壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

「俳句は心敬」 (24)学ぶべき歌体

2011年02月13日 22時30分57秒 | Weblog
      ――わたしの周辺の未熟な人たちが、歌の道は優美で素直になお
       かつ柔和な歌体を、最上のように話し合っています。もし、そうで
       あるなら、そのような歌体を最も大切なものとして、守らなければ
       ならないのでしょうか。

      ――おおよそ、素直におだやかに詠むのはほどよく適当である。こと
       に未熟な連中のためには、簡略にしない歌体なので、よいと思う。
        だからといって、それが歌道の本筋だと思って、そればかりを大
       事に守っていると、自分で工夫して、独自の歌風を打ち立てようと
       する意欲を失い、一流の歌人になれず、中途半端なものになって
       しまうであろう。
        定家卿も、「おだやかで、華やかな表現や趣向を持たない地味な
       歌を、秀逸と承知している人が多い。しかし、これは全く見当違い
       である」と、おっしゃっている。そうであるから、さまざまな歌体を
       求めて、絶えず修業を積まなければならない道なのであろう。

        昔の人が、和歌の歌体を多くのものにたとえて言っている。
        「水晶の器に、瑠璃色の水をいっぱいに満たすように」と、言っ
       ている。これは「寒く清冽であれ」という意味である。
        「五尺の菖蒲草に水をかけたように」というのは、「濡れたよう
       に艶やかで、伸び伸びしたさま」の比喩である。
        「大内裏正面にある大極殿の高座に独りいても、あたりの広さに
       圧倒されないように」と言う。「たくましく、力強く」という心であろう。
        「大きくなったときは大空でも狭く感じ、小さくなったときは芥子
       の中にも入るように」などと言っている。これは、神通力を得た
       浄蔵・浄眼ふたりが、神変自在であったことを教えているのである。
        漢詩でも、賈島は痩せ、孟郊は寒々した詩風を好み、詠んだと言
       われる。
        紀貫之の
          思ひかね妹がりゆけば冬の夜の 
            川風寒み千鳥鳴くなり

       の名歌は、怨霊の化身といわれる観算供奉の入寂した六月二十六日
       の酷暑に吟じても、寒気がするほど感動する、と言われている。
                           (『ささめごと』・学ぶべき歌体)


      陀羅尼助とどき光れる猫柳     季 己

御忌詣

2011年02月12日 21時15分23秒 | Weblog
          早春
        浪華女や京を寒がる御忌詣     蕪 村

 「春寒」が中心ではなく、「御忌詣(ぎょきもうで)」が中心である。
 俳句においては、一句の中に主要な季語が二つあることを「季重なり」といって嫌う。中心が二つに分裂し、全体の統一が破れるからである。
 しかし、この句の場合、春寒は、御忌詣の特徴のひとつであるから、たいして不都合を感じさせない。
 「浪華女(なにわめ)」ではなくて、「」の切字で切ってあるために、浪華女というものが、相当きわだって注意をひく。海近い浪華(大坂)とは違い、山城の京都は、春になってもいつまでも底冷えがする。
 活気ある商業都市の人的交渉の生活のなかから、歴史の都市ともいうべき豪壮な寺院の多いこの地に来てみれば、それだけでも一種の寒さを覚えずにはいられなかったであろう。
 御忌のこの日、多くの京女のなかにあって、いわゆる「浪華ぶり」(現代ふう)な点で、この女が際立っている。独り強く寒さをかこつところに浪華女らしい肉体のやわらかさとでもいうべき艶気がほのめいて、長年、浪華と京の両地に親しんだ蕪村にとって、少なからず興味が感じられたのであろう。

 「御忌詣」は、京都の知恩院で、正月十八日から二十五日まで修す、浄土宗の開祖法然上人の御忌に詣でること。二十五日が正日であって、この日を京都の年中行事の最初の遊覧日として、参詣人が衣装の綺羅を競う風習があった。

 季語は「御忌詣」で春。

    「一年の最初の遊覧日として、御忌の日の知恩院はたいそうな人出である。
     着飾った女の参詣人が多いなかに、大坂からやって来たらしい垢抜けした
     女が一人混じっていて、なれない京都の余寒のきびしさにあきれ、こぼし
     つつ、ぎょうさんに艶やかな身振りをするのが目立たしかった」


      春寒の路地 置き去りの三輪車     季 己   

半空

2011年02月11日 22時42分13秒 | Weblog
          飛鳥井雅章公の、此の宿に泊らせ給ひて、
            うちひさす都も遠くなるみがた 
              はるけき海を中にへだてて
          と詠じ給ひけるを、自から書かせ給ひて
          賜はりけるよしを語るに
        京まではまだ半空や雪の雲     芭 蕉

 古歌を心にしての発想である。古歌の都をかえりみての心を、芭蕉は転じて、めざす方にはたらかせている。
 「京まではまだ半空(なかぞら)や」の持つ声調は、その気分をのせて確かであり、それを受ける「雪の雲」もどっしりと重量がある。

 「飛鳥井雅章(あすかいまさあき)」は、従一位権大納言、歌道・書道に通じ、延宝七年(1679)六十九歳で没した。
 「此の宿(しゅく)」は、東海道五十三次の宿場、鳴海(なるみ=現在の名古屋市緑区)のこと。鳴海絞りで有名。
 引用の歌の歌意は、ここ鳴海にいたって、ふりかえってみると、遙かな海を中に隔てて都も遠くなったというので、都を遠ざかるにつれてつのってくる、都を慕う心を詠んだもの。
 「まだ半空や」というのは、まだ道程の半ばであるという意。「半空」には「中空(なかぞら)」、つまり、中天の意もこめられている。

 季語は「雪」で冬。「雪の雲」は雪を降らす雲で、句に浸透して、しっかりと支える使い方である。

    「昔、飛鳥井雅章公が、この宿にやどって、都も遠くなったと嘆いて歌を詠ま
     れたが、今その鳴海の宿に自分は迎えられている。めざす都までまだ半ば、
     中空には雪雲が垂れこめ、前途はるかな思いにとざされている」


      雪を踏む音また若き女らし     季 己

「俳句は心敬」 (23)機知の妙味

2011年02月10日 20時29分00秒 | Weblog
 連歌は、和歌の上の句と下の句に相当する五・七・五の長句と、七・七の短句との唱和を基本とします。
 『万葉集』巻八の、大伴家持と尼との唱和をはじめ、古くはこの短歌合作の形、つまり、短連歌がもっぱら行なわれました。それが、院政期ごろから、多人数または単独で、長句・短句を交互に長く連ねる形、すなわち、長連歌(鎖連歌)に発達し、中世・近世にわたって流行したのです。

 このように連歌はもともと、当座の座興を中心にして発達したものです。だから、連歌に機知的なおもしろみを有する秀句が重んぜられたのは、和歌の場合より甚だしかったのは当然のことなのです。
 しかも、ここに心敬が、秀句の名歌としてあげてあるのは、みな新古今時代の歌人の歌です。
 機知の妙味が、言葉を生き生きと気のきいたリズムに仕立て上げ、それが同時に象徴的効果をも発揮しています。こういう表現法は、宮廷文化の貴重な遺産の一つでした。この方面においても心敬は、新古今から大いに学び取ろうとしたものと思われます。

 機知が言葉を操るおもしろさは、すでに二条良基時代の連歌において成功しております。
 「下紅葉ちりにまじはる宮ゐかな」は、圧縮された表現のうちに、そうした妙味をふくみ持ち、文字通り、秀句が句の生命をなしているのです。
 どちらかというと、知的な趣向を愛した心敬の作品には、こうした秀句を用いた歌をかなり多く見いだせます。彼の『芝草』の中から二、三、例をあげておきましょう。
        蓮葉は水よりこすのにほひ哉
        秋はいますゑつむ色の下葉かな
        水をさへ掬する花のながれかな


 つぎに表現法について、三大歌集の比較を簡単にまとめておきます。

        『万葉集』 (八世紀)
          ○素朴で飾り気がない
          ○感動をありのままに表現し、実感的
          ○直線的な表現
          ○力強く男性的(ますらをぶり)

        『古今和歌集』 (十世紀)
          ○飾り立てて優美
          ○技巧を用いて理知的
          ○想像的で屈折させて表現し、曲線的
          ○情趣的な美を重んじ、女性的(たをやめぶり)

        『新古今和歌集』 (十三世紀)
          ○閑寂で、しかも、あでやかな美をあらわす
          ○技巧に走り、実感から遠ざかって、難解な歌も多い
          ○余情を重んじ、現実生活から逃避して観念的、象徴的


      幸福の木に冬の日のとろとろと     季 己

「俳句は心敬」 (22)秀句の実例

2011年02月09日 22時47分23秒 | Weblog
 『ささめごと』(秀句)で心敬は、秀句の実例として、八つの和歌・発句をあげています。
 以下、これらの和歌・発句について、何と何を掛けているのか、歌の解釈を交えながら、簡単に説明しましょう。

        手にむすぶ岩井の水のあかでのみ
          春に遅るる志賀の山ごえ     後鳥羽院

 底本では、後鳥羽院の作となっていますが、『千五百番歌合』の二百八十七番左の歌で、作者は後京極良経です。
 「あかで」に、「あか=仏などに供える水。功徳水。功徳」と「飽(あ)かで=満ち足りないで」とが掛けてあります。
 「むすぶ」は「掬ぶ」で、水を手のひらで掬(すく)って汲む、の意。
     ――手で掬い汲む岩間の清水ではないが、ただひたすら飽かず思いながら、
       春遅き志賀の山越えをすることだ――

        ともしする高円山のしかすがに
          をのれ鳴きてや夏は知るらん     順徳院

 「ともし」は「照射」と書き、夏の夜、鹿をおびき寄せるために、漁師が山の木蔭などに、篝(かがり)や松明(たいまつ)をともす灯火のことです。
 「しかすがに」は、「鹿」に「しかすがに=さすがに)を掛けています。
     ――照射してある高円山に住む鹿は、さすがにやはり自分が鳴かずとも、
       夏になったことを知るのだろう――

        こぬ人をまつほの浦の夕なぎに
          やくや藻塩の身もこがれつつ     定家卿

 「まつほの浦」は、『万葉集』巻六・笠金村の長歌に「淡路島松帆の浦に」と詠まれている淡路島北端、現在の淡路町松帆の海岸。これに「待つ」を掛けてあります。
 待てども待てども現れない恋人を待つ女心のもどかしさ、恋に焦がれる思いの切なさを詠った、定家の自讃歌です。
 掛詞を、巧みに歌の本質に溶け込ませつつ駆使して、そうでなくてさえ憂いを深める夕なぎの海を背景に、藻塩を焼く煙の立ち上る浦の、そのじりじりと燃える炎のような胸の火を、象徴的雰囲気の中に立ち上らせる。心は焦慮に狂わんばかりですが、言葉はあくまで優艶という作りになっている。そのため、ある種の客観性が生じ、物語的世界が構成されています。
 定家が『万葉集』を尊重し、味読していたことは前に述べましたが、詠歌にあたっては、すっかり自らの歌詞のなかに昇華させていたのです。
     ――待てども待てども来ぬ人を待ちわびて、身も心も焼け焦がれる思いで
       いる私は、まるで松帆の浦の夕なぎに、海女たちが焼くあの藻塩のよ
       うなものです――

        いづくにか今夜は宿をかり衣
          ひもゆふ暮のみねの嵐に     定家卿

 「かり衣」は、「宿を借り」と「狩衣」を、「ひもゆふ」は、狩衣の「紐結ふ」と「日も夕」を掛けています。「狩衣」と「紐結ふ」は、一首の意に関係がありません。こういう掛詞の使い方もあります。
     ――ああ、どこに今夜は宿を借りたらよいのだろう。もう日も暮れかかり、
       峰には嵐が吹きすさんでいるのに――

        風そよぐならのを川のゆふ暮は
          みそぎぞ夏のしるしなりける     家 隆

 「ならのを川」は、風にそよぐ楢(なら)と、京都・上賀茂神社の御手洗川の異名「楢の小川」との掛詞です。
     ――風にそよぐ楢の葉、その楢の小川の夕暮れ時は秋を思わせるが、
       六月祓の御祓(みそぎ)が行なわれているのは、夏の証(あかし)
       だろうよ――

        天の川秋のひと夜の契りだに
          かた野にしかの音をや鳴くらん     家 隆

 「かた野」は、平安時代の皇室のお狩場であった河内国の「交野」に、契りだに「難し」を掛けています。
 この歌には、『伊勢物語』に「交野を狩りて、天の川のほとりに至るを題にて、歌よみてさかづきはさせ…」とある部分を念頭において、「天の川」と「交野」を詠み込んでいます。
     ――七夕星の、年に一度の契りさえ難い、その交野には、妻恋う鹿の
       鳴き声が聞こえる――

        下紅葉ちりにまじはる宮ゐかな     救 済
 「ちりにまじはる」は、和光同塵(わこうどうじん=仏が衆生救済のために、一時、仏の知徳を隠して、衆愚の塵に交わる生活をする)の意で、これに下紅葉が散る、を掛けています。
     ――和光同塵が、この地にしずまり給う北野の神の社に秋たけて、
       社頭の紅葉が今を盛りと、散り乱れている――

        菅の根の長月のこる夕べかな     周 阿
 菅の根の長しと、長月(陰暦九月)とが、掛けてあります。菅は、菅笠や蓑をつくるカヤツリ草科の草です。
     ――菅の根の長い、長月の十三夜の月が残る、夕暮れ時であるなあ――


      留学生帰るあしたの牡丹雪     季 己

「俳句は心敬」 (21)秀句

2011年02月08日 22時55分09秒 | Weblog
       ――わたしの仲間の人の中には、秀句を好んだり、嫌ったりと、いろいろ
        おります。いったい、どうあるべきものなのでしょうか。

       ――秀句、つまり掛詞や縁語を、昔の人も、歌の命である、と言っている。
        たとえば、
         「おほかたは、秀句は歌のみなもと、これを詮とすることなれど、余り
         にくさりつづけてよめば、一定にくいげがそふなり」(『八雲御抄』)
         「歌に秀句が大事にて侍る也。定家の未来記といふも、秀句のことを
         いひたる也」(『正徹物語』)
        とあるように、確かに秀句は嫌うべきものではない。
         昔から、掛詞や縁語を用いた名歌は、無数にある。和歌に堪能でない
        人は、掛詞の句などでさえ作り得ないものである。
         また、あまりに腕達者すぎて、いつもいつも掛詞や縁語ばかりを用いて
        詠む人がいるが、自分の機知小才に深入りしすぎて、もっぱらそんな秀句
        の技巧ばかりを好むと見えるのは、真似すべきことではない。
         秀句の名歌は、枚挙にいとまがない。発句もまた同じ。

         一般に、秀句すなわち掛詞や縁語がなくては、和歌や連歌は作りにくい
        ものである。だから、歌の命だと言われているのだ。そうではあるけれど
        も、秀句は、文句のもじり、駄洒落(だじゃれ)であるから、いきおい不
        真面目で俗悪下品な洒落におちいった、平凡通俗なものが多いということ
        になるのだ。そこのところの思慮分別が、大事なところなのである。
                             (『ささめごと』 秀句)


 秀句というのは、いわゆる「すぐれた句」という意味ではありません。
 『広辞苑』に、「巧みに言いかけたしゃれの句。すなわち、地口・口合の類。かるくち。」とあるように、巧みな掛詞や縁語などをいいます。
 掛詞は、一つの語に、音声の共通性を利用して二つの意味を持たせ、歌や文句の意味内容を複雑にし、豊かにするとともに、声調を整えるものでもあります。
 また、縁語は、ある語と意味上関係のある語を用いて、声調を整え、文意を豊かにし、連想によって言外に余情をただよわせる修辞法をいいます。
 縁語は、主語・述語の関係のような、文法上の関係とは異なり、連想によって導きだされた意味内容上のつながりを持つもので、多くの場合、掛詞になっています。連歌においても、重要な技巧の一つです。


      初午の行列の先 広島焼     季 己
        

具象化

2011年02月07日 20時40分06秒 | Weblog
          伊勢山田
        何の木の花とは知らず匂ひかな     芭 蕉

 伊勢・外宮(げくう)の神前にぬかずいたとき、芭蕉は、尊信する西行の古歌
        何事のおはしますをば知らねども
          かたじけなさに涙こぼるる  
(西行法師家集)
 を心にしたのである。その西行の跡にしたがって、その一語一語をかみしめつつ、神前でのかたじけなき思いを自分のものにしたのであろう。
 その思いを、折しも匂ってきた何(なに)の木のものともわからぬ花の匂いで具象化したのである。すなわち、この花の香は、さだかに何の木のそれとはいえないが、限りなく心をひかれるというのであって、そこが神前にぬかずいたときの、はっきり言いあらわせない宗教的感情と通ずるわけである。
 杉風(さんぷう)宛書簡によれば、貞享五年二月四日外宮参拝の際の作。

 「花」が季語で春。何の木の花かわからぬ微妙な香りと、なぜかわからぬ感動との感合に、高度の形象化が行なわれている。

    「伊勢の神前にぬかずくと、何の木の花の香なのかはわからぬが、何とも
     いいようのない尊い匂いが感じられる。西行上人の歌も思いあわせられ
     て、涙がこぼれるばかりに、かたじけない思いがする」


      春の雲 蕉翁をよび曾良をよび     季 己

今朝の春

2011年02月06日 22時30分56秒 | Weblog
        誰やらが形に似たり今朝の春     芭 蕉

 「今朝の春」が、何かに似ているという解もあるが、それは今朝の春を擬人化したもので、この頃としてはもう無理な解である。
 この句には、芭蕉の晴れがましくも、面はゆげな姿が出ていて、明るい感じがする。そこを読みとりたい。
 『芭蕉句選年考』に、「千那聞書に、自問自答の句とあり」と引用するが、自らいぶかしみ、自ら肯(うべな)う気持と解するとよくわかる。貞享四年(1687)春の作という。
 なお、『節用集』などによれば、「形」・「容」・「姿」には、「カタチ・スガタ」の二つの訓があるが、「形」・「容」は「カタチ」、「姿」は「スガタ」が普通であったようである。

 「今朝の春」が季語。初春を迎えてのやや改まった気持を、この季語がよく支えている。

    「新しい春を迎えたこの朝、人から贈られた正月の晴れ着を身につけてみた。
     ところが、いつもとはどこかちがった改まった気分になり、われながら、誰か
     別の人のような感じがする」


      福寿草 日向の色を重ねけり     季 己

「俳句は心敬」 (20)芭蕉と宗祇

2011年02月05日 20時39分18秒 | Weblog
        西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、
       利休が茶における、其の貫道する物は一なり。


 芭蕉の『笈の小文』にある有名な一節です。このように芭蕉は、連歌師の宗祇を敬愛していました。そして、心敬は、この宗祇の連歌の師なのです。
 心敬の作品から、発句を一つ取り上げてみましょう。

        雲は猶さだめある世の時雨かな     心 敬

     「行雲流水」のたとえのように、時雨を運ぶ雲jは絶えず移り変わって
    やまないものと言われるが、いまの乱れに乱れた世情世態にくらべれば、
    まだ、時雨がつき従う雨雲には、一定の法則がある。

 と、当時の世の乱れを嘆いたものです。応仁の乱(1467~77)をひたむきに生きた、心敬の息づかいが聞こえてくるようです。

 つぎに、心敬の弟子である宗祇の発句を見てみましょう。

        世にもふるさらに時雨のやどりかな     宗 祇

 時雨(しぐれ)の雨宿りではないが、人の一生もさらに、「あっ」という間に過ぎてゆくことだ、というほどの意ですが、『新古今和歌集』の

        世に経(ふ)るは苦しきものを槇の屋に
          やすくも過ぐる初時雨かな      二条院讃岐


     生きるということは苦しいものなのに、わたしの住む槇の家を、初時雨は
    あっという間に、たやすく降り過ぎていってしまいました。

 を踏まえたものと思われます。しかし、明らかに、心敬の発句を意識してつくっています。

 面白いことに芭蕉は、無常観を詠んだ宗祇のこの句が大好きでした。そして芭蕉自身もとうとう

        世にふるはさらに宗祇のやどり哉     芭 蕉

 人の一生は短くはかないもの、だからこそ、自分は俳諧一筋に生きるのだ、という句までつくってしまったのです。
 芭蕉は宗祇を敬愛しておりましたが、その師である心敬については一言も触れておりません。しかし、芭蕉は心敬の精神を、じかに学んでいたにちがいありません。
 心敬の『ささめごと』には、芭蕉が説いた教えと少しも変わらない精神が流れているのです。そして、心敬の連歌論と芭蕉の俳諧論の間には、密接な関係が認められるのです。


      皿けつて跳ぶ目玉焼 二月来る     季 己

「俳句は心敬」 (19)あけ烏俳句

2011年02月04日 22時29分01秒 | Weblog
 平成十六年十二月五日、「藤田あけ烏氏 お別れの会」が開かれ、引出物として、氏の本真物の句集『日の辻』をいただいた。
 『日の辻』は、この完成を待たずに、十一月五日に亡くなられた、藤田あけ烏氏の最後の句集です。この中に、あけ烏氏の遺言ともいうべき「あけ烏覚え書」が入っておりました。
 書中、「願わくば正見俳句を自認する『草の花』俳句の精神の継続をお願いしたいと考えています」とありました。
 では、『草の花』俳句の精神とは何でしょうか。「覚え書」の末尾にこうあります。

     つまり俳句は大いなる自然運行の四時の中に、あるがままの己れの身を
    しずかに置き呼吸し、己れを再確認するということ。それが俳句に遊ぶと
    いう精神性の高い文芸活動である。
     草の花の俳句の大前提は、ここにおいての活動であること。
     但し、「草の花」ではこれらの俳句に対する姿勢、価値観をすべて受け
    入れる寛容を旨とします。その理由は、これらの傾向は一個人、個人の
    内なるものが時間の経過と共に変化してくるからです。「草の花」俳壇は、
    その変遷と作家の熟成を待って育ててゆく度量を持ちます。特に指導者
    の寛容であります。
      平成十六年八月十六日
                           「草の花」主宰  藤田あけ烏

 また、「草の花」創刊当初には、次のように述べておられます。

     俳句は「わが魂」をやすらかに、しずかに詠うを旨とします。自然を心
    から愛し、その心を通しておのれ自身を問うてみる。俳句はそうした生へ
    の感謝と、自然への愛の告白であります。

 つまり、俳句は、季節と自分との関わりを詠うものなのです。
 自然を愛情をもって凝視するのです。そうして自分の魂に響いてくるものと一体になるのです。季節に浸りきるのです。そう、しずかに、素直な気持ちで。これが、「草の花」俳句の精神だと思います。

 「あけ烏」の俳号の由来は、与謝蕪村の俳諧集『あけ烏』に拠るという。それでは、あけ烏俳句が目指すのは蕪村かというと、そうではないのです。
 上記の「草の花」俳句の精神を熟読されればおわかりと思いますが、あけ烏俳句が目指すのは「心敬」なのです。

 あけ烏主宰が、「『草の花』俳句が目指すのは、芭蕉でもなければ蕪村でもない、心敬なんだ」と、私につぶやかれたのは、平成五年四月の第二日曜日のことでした。
 俳号から、蕪村だとばかり思っていたあけ烏主宰の目指すのが、私と同じ心敬とは。うれしかった。思わず万歳を叫びたくなるほど、うれしかった。
 あけ烏主宰の亡き今、無所属となり、「心敬案内人」として、心敬の文芸精神を多くの人に伝えるのが私の役目だ、と確信しております。それがそのまま、あけ烏俳句の精神の継続につながる、と思うので……


      立春の風のさきざき土うるむ     季 己

「俳句は心敬」 (18)連歌と発句

2011年02月03日 20時02分43秒 | Weblog
 連歌は、五七五の発句に始まり、七七の脇句でそれをうけ、さらに五七五の第三句に転じ、以後、七七と五七五の句を交互に連ねて、百句に至るのを原則とする長大な詩です。
 また連歌は、多人数による対話応答という形で行なわれるので、勢いそこには、いわゆる礼儀作法と共に、一定の約束事が生じます。かわされる対話の内容、表現や作法にまで、ある種の制約が生まれてくるのは当然のことです。

 連歌の基本形式は、短歌の上の句か下の句のいずれかをもって問いかければ、他がそれに応えて、形式も意味も短歌一首に完成するのが建前です。
 問いかける内容は当然、自分と他の人とに共通した眼前の客観的事象か、共感した感動的な感情でなければなりません。なぜなら、相手に通じない独りよがりな主観的感情や事象は、共通の話題になり得ないからです。
 眼前の共通した事象というのは、その季節のその時刻、時分の景物のことです。だから、「発句に時節の景物そむきたるは返す返す口惜しき事なり」となり、後世、発句や俳句に季語、つまり、季節感をあらわす語を詠み込むことになったのです。

 ところで、なぜ「発句」といったのでしょうか。
 これは、連歌の巻頭の一句、つまり、発端の句ということなのです。
 連歌は、巻頭の句以外はすべて、前の句の世界から発想されますが、発句だけは、制約を受けずに自由に詠めるのです。

 二条良基の『筑波問答』に、
        「当道の至極の大事、ただ発句にて侍るなり。発句悪ければ
         一座みなけがる。されば堪能宿老にゆづりて、末座は斟酌
         あるべき也」
 とあるように、連歌一巻の製作に当たっては、発句がまず大事であったのです。
 よい発句とは、深い詩心がこめられており、言葉は優しく、気高く、新しく、その席の作法にかなっているようなものでなければならなかったのです。
 良基の時代の理想の句は、前述の通りですが、「大やう」であることは要求されていません。これは、こまごまとした条件を気にかけないところに、「大やう」な句ぶりが存在するので、そうした句ぶりは良基の時代には、もはや過去のものだと考えられていたためにほかなりません。

 心敬においても、発句は「大やうに優々とさしのびたるもの」であることが本体であることは、一応認めていますが、それよりは、そうした固定観念に煩わされることなしに、常に、臨機応変に句作しなければならないことが説かれています。
 その点では、「あたらしく当座の儀にかなひたるを上品とは申すなり」と言っている良基の言と一致するばかりでなく、その点をさらに強調しているようにも見えます。
 けれども心敬においては、新しさの意義がだいぶ異なってきています。
 良基の場合には、時世の動向が相当鋭敏に反映しているのに対し、心敬においてはそれと無縁に、観念の世界に新しさを求めているようなところがあります。
 しかし、ここに例としてあげてある発句は、いずれも良基時代のものであり、しかもこれらの句は、きびきびした力強い句ぶりのうちに、知的な面白さをたたえている点で、心敬の理想とした句が、どのような句であったかを知るには、格好のものだと思います。

 俳句をつくるうえの参考のために、発句に関する良基・心敬の説をまとめると、おおよそ次のようになります。
  ○発句には必ず、その百韻が催された季節の語(季語)を詠み込むこと。
  ○発句は、百韻全体の風格を定め、一句として完成した形と内容をそろえるために、切字
   を用いて切らなければならない。
  ○思ったことをそのまま述べないで、巧みに趣向を凝らして句作すべきである。
  ○表現しようと意図した真意をかくして表面に出さず、すぐにはわからないようにすること。
  ○自分の型をしっかり持ち、なおかつ、それにとらわれずに臨機応変に句をつくること。
  ○平易な言葉を用いて、しかも、新鮮で工夫を凝らした、理知的な面白さのある句。


      節分の豆買ひにゆく鬼教師     季 己

「俳句は心敬」 (17)発句

2011年02月02日 22時36分43秒 | Weblog
    ――片田舎の人が言っています。「発句はおおよそ、句ぶりがせせこましく
     なく、ゆったりと一気に詠みくだしているのが本来あるべき姿だ」と。
      本当にそうでしょうか。

    ――昔の人の言葉にはこうある。
      まことに発句は、和歌の巻頭歌に並び称される句であるから、細かなこ
     とにこだわらず、ゆったりとしていて、伸び伸びした姿であるべきである。
      しかし、和歌においても、撰集などの巻頭の場合は、大様でゆったりと
     していなければならない。ただ、百首歌や五十首歌あるいは、それ以下の
     巻頭に詠む歌は、その時々の事情によって、適当に歌風を変えて詠むの
     が普通のようだ。
      したがって、さまざまの趣の巻頭歌が詠まれていて、一様ではない。

      発句も同じような題で、あちこちの会席で明け暮れ句作していることだ
     から、長(たけ)高く、大様に、するすると一気に詠まなければならない
     ものとすると、類句が続出して、かえって困ったことになるだろう。
      むかしの発句は、そんなに風趣を尽くしてまで、苦吟呻吟したとはみえ
     ない。さりとて、一つの型、風体にのみ偏っている、というわけではない。

      最近は、巻頭和歌と連歌の発句ばかりを、世間が珍重するので、晴れ
     がましいような気になって、他人の句に似せまいとして、しだいに、いろい
     ろな句柄に変わっていったのではなかろうか。
      唐でも、「文体は、三度変わる」などと『文選』にあるが、時代、時代に
     よって変化するのは当然のことである。

      つぎに巻頭歌、発句の例を少しあげておこう。
       巻頭歌
           ふる雪の蓑代衣うちきつつ
             春きにけりとおどろかれぬる     藤原敏行
          いかにねておくる朝にいふことぞ
             昨日を去年と今日を今年と      小大君
          知らざりき山より高きよはひまで
             春の霞のたつを見んとは       定 家
          八幡山三の衣の玉手箱
             ふたつはたちぬ雲よ霞よ       正 徹
 
       発 句           
           なけや今日都を庭のほととぎす      二条摂家
          いまここをほととぎすとてとをれかし     同
          あなたうと春日のみがく玉津島       周 阿
          佐保姫のかつらぎ山も春かけて      家隆卿
 
                               (『ささめごと』発句)


      不忍池 寒禽の啼きわたり     季 己

   

香に匂へ

2011年02月01日 22時45分06秒 | Weblog
          伊陽山家に、うにといふ物有り。土の底より
          掘り出でて薪とす。石にもあらず、木にもあ
          らず、黒色にしてあしき香あり。そのかみ高
          梨野也(やや)是をかがなべて曰く、本草
          (ほんぞう)に石炭と云ふ物侍る。いかに云
          ひ伝へて、この国にのみ焼(た)きならはし
          けん、いと珍し。
        香に匂へうに掘る岡の梅の花     芭 蕉

 「香に匂へ」が、古歌を彷彿させる発想で、古歌にはない、ざらざらした現実を詩化しようとしているところに、俳諧への努力が見られる。

 「うに」は「雲丹」で、伊賀・伊勢地方の方言で「泥炭」のこと。
 「そのかみ」は、事のあったその時、の意。
 「高梨野也」は、名は揚順。京都の医師で梅盛門の俳人。
 「かがなべて」は本来、日数を重ねて、の意。ただこれでは意味が通じない。「かんがへて」の誤写か、あるいは「かがなべて」を「かんがへて」の意に誤解していたものか、どちらかであろう。
 「本草」は『本草綱目』。薬物となる動物・植物・鉱物などについて記した書。

 季語は「梅の花」で春。

    「泥炭(うに)を掘っている岡のあたりは、土を掘る荒っぽい人の姿、
     掘り返された土、いやな臭いなどまことに趣がない。だが、そこに
     咲いている梅の花よ、この悪い香にまぎれることなく、よい香を放
     っていてくれよ」


      座左の絵の育つにあはせ日脚伸ぶ     季 己