西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、
利休が茶における、其の貫道する物は一なり。
芭蕉の『笈の小文』にある有名な一節です。このように芭蕉は、連歌師の宗祇を敬愛していました。そして、心敬は、この宗祇の連歌の師なのです。
心敬の作品から、発句を一つ取り上げてみましょう。
雲は猶さだめある世の時雨かな 心 敬
「行雲流水」のたとえのように、時雨を運ぶ雲jは絶えず移り変わって
やまないものと言われるが、いまの乱れに乱れた世情世態にくらべれば、
まだ、時雨がつき従う雨雲には、一定の法則がある。
と、当時の世の乱れを嘆いたものです。応仁の乱(1467~77)をひたむきに生きた、心敬の息づかいが聞こえてくるようです。
つぎに、心敬の弟子である宗祇の発句を見てみましょう。
世にもふるさらに時雨のやどりかな 宗 祇
時雨(しぐれ)の雨宿りではないが、人の一生もさらに、「あっ」という間に過ぎてゆくことだ、というほどの意ですが、『新古今和歌集』の
世に経(ふ)るは苦しきものを槇の屋に
やすくも過ぐる初時雨かな 二条院讃岐
生きるということは苦しいものなのに、わたしの住む槇の家を、初時雨は
あっという間に、たやすく降り過ぎていってしまいました。
を踏まえたものと思われます。しかし、明らかに、心敬の発句を意識してつくっています。
面白いことに芭蕉は、無常観を詠んだ宗祇のこの句が大好きでした。そして芭蕉自身もとうとう
世にふるはさらに宗祇のやどり哉 芭 蕉
人の一生は短くはかないもの、だからこそ、自分は俳諧一筋に生きるのだ、という句までつくってしまったのです。
芭蕉は宗祇を敬愛しておりましたが、その師である心敬については一言も触れておりません。しかし、芭蕉は心敬の精神を、じかに学んでいたにちがいありません。
心敬の『ささめごと』には、芭蕉が説いた教えと少しも変わらない精神が流れているのです。そして、心敬の連歌論と芭蕉の俳諧論の間には、密接な関係が認められるのです。
皿けつて跳ぶ目玉焼 二月来る 季 己
利休が茶における、其の貫道する物は一なり。
芭蕉の『笈の小文』にある有名な一節です。このように芭蕉は、連歌師の宗祇を敬愛していました。そして、心敬は、この宗祇の連歌の師なのです。
心敬の作品から、発句を一つ取り上げてみましょう。
雲は猶さだめある世の時雨かな 心 敬
「行雲流水」のたとえのように、時雨を運ぶ雲jは絶えず移り変わって
やまないものと言われるが、いまの乱れに乱れた世情世態にくらべれば、
まだ、時雨がつき従う雨雲には、一定の法則がある。
と、当時の世の乱れを嘆いたものです。応仁の乱(1467~77)をひたむきに生きた、心敬の息づかいが聞こえてくるようです。
つぎに、心敬の弟子である宗祇の発句を見てみましょう。
世にもふるさらに時雨のやどりかな 宗 祇
時雨(しぐれ)の雨宿りではないが、人の一生もさらに、「あっ」という間に過ぎてゆくことだ、というほどの意ですが、『新古今和歌集』の
世に経(ふ)るは苦しきものを槇の屋に
やすくも過ぐる初時雨かな 二条院讃岐
生きるということは苦しいものなのに、わたしの住む槇の家を、初時雨は
あっという間に、たやすく降り過ぎていってしまいました。
を踏まえたものと思われます。しかし、明らかに、心敬の発句を意識してつくっています。
面白いことに芭蕉は、無常観を詠んだ宗祇のこの句が大好きでした。そして芭蕉自身もとうとう
世にふるはさらに宗祇のやどり哉 芭 蕉
人の一生は短くはかないもの、だからこそ、自分は俳諧一筋に生きるのだ、という句までつくってしまったのです。
芭蕉は宗祇を敬愛しておりましたが、その師である心敬については一言も触れておりません。しかし、芭蕉は心敬の精神を、じかに学んでいたにちがいありません。
心敬の『ささめごと』には、芭蕉が説いた教えと少しも変わらない精神が流れているのです。そして、心敬の連歌論と芭蕉の俳諧論の間には、密接な関係が認められるのです。
皿けつて跳ぶ目玉焼 二月来る 季 己