壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

「俳句は心敬」 (30)友を選ぶ

2011年02月23日 22時48分47秒 | Weblog
     ――それでは、友人に尋ね、批評を受けて学ぶのはどうでしょうか。

     ――何事も思う通りにならないのがこの世である。
       心正しくない人と付き合わねばならないのも、仕方のないことではある。
       だが、はなはだ荒々しく、嘘で飾り立てた心の浅い輩(やから)と交際し
      なければならないのは、何ともつらく残念なことである。
       心を澄ませ、もっぱらその境地に没入すべき座にも、この世の無常を思い
      しめていない人が、一人二人いると、その席はまったく興ざめなものとなっ
      てしまう。ことに末頼もしい若者らは、特に気をつける必要がある。

       麻の中の蓬は、力を加えなくても自然とまっすぐ伸びる、というたとえが
      あるように、どんなに拙い心の持ち主であっても、善き友と慣れ親しんでい
      ると、自然と、素直で心正しい人になるものだ。

       王子猷は、雪の降った夜、はるかの波に棹をさして、興を求めて戴安道を
      尋ねたところ、山の端に月が隠れてしまった。
       「友と一緒にこの月を楽しもうとやってきたが、もう興ざめだ」といって、
      友人に逢わずに、その友人の家の門から帰ってきてしまった。なんと、艶の
      深いことであろう。

       孟子の母は、子を思うが故に、三度、家をかえたという。

       琴の名手 伯牙は、友の子期が亡くなったと聞き、「もう、真に聴いてくれ
      る人がいなくなってしまったから」といって、琴の弦を断ち切ってしまった。
       琴の音を聴き知る友に逢いがたきことを、嘆き悲しんだからである。

       思いやりがあり、私心のない人は、心の底から人を愛することができ、また、
      人を憎むこともできると、かの孔子も言っている。

       その父親のことを知りたければ、その子を見れば分かる。その人のことを知
      ろうと思うならば、その友を見よという。

       善き友が身近にいることが一番だと、仏法にもある。
       万物すべてが、因と縁の作用によって生ずるものゆえ、そのもの独自の本性は
      本来は存在しないのだ。つまり人は、身近にいる人、あるいは出会う人によっ
      て、どのようにでも変わる、ということだ。それゆえ、軽く話を交わすような友で
      あっても、よくよくその人を選ぶべき必要があるのだ。

       風雅の道に長(た)けた人は、桜の花の下でほんの半日もてなした客や、秋
      の月の夜にたった一夜だけ出会う友であっても、優しく美しい心を持った友は、
      忘れがたく、思い出に残るものである。

       我が師、清岩和尚は常に語っておられた。「雨風の強い日、月や雪が美しい
      夜も、今頃あの人はどうしているだろうと、和歌の道の友のことだけを思い、
      偲び明かしている」と。なんと情の深いことであろう。

       また、つまらぬ連中は、和歌・連歌の道に限らず、どの道においても邪道に
      陥り、人を誹謗することが多い。
       じわじわとくるような悪口や、肌身に受けるような痛切な訴えには、人は動
      かされやすいものだ。だが、よく判断できて、それらが通用しないようなら、
      聡明といってよいだろう。そういう聡明な友を持ちたいものである。
                          (『ささめごと』 友を選ぶべきこと)


      片減りの靴のうしろを猫の夫     季 己