壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

「俳句は心敬」 (17)発句

2011年02月02日 22時36分43秒 | Weblog
    ――片田舎の人が言っています。「発句はおおよそ、句ぶりがせせこましく
     なく、ゆったりと一気に詠みくだしているのが本来あるべき姿だ」と。
      本当にそうでしょうか。

    ――昔の人の言葉にはこうある。
      まことに発句は、和歌の巻頭歌に並び称される句であるから、細かなこ
     とにこだわらず、ゆったりとしていて、伸び伸びした姿であるべきである。
      しかし、和歌においても、撰集などの巻頭の場合は、大様でゆったりと
     していなければならない。ただ、百首歌や五十首歌あるいは、それ以下の
     巻頭に詠む歌は、その時々の事情によって、適当に歌風を変えて詠むの
     が普通のようだ。
      したがって、さまざまの趣の巻頭歌が詠まれていて、一様ではない。

      発句も同じような題で、あちこちの会席で明け暮れ句作していることだ
     から、長(たけ)高く、大様に、するすると一気に詠まなければならない
     ものとすると、類句が続出して、かえって困ったことになるだろう。
      むかしの発句は、そんなに風趣を尽くしてまで、苦吟呻吟したとはみえ
     ない。さりとて、一つの型、風体にのみ偏っている、というわけではない。

      最近は、巻頭和歌と連歌の発句ばかりを、世間が珍重するので、晴れ
     がましいような気になって、他人の句に似せまいとして、しだいに、いろい
     ろな句柄に変わっていったのではなかろうか。
      唐でも、「文体は、三度変わる」などと『文選』にあるが、時代、時代に
     よって変化するのは当然のことである。

      つぎに巻頭歌、発句の例を少しあげておこう。
       巻頭歌
           ふる雪の蓑代衣うちきつつ
             春きにけりとおどろかれぬる     藤原敏行
          いかにねておくる朝にいふことぞ
             昨日を去年と今日を今年と      小大君
          知らざりき山より高きよはひまで
             春の霞のたつを見んとは       定 家
          八幡山三の衣の玉手箱
             ふたつはたちぬ雲よ霞よ       正 徹
 
       発 句           
           なけや今日都を庭のほととぎす      二条摂家
          いまここをほととぎすとてとをれかし     同
          あなたうと春日のみがく玉津島       周 阿
          佐保姫のかつらぎ山も春かけて      家隆卿
 
                               (『ささめごと』発句)


      不忍池 寒禽の啼きわたり     季 己