担げば、八双にも青眼にもすぐに移行できる。

単に刀を抜いて走るだけにしても、意外なくらいに知らないことがあるものだ。

「時代劇のウソ・ホント」笹間良彦(遊子館)


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徳川家康の考え方

2015年06月14日 | 徳川の話
歴史学者の奈良本辰也氏は、徳川家康を「偉大なる平凡人」と表現したが、平凡人どころか、逆境にめげない精神力はずば抜けていると思う。
戦国時代の常とはいえ、天下人となるまでの家康の周囲には死と別離の影が常に漂った。
まず、母・於大の方。
家康3歳のときに、政治的な理由から、離縁されている。ちなみに、そのとき於大はまだ十八であった。
六歳のときには、義理の祖父に裏切られ織田家の人質となる。
不幸は続く。
家康が8歳になると、父・広忠が部下の謀反に遭い、死去。
広忠は、まだ二十四歳の早世である。
この御、しばらくは、身内の死と縁を切ることができたが、試練は家康三十八歳のときに再び訪れる。
長男・信康と、側室・築山殿の殺害を織田信長から命じられたのである。
信康が武田方と内通しているからというのが表の理由。
真実は、信康の妻は、信長の娘・徳姫であったが、夫婦関係、嫁姑関係のこじれから、徳姫が父・信長に中傷誹謗したからだった。

家康は不屈の精神の持ち主とは言い切れない部分もある。
三方ヶ原で武田軍に大敗を喫したとき、天王寺の変を堺で聞いたとき、ともに、「もはやこれまで」と半ば諦めている。

実力だけでは天下取りにはなれないし、もちろん運だけでもなれない。
いろいろな要因が絡み合って徳川家康は天下人となり、徳川幕府が誕生したのだけれど、一番大きな原因は、やはり家康その人の考え方だろう。
堺屋太一は、「家康ほど明確な政治指針を持っていた武将はいない」と言っている。
関ヶ原の戦いで雌雄を決した石田三成なども、明確な指針を持っていたように思うが、もし、三成が戦に勝利して、天下人となっていたら、以後三百年も続く幕府が形成されたかどうかは、疑問が残る。
元和の時代に現代流の政治感覚を持ち込むわけにはいかないが、目標に向かう気持ちや考え方は、現代に通じる。
幼少時代に逆境であったとき、卑屈になるのでもなく、自棄になるのでもなく、前に向かって歩こうとする態度に、何かしら貴重なものを感じるのである。



写真は、清瀧寺にある信康の墓所(静岡県浜松市)

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銭湯と目黒雅叙園

2015年04月29日 | 昭和のはなし
昭和初期の頃、銭湯の脱衣所では、多くの女性が忙しく働いていたと言う。
数が多かったのは、「板の間稼ぎ」=衣服泥棒を防ぐ目的が大きかった。

この女性たちは、新潟出身者が多かった。
東京でイロハ風呂と呼ばれる四十七軒もの銭湯を経営していた新潟出身者の細川力蔵が、同郷者を雇ったからだ。
細川の経営する銭湯は、玄関から脱衣所に至るまで、天井に豪華な花鳥画を飾ってあった。
働く若い娘の愛嬌と、設備の豪華さで、はやりに流行ったという。
なかには、三十六代横綱になった羽黒岩政司なども、新潟出身であり、銭湯で働いていたことがあった。
同郷者を雇う細川式経営方法は、この頃流行となり、群馬出身者による蕎麦屋、愛知出身者によるパン屋などが次々と現れた。

自宅に風呂が設置されるようになったのは、昭和も下ってからの話であり、江戸の昔から昭和の中頃まで、銭湯はなかなか優れたビジネスであった。
たとえば、明治の時代、福沢諭吉も銭湯を経営していた。
福沢は「熱い湯は健康に悪い」といって、湯温をぬるめにしていたので、東京っ子の評判が悪かったという。
「マキをケチっている」と陰口を叩かれたが、案外、そのとおりなのかも知れない。

前述の細川はその後、目黒に一般客も入れる料亭を造る。
これが「目黒雅叙園」である、
その雅叙園も、今では外資系の経営となっている。

参考文献:骨董屋アルジの時代ばなし(翠石堂店主)

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武士の禄

2015年04月21日 | 江戸の話
尾張六十一万九千石とか、紀州五十五万五千石と称されるが、この「~石」というのは、実収入ではない。
いわば身分格式を表す公称のようなものだった。
水戸は三十五万石と称せれるが、天保年間に藤田東湖が記したところによると、歳入籾四十二万石とある。
このうち半分が行政費と藩主一族の生活に、残り半分が藩士の禄に充てられた。

百石取の藩士といっても、まるまる百石が取り分となるわけではなかった。
山川菊栄の「幕末の水戸藩」にその辺の事情が詳しく記載されている。

文公、武公の時代までは百石取りの禄は籾にて七十二俵渡さる。(略)烈公の時に至りてお借り上げと称し、四表引きにて六十八俵となりしが、一ヵ年限りの借り上げにもあらず、三年、五年と続くこともあり。この百石の取米をことごとく売却して代金二十両を得ること能わず。嘉永、安政の頃は金十両に籾四十俵内外の相場なれば、六十八俵にては二十両に足らず。この内より役金百石につき二分納むるなり。

禄高は、玄米支給と籾支給があった。
当然、玄米のほうが有利であるが、水戸藩は籾支給だった。
お借り上げとは、給料カットである。百石取といっても、なんだかんだと削られ、水戸では実際は年間の収入が二十両に満たない。
これでは生活が苦しくなるのも無理がない。
さらに、下記のような記述もある。

禄の支給には地方(じがた・知行取り)と物成りとあり、両方組み合わせたのもあった。知行取りは中以上の武士に多く、それらは一定の地域を知行所としてわりあてられ、そこから直接に年貢を禄として受け取る地頭であり、物成りは藩が農民からとりたてた御蔵米の中から扶持を受ける俸給生活者であった。


また、別のところでは、

(禄は)大身の場合は大部分は籾、一部分は現金、小身の場合は現金で支給された。お役料何石という米本位の計算でも、その年の米価に応じて金に換算し、現金で支給されるのが普通だっという。これをお切米とも、切符米ともいい、隔月に渡された。

千石取といえば、随分高給取のように思うが、「幕末の水戸」では千石取の家老・肥田和泉守政のエピソードを紹介している。
それによると、和泉守が冬の寒い日、「家の者に暖かいうどんをふるまってやってほしい」と執事に命じたところ、「いま、家中には五十文しかないので、とても無理です」という返事があったそうだ。
ついでに、あまりにも貧乏で、梅干ばかり食べていたので、梅が水戸に名物になったという。
本当かな、と思わぬでもないが、時代が下るにつれ、武士の生活が困窮していったのは間違いない。

参考文献:「幕末の水戸藩」山川菊栄(岩波書店)


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