壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

「俳句は心敬」 (33)続・四つの楽しみ

2011年02月26日 21時21分50秒 | Weblog
         ③主宰の講評を聴く楽しみ

 選句の次に大切なことは、主宰あるいはその句会の指導者の講評を、熱心に聴くことです。漫然と聞いているのはだめです。しっかりと「聴く」のです。以下のことに重点を置いて、熱心に聴いてください。
      ア、自分には分からない句の講評
      イ、良さの分からない句の講評
      ウ、講評を通しての俳句本質論
      エ、自分も採った句を、どう評価し、どう鑑賞するか

 自分の句が一句も選ばれないと、講評に耳を傾けないどころか、隣の人と私語をはじめ、熱心に聴く人の邪魔をする輩がいます。
 これは結局、採られたか、採られないかだけのことで句会に来ているだけで、人様の句の講評など聞く気のない者です。こういう人は生涯、中途半端なベテランで終わるので、心敬ならずとも、友としたくない人です。

         ④俳句の情報を知る楽しみ

 句会では選句が始まるまでは、おしゃべりも許されるし、冗談も言い合えます。この自由な時間を利用して、俳句の情報を交換するのも、また楽しいことです。
 先輩に、句作の上での悩みを相談するもよし、スランプの抜け出し方を聞くのもよし、話題は際限なくあるものです。
 もし、時間がなくなったら続きは、句会終了後の飲み会でしましょう。もっと盛り上がり、楽しくなることでしょう。

 私にとっての句会は、主宰との真剣勝負でした。
 結社賞を頂いた頃から、主宰の特選はおろか、並選にも採られなくなったのです。句会後の飲み会で理由を尋ねたところ、「H(私のこと)の句だと分かったから採らなかった。出来は悪くないよ」とだけおっしゃったのです。
 あるときまで、私も主宰の作品を採れたことに喜びを感じていました。しかし、そのうちに主宰の作品だなと感じると、わざと採らないようにしていたのです。そして「先生の作品だと分かったので、採りませんでした」と、平然と言ったものでした。

 それからの私は必死でした。何とかして、一句でも主宰に採らせよう、主宰の句は一句でも採るまい……と。
 そうしてまた、主宰に並選、特選と採られたときの喜びを、そして主宰の句を採らされてしまったときの喜びを、今でも忘れません。

 虚子に、次のような言葉があります。
    「私は多くの人が選んだ句を独り選ばない場合が多い。そういう場合に其の人は
     私に感謝の言葉をよせたことを余り聞かない。が、実はその場合こそ私の選を
     信頼して私に感謝の辞をよせるべきかもしらぬ。句を選ばない親切が分かるよ
     うになれば一人前である」
 何とも凄(すご)い言葉です。


     大観の篝のごとき山火かな     季 己