「漢詩にも…」において諸本は、「孟浩」を「孟浩然」としますが、『祭柳子玉文』に「郊ハ寒ク島ハ痩セ」とありますので、私は、「孟郊」を「孟浩」と誤ったものと見ています。孟郊・賈島(かとう)ともに中唐の詩人です。
遊 子 吟(ゆうしぎん) 孟 郊(もうこう)
慈母手中線 慈母手中の線 慈悲深い母は、手にある糸で、
遊子身上衣 遊子身上の衣 旅に出る息子のために衣服を縫う。
臨行密密縫 行くに臨んで密密に縫う 息子の旅立ちに際し、母は一針一針に
思いをこめて縫う。
意恐遅遅帰 意は恐る遅遅たる帰りを 心中、帰って来るのが遅くなりはしな
いかと、心配しながら。
誰言寸草心 誰か言う寸草の心の 一寸の草のように愛を受けて成長した
子が、
報得三春暉 三春の暉に報い得んとは 春の陽光のような母の恩に報い得るな
どと、誰が言えようか。
この詩は、暖かいおだやかな作品ですが、孟郊の本領はむしろ思考をとぎすまし、鬼気迫るふうに歌いあげた作品にあります。一例として、彼の五言古詩「峡哀十首」のうちの第四首の一部分の口語訳を掲げておきます。
険阻な三峡には、死者のこわれた魂が一点、二点と、
数百年もの間、ひそかに凝り固まっている。
峡谷にさす日の光は、いつも薄暗くて、昼になったことがないようだ。
険しい峡谷は、犠牲者を待って、飢えたよだれをたらしている。
寒々とした詩風により、友人孟郊と並び称せられた賈唐は、あるとき、「鳥は宿る池中の樹、僧は推す月下の門」という対句を得、「僧は推す」がよいか、「僧は敲(たた)く」がよいかと思いあぐね、推したり、敲いたりする仕草をして歩くうち、韓愈の行列にぶつかりましたが、非礼を許され、「敲の字がよい」と評された。この話は、「推敲」の故事として名高い。
渡 桑 乾(桑乾を渡る) 賈 島(かとう)
客舎幷州已十霜 幷州(へいしゅう)に客舎して已に十霜(じっそう)
帰心日夜憶咸陽 帰心日夜(きしんにちや)咸陽(かんよう)を憶(おも)う
無端更渡桑乾水 端なくも更に渡る桑乾の水
却望幷州是故郷 却(かえ)って幷州を望めば是れ故郷
幷州での旅暮らしも、すでに十年になった。
その間、日ごと夜ごとに帰心はつのるばかりで、都の長安を思いやってきた。
ところが今、思いがけずまたもや桑乾の流れを渡り、別の任地に旅立つことになった。
幷州を望みやれば、仮の宿りと思ったその町が、かえって故郷のように懐かしまれる。
芭蕉の「秋十年(ととせ)却つて江戸を指す故郷」は、賈島の詩想ばかりかその口調まで学んでいます。そして、その詩の中に入り込んで、その詩の世界を、自分の境として感じとろうとしています。そこが我々に新鮮な感じを与えるのでしょう。
「大きくなったときは…」は、『無名抄』にみえる祐盛法師の説です。
大昔、外道を信ずる妙荘厳王という父に、仏教を信奉する二人の子、浄蔵と浄眼がいた。この二人が神変を釈するのに、「大身を現ずれば虚空に満ち、小身を現ずれば芥子の中に入る」と、ふつうは言っているが、忠胤という人は、「大身を現ずれば虚空にせはだかり、小身を現ずれば芥子の中に所あり」と説法した話を引いて、このように言い古されたことに色を添えて珍しくとりなすのが、すぐれた和歌の風情だと語った、ということを伝えているのです。
心敬は心ならずも、「優美で素直になおかつ柔和な歌体」を、歌連歌の本筋だと認めざるを得ませんでした。優美を本質とする点で、幽玄体と相通じる面が多かったからでしょう。
しかし、心敬の幽玄は、あくまでも心の持ち方にありました。したがって、歌の姿や用語に優美を求めて、そういう歌だけを正しい風体だと考える立場はとらないのです。
さまざまの歌の姿をあげているのを見ても、一体を固守せず、自己の本性にかなった風体で詠むことをすすめているのがわかります。
つまり、心敬は、素直でおだやかな詠みぶりが、歌の本体であることを認めましたが、それは艶なる心の現れとしてのみ意味があるのです。単なる形式的な一定の規範を墨守することに終始して、独創の意欲を欠き、その結果として、平凡で俗悪な風体に堕することを、何にもまして嫌ったのです。
翔んでゆくものに二月の空やはし 季 己
遊 子 吟(ゆうしぎん) 孟 郊(もうこう)
慈母手中線 慈母手中の線 慈悲深い母は、手にある糸で、
遊子身上衣 遊子身上の衣 旅に出る息子のために衣服を縫う。
臨行密密縫 行くに臨んで密密に縫う 息子の旅立ちに際し、母は一針一針に
思いをこめて縫う。
意恐遅遅帰 意は恐る遅遅たる帰りを 心中、帰って来るのが遅くなりはしな
いかと、心配しながら。
誰言寸草心 誰か言う寸草の心の 一寸の草のように愛を受けて成長した
子が、
報得三春暉 三春の暉に報い得んとは 春の陽光のような母の恩に報い得るな
どと、誰が言えようか。
この詩は、暖かいおだやかな作品ですが、孟郊の本領はむしろ思考をとぎすまし、鬼気迫るふうに歌いあげた作品にあります。一例として、彼の五言古詩「峡哀十首」のうちの第四首の一部分の口語訳を掲げておきます。
険阻な三峡には、死者のこわれた魂が一点、二点と、
数百年もの間、ひそかに凝り固まっている。
峡谷にさす日の光は、いつも薄暗くて、昼になったことがないようだ。
険しい峡谷は、犠牲者を待って、飢えたよだれをたらしている。
寒々とした詩風により、友人孟郊と並び称せられた賈唐は、あるとき、「鳥は宿る池中の樹、僧は推す月下の門」という対句を得、「僧は推す」がよいか、「僧は敲(たた)く」がよいかと思いあぐね、推したり、敲いたりする仕草をして歩くうち、韓愈の行列にぶつかりましたが、非礼を許され、「敲の字がよい」と評された。この話は、「推敲」の故事として名高い。
渡 桑 乾(桑乾を渡る) 賈 島(かとう)
客舎幷州已十霜 幷州(へいしゅう)に客舎して已に十霜(じっそう)
帰心日夜憶咸陽 帰心日夜(きしんにちや)咸陽(かんよう)を憶(おも)う
無端更渡桑乾水 端なくも更に渡る桑乾の水
却望幷州是故郷 却(かえ)って幷州を望めば是れ故郷
幷州での旅暮らしも、すでに十年になった。
その間、日ごと夜ごとに帰心はつのるばかりで、都の長安を思いやってきた。
ところが今、思いがけずまたもや桑乾の流れを渡り、別の任地に旅立つことになった。
幷州を望みやれば、仮の宿りと思ったその町が、かえって故郷のように懐かしまれる。
芭蕉の「秋十年(ととせ)却つて江戸を指す故郷」は、賈島の詩想ばかりかその口調まで学んでいます。そして、その詩の中に入り込んで、その詩の世界を、自分の境として感じとろうとしています。そこが我々に新鮮な感じを与えるのでしょう。
「大きくなったときは…」は、『無名抄』にみえる祐盛法師の説です。
大昔、外道を信ずる妙荘厳王という父に、仏教を信奉する二人の子、浄蔵と浄眼がいた。この二人が神変を釈するのに、「大身を現ずれば虚空に満ち、小身を現ずれば芥子の中に入る」と、ふつうは言っているが、忠胤という人は、「大身を現ずれば虚空にせはだかり、小身を現ずれば芥子の中に所あり」と説法した話を引いて、このように言い古されたことに色を添えて珍しくとりなすのが、すぐれた和歌の風情だと語った、ということを伝えているのです。
心敬は心ならずも、「優美で素直になおかつ柔和な歌体」を、歌連歌の本筋だと認めざるを得ませんでした。優美を本質とする点で、幽玄体と相通じる面が多かったからでしょう。
しかし、心敬の幽玄は、あくまでも心の持ち方にありました。したがって、歌の姿や用語に優美を求めて、そういう歌だけを正しい風体だと考える立場はとらないのです。
さまざまの歌の姿をあげているのを見ても、一体を固守せず、自己の本性にかなった風体で詠むことをすすめているのがわかります。
つまり、心敬は、素直でおだやかな詠みぶりが、歌の本体であることを認めましたが、それは艶なる心の現れとしてのみ意味があるのです。単なる形式的な一定の規範を墨守することに終始して、独創の意欲を欠き、その結果として、平凡で俗悪な風体に堕することを、何にもまして嫌ったのです。
翔んでゆくものに二月の空やはし 季 己