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講演会 行列のできるラーメン店『無鉄砲の経営哲学』@木津川市加茂文化センター

木津川市加茂町商工会主催の標記講演会に参加して来ました。
当日の私のメモ書きからの要約を以下に記します。(したがって、これは公的な記録ではありません。)
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開会加茂町商工会会長あいさつ
講師:赤迫重之氏プロフィールの紹介
1968年京都市左京区生まれ。九州のラーメン店で5年間の修行の後、1998年6月7日にラーメン無鉄砲開業。
以下、講演要旨。
「幼少期・少年期」
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開会加茂町商工会会長あいさつ
講師:赤迫重之氏プロフィールの紹介
1968年京都市左京区生まれ。九州のラーメン店で5年間の修行の後、1998年6月7日にラーメン無鉄砲開業。
以下、講演要旨。
「幼少期・少年期」
- 小さい頃は体が弱く、親戚の間を転々としていた。親戚のオバちゃんからは、ちょっと変わったヤンチャな子だった。
- 父にラーメン食べに連れていってもらった思い出がある。
- 中学・高校時代は、ある運動系部活動にハマる。奈良の高校時代には友人と監督に恵まれ、この時に「努力は報われること」を学んだ。
- 部活動で奈良県第3位になったとき、大学への推薦をもらい、九州の大学へ進学。
- ところがその大学が出来たばかりの大学で、部活に燃えようにも先輩ももおらず部員は自分ひとり。そんなことだからマネキン人形運び等のアルバイトに明け暮れながら、九州の豚骨ラーメンを食べ歩いた。
- その食べ歩きの中で、「風来軒」の味に出会い強く感銘を受ける。一日の間に二度三度と足を運び、大将に顔を憶えてもらおうと、大将のお子さんにUFOキャッチャーでゲットしたぬいぐるみを度々プレゼントしたりしていた。
- 大学卒業後は和歌山の鉄鋼会社に就職し3年間を過ごす。が、風来軒のラーメンへの思いが離れない。そこで、3年目の3月15日を「さいごの日」と決め、その日で会社を辞め、何の頼りもなしにクルマで九州に行く。
- 九州に来てから一週間ほどは川原でテント生活しながら風来軒に毎日通い詰めては弟子入りを志願。あまりのしつこさに大将がついに折れてくれて、そこからラーメン店修行が始まった。
- そのラーメン店修行、最初は簡単に考えていた。しかし、餃子ひとつマトモに焼いてお客に出すことすら出来ないところから始まった。
- その後、修業の期間は特にいつまでとは決めず。自分の中では自分のラーメンが作れるまでが修行だと思っていた。
- やがて、自分が作ったラーメンをお客がきれいに食べてくれた時、自分の店を開業しようと思うようになった。
- 奈良市紀寺町に無鉄砲を開業後、最初の1年間は、お客が全然来てくれなかった。が、とにかくなんとか1年間自分の店を保たせたことは、自分の中で「勝った」という思いであった。
- その1年ぐらいたったとき、遠くからタクシーで乗り付けて来るユカタを着たお客とか、「変なお客」が来てくれるようになって後、県外から来てくださるお客さんが増えるようになっていった。
- そうした中で、自分が不安なものだから、こってりとかあっさりとか、ネギの多い目少ない目とかを、お客の好みになるべく合わせようとした。
- 無鉄砲のラーメンは自分が作り上げたラーメンでありながら、お客の好みをひとつひとつ聞くことで、「自分のラーメン」はやがて「お客のためのラーメン」になっていった。その「お客のためのラーメン」を作りたい...その一心で、無鉄砲はこれまでやって来た。
- やがて徐々にお客が増えて思ったことは「信念を曲げなければ、夢は叶うという」こと。これは無鉄砲をやった上での実感。
- 自分のポリシーは「有言実行」である。そして「夢は叶う」。
- 自分はきっと、ラーメンでお客と会話している。お客が並べば並ぶほど、プレッシャーはかかる。そして、並べば並ぶほど、もっとウマいものを...と思う。きっとこれは一生続いて行くのだろうと考えている。
- 「真心に、場所は関係ない。」むしろ、(店舗としては)便利な立地より、(不便であっても)食材にふんだんに金をかけられる方がいいと考えている。
- 「一寸先は闇」というが、いずれにしても開店して後の1年間はヒマだった。その時のことを忘れないでおきたい。
- 無鉄砲のこだわり....実は各店長ともヒゲを生やしている。これは少しでもカッコ良く見えるかな?という見た目でも実はある。店によって味が変わることについては、これを(無理に)統一しようとは考えていない。統一しようとしていることは「とにかく、来てくださったお客を満足させること。」この一つだけである。
- また、人の味覚は時によって変わるものだし、食材も季節によって変わるもの。常に一定というものではない。
- 彼はもともと宝石店の店長で、私のところに来て、「一年でラーメンを教えてくれ」と言った。結局、その熱意に負け、年上の彼を弟子として受け入れ、「屋台がむしゃら」をさせるようになった。始めのうちはお客が来たが、やがてお客は減って行ってしまうような時期もあった。しかし、彼もやはり「一生懸命」だった。今、彼はシドニーで頑張っている。そのことは自分の誇りにもなっている。その後にも修行を志願しやって来る人については、その人を見て(弟子にするかどうかを)決めている。
- これまでにもやっているが、今度の週明けにもある小学校の児童を相手にラーメンづくりを教える。子どもが、ラーメンづくりを学ぶ、その時の子どもたちの目はキラキラしている。自分が子どもの頃、こういう経験はなかった。そして、子どもたちには「作り手としての喜び」を味わってほしいと考えている。
- この小学校のラーメン教室は、ウチに来てくれるお客さんが勤めているある小学校で始まった。私はラーメン屋で、彼は学校の先生だが、人に対する考え方に非常に共通するものを感じ、そこからこのラーメン教室が始まった。
- ライバル店....(転じて)同業者は仲間。ラーメン屋同士で潰し合いするとかそういうことじゃなく、でも、パクれるところはパクろうと思っている。お互い、切磋琢磨でしょう。
- 今、東京でも店をやっているが、メディアの力を利用して云々とは思っていない。自分自身は明日もTVに出ることにはなっているが、やはり(それぞれの)お店に来てくださる地元のお客が第一だ。
- 「今後の展開について」
- 昨年まで立て続けに新しい店を立ち上げて来たが、今年は新たに店を出そうとは考えていない。今年は、(それぞれの店の)地盤を固める年。東京の店は、東京でもこれだけお客に愛されているということをアピールすることが一つの目的。メディアが、そして情報が一点集中するしまいがちな東京で、関西の意地を見せたい。ちなみに東京の店も、(無鉄砲本店と同様に)「なんでこんな場所に?」というところにある。
- 奈良・紀寺町時代、台風が来ても営業していた時、周りはすべて停電になっても、自分の店だけは電気が来ていた。そして、(当時としてはその時だけだったが)近所の人たちが店に来てくれた。こういうことがあって、自分の運の強さのようなものをどこかで感じている。しかし、駐車場の問題についてはなかなか解決が難しく、今までお客さんに迷惑をかけて来たと思っている。
- 「現在」
- かつて二・三人で始まった無鉄砲は、今や160人を抱える組織になっている。それがゆえの難しさもあるにはある。
- 「ブランドを変える意味」
- 無鉄砲のラーメンは、東京では「ドロ系」と呼ばれる極限のこってりだが、美味いラーメンは「ドロ系」ばかりではない。しかしながら、ウマイもんを出そうとするという点では、どの店も一緒。「シャバトン」という名は「しゃばいトンコツ」から来る。これはある意味、自分のなかでタブーだったが、それで敢えて、ウマイもんを出そうという思いがある。
Q:有名になったのは「口コミ」で?
A:広告より、食材と考えている。おいしかったら、お客はつく。
Q:モチベーション持続の秘訣は?
A:信念。そして、前向き指向。「死ぬことはない」と思えば、何でも叶う。
Q:赤迫さんの作るラーメンが食べたい。最近は普段ドコに?
A:東京とこっちと、いつドコにいるか分からないような毎日。
Q:トンコツ以外の、例えば鶏のスープを作ってみたりしたことはありますか?
A:ある。が、トンコツのやり方ではやはり失敗する。食材の引き算も大事かも。分かりやすい味って、引き算の味かもと考えることがある。いずれにしても、「自分がこうと思う柱は曲げずに、お客の好みに最大限に合わせる」ことを大切にしている。
Q:仕事上、ONとOFFは分けている?
A:そのようにしている。が、ラーメンのことはいつも考えている。
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コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )
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一度は食べてみたいと思いました。
ブログは、お客とか書いてますが、お客様ですよね。
読みにくい文章もあります。
文章も大事です。
やっぱり成功する人の考え方はとても勉強になりますね。
細かい所まで記載されていて、ブログ主さんの熱意にも関心致しました。
ありがとうございました。