壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

半空

2011年02月11日 22時42分13秒 | Weblog
          飛鳥井雅章公の、此の宿に泊らせ給ひて、
            うちひさす都も遠くなるみがた 
              はるけき海を中にへだてて
          と詠じ給ひけるを、自から書かせ給ひて
          賜はりけるよしを語るに
        京まではまだ半空や雪の雲     芭 蕉

 古歌を心にしての発想である。古歌の都をかえりみての心を、芭蕉は転じて、めざす方にはたらかせている。
 「京まではまだ半空(なかぞら)や」の持つ声調は、その気分をのせて確かであり、それを受ける「雪の雲」もどっしりと重量がある。

 「飛鳥井雅章(あすかいまさあき)」は、従一位権大納言、歌道・書道に通じ、延宝七年(1679)六十九歳で没した。
 「此の宿(しゅく)」は、東海道五十三次の宿場、鳴海(なるみ=現在の名古屋市緑区)のこと。鳴海絞りで有名。
 引用の歌の歌意は、ここ鳴海にいたって、ふりかえってみると、遙かな海を中に隔てて都も遠くなったというので、都を遠ざかるにつれてつのってくる、都を慕う心を詠んだもの。
 「まだ半空や」というのは、まだ道程の半ばであるという意。「半空」には「中空(なかぞら)」、つまり、中天の意もこめられている。

 季語は「雪」で冬。「雪の雲」は雪を降らす雲で、句に浸透して、しっかりと支える使い方である。

    「昔、飛鳥井雅章公が、この宿にやどって、都も遠くなったと嘆いて歌を詠ま
     れたが、今その鳴海の宿に自分は迎えられている。めざす都までまだ半ば、
     中空には雪雲が垂れこめ、前途はるかな思いにとざされている」


      雪を踏む音また若き女らし     季 己