壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

「俳句は心敬」 (19)あけ烏俳句

2011年02月04日 22時29分01秒 | Weblog
 平成十六年十二月五日、「藤田あけ烏氏 お別れの会」が開かれ、引出物として、氏の本真物の句集『日の辻』をいただいた。
 『日の辻』は、この完成を待たずに、十一月五日に亡くなられた、藤田あけ烏氏の最後の句集です。この中に、あけ烏氏の遺言ともいうべき「あけ烏覚え書」が入っておりました。
 書中、「願わくば正見俳句を自認する『草の花』俳句の精神の継続をお願いしたいと考えています」とありました。
 では、『草の花』俳句の精神とは何でしょうか。「覚え書」の末尾にこうあります。

     つまり俳句は大いなる自然運行の四時の中に、あるがままの己れの身を
    しずかに置き呼吸し、己れを再確認するということ。それが俳句に遊ぶと
    いう精神性の高い文芸活動である。
     草の花の俳句の大前提は、ここにおいての活動であること。
     但し、「草の花」ではこれらの俳句に対する姿勢、価値観をすべて受け
    入れる寛容を旨とします。その理由は、これらの傾向は一個人、個人の
    内なるものが時間の経過と共に変化してくるからです。「草の花」俳壇は、
    その変遷と作家の熟成を待って育ててゆく度量を持ちます。特に指導者
    の寛容であります。
      平成十六年八月十六日
                           「草の花」主宰  藤田あけ烏

 また、「草の花」創刊当初には、次のように述べておられます。

     俳句は「わが魂」をやすらかに、しずかに詠うを旨とします。自然を心
    から愛し、その心を通しておのれ自身を問うてみる。俳句はそうした生へ
    の感謝と、自然への愛の告白であります。

 つまり、俳句は、季節と自分との関わりを詠うものなのです。
 自然を愛情をもって凝視するのです。そうして自分の魂に響いてくるものと一体になるのです。季節に浸りきるのです。そう、しずかに、素直な気持ちで。これが、「草の花」俳句の精神だと思います。

 「あけ烏」の俳号の由来は、与謝蕪村の俳諧集『あけ烏』に拠るという。それでは、あけ烏俳句が目指すのは蕪村かというと、そうではないのです。
 上記の「草の花」俳句の精神を熟読されればおわかりと思いますが、あけ烏俳句が目指すのは「心敬」なのです。

 あけ烏主宰が、「『草の花』俳句が目指すのは、芭蕉でもなければ蕪村でもない、心敬なんだ」と、私につぶやかれたのは、平成五年四月の第二日曜日のことでした。
 俳号から、蕪村だとばかり思っていたあけ烏主宰の目指すのが、私と同じ心敬とは。うれしかった。思わず万歳を叫びたくなるほど、うれしかった。
 あけ烏主宰の亡き今、無所属となり、「心敬案内人」として、心敬の文芸精神を多くの人に伝えるのが私の役目だ、と確信しております。それがそのまま、あけ烏俳句の精神の継続につながる、と思うので……


      立春の風のさきざき土うるむ     季 己