壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

「俳句は心敬」 (24)学ぶべき歌体

2011年02月13日 22時30分57秒 | Weblog
      ――わたしの周辺の未熟な人たちが、歌の道は優美で素直になお
       かつ柔和な歌体を、最上のように話し合っています。もし、そうで
       あるなら、そのような歌体を最も大切なものとして、守らなければ
       ならないのでしょうか。

      ――おおよそ、素直におだやかに詠むのはほどよく適当である。こと
       に未熟な連中のためには、簡略にしない歌体なので、よいと思う。
        だからといって、それが歌道の本筋だと思って、そればかりを大
       事に守っていると、自分で工夫して、独自の歌風を打ち立てようと
       する意欲を失い、一流の歌人になれず、中途半端なものになって
       しまうであろう。
        定家卿も、「おだやかで、華やかな表現や趣向を持たない地味な
       歌を、秀逸と承知している人が多い。しかし、これは全く見当違い
       である」と、おっしゃっている。そうであるから、さまざまな歌体を
       求めて、絶えず修業を積まなければならない道なのであろう。

        昔の人が、和歌の歌体を多くのものにたとえて言っている。
        「水晶の器に、瑠璃色の水をいっぱいに満たすように」と、言っ
       ている。これは「寒く清冽であれ」という意味である。
        「五尺の菖蒲草に水をかけたように」というのは、「濡れたよう
       に艶やかで、伸び伸びしたさま」の比喩である。
        「大内裏正面にある大極殿の高座に独りいても、あたりの広さに
       圧倒されないように」と言う。「たくましく、力強く」という心であろう。
        「大きくなったときは大空でも狭く感じ、小さくなったときは芥子
       の中にも入るように」などと言っている。これは、神通力を得た
       浄蔵・浄眼ふたりが、神変自在であったことを教えているのである。
        漢詩でも、賈島は痩せ、孟郊は寒々した詩風を好み、詠んだと言
       われる。
        紀貫之の
          思ひかね妹がりゆけば冬の夜の 
            川風寒み千鳥鳴くなり

       の名歌は、怨霊の化身といわれる観算供奉の入寂した六月二十六日
       の酷暑に吟じても、寒気がするほど感動する、と言われている。
                           (『ささめごと』・学ぶべき歌体)


      陀羅尼助とどき光れる猫柳     季 己