壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

「俳句は心敬」 (29)正しい教え

2011年02月20日 22時13分55秒 | Weblog
 ――一いったい連歌は、この道を真に体得した古人について学ぶべきものなのでしょうか、
   それとも、連歌の一座で、その場その場の経験によって、修業してゆくべきものなので
   しょうか。

 この問いに対して心敬は、正しい教えを受けることなしには、いかに経験を重ね、修業を積んでも無駄だというのです。
 連歌のような集団の文学では、古書を友として、ひとりで修業することは、初学の場合ほとんど不可能です。だから、一座に同席して、経験を重ねてゆくのが自然の形です。できることなら、堪能の士と同席して、経験を積むのが理想的な稽古の仕方なのです。
 しかし、心敬は『ささめごと』の巻末においても、その頃の連歌会の混乱ぶりを説いて、慨嘆のあまり絶望的な言葉を述べているくらいですから、聡明で徳の高い人の一座する連歌の座が、あちこちに存在するとは思っていません。
 したがって、はなはだ遠回りの方法のようでありながら、やはり断固として、古人を師とすべきことを説いているのです。

 「ふるきを尋ねて新しきを知れ」とは、広辞苑に「昔の物事を研究し吟味して、そこから新しい知識や見解を得ること」とあるように、「古人の求めたところを学んで、新風を開拓せよ」ということです。しかし、それはまことに困難な道です。
 連歌においては、主として集団の気分によって自己の形成が行なわれ、環境の力が決定的です。誤った環境では、誤った自己しか形成できません。そして、そのことは極力避けねばなりません。ですから、古人の懐紙を友とし、古人の精神に触れることによって、自己をつくりあげてゆくべきだ、と心敬は言うのです。

 さて、俳句の場合はどうでしょうか。
 たいていの場合、どこかの結社に所属するのがふつうです。結社は、主宰を中心に、結社誌を発行し、句会を開きます。結社は、創作と発表の場であると同時に、俳人の養成機関でもあるのです。ですから、俳句の師を選ぶということは、結社を選ぶということにもなります。
 現在どこかの結社に所属されている方は、そのままその結社で勉強されるのがよいでしょう。始終、結社を代えることはおすすめできません。
 「石の上にも三年」というたとえがあるように、少なくとも三年間は懸命に学んでください。仕方なくではなく、懸命にです。それでもその結社(主宰)が嫌でしたら、また考えましょう。

 どこの結社に行けばよいのか分からない方は、図書館へ行ってください。そして最新版の『俳句年鑑』などを借りましょう。
 年鑑には百花繚乱、何千という句がひしめき合っています。その中に、「これはいいな」とか、「こういう句を作ってみたい」と思われるような句があったでしょうか。あれば、その句の作者が所属する結社へ入るのがいいでしょう。
 ただ、その結社が、あなたのお住まいからあまりにも遠すぎるのは考え物です。というのは、遠すぎると句会や吟行会に出席できないからです。俳句の力は句会によって決まる、といっても過言ではありません。結社誌にただ投句しているだけでは、なかなか上手にはなれません。
 句会に出て、先達、つまり主宰や幹部同人の方たちに直接教えを乞うのが、俳句上達のコツだと思います。

 私自身のことを申し上げれば、結社誌の編集をしたことが、一番為になったと思っております。毎月、三千~四千句に眼を通し、千句近くの主宰の添削をじかに見ることが出来るのです。こんな幸せはなかったと、今でも感謝しております。

 自分が目指す俳句、自分が求める俳句を理解し、導いてくれる指導者がいる結社、それが最高だと思います。


      春寒の炬燵に母の無想かな     季 己