壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

蘆刈

2008年10月29日 21時42分00秒 | Weblog
 「所変われば品変わる」という諺があるが、これとは反対に、土地土地によって、呼び名が違うことを、「難波の蘆は伊勢の浜荻」という。
 大阪では蘆(アシ)で通っているものが、伊勢では、浜荻と名を変えて呼ばれるということだが、もう一つ加えれば、江戸では葦(ヨシ)である。
 もっとも、「蘆」というと、「悪し」に通じるので、「吉し」に通じる「葦」に変えたという、いかにも縁起かつぎの江戸っ子らしい選択である。
 それにしても、鳥の名の「葦切り」とか「葦の髄から天井のぞく」(=自分の狭い見識で、広い世界のことについて勝手な判断を下す)という諺まである、「葦」という漢字が用意されていたとは面白い。
 浅草裏の隅田河畔の葦原は、「吉原」とさらに縁起をかついで、字が改められている。

 蘆は、イネ科の多年草で、各地の水辺に自生する。地中に扁平な長い根茎を走らせ大群落を作る。蘆の芽が角ぐむと言われるように、春先には角のように尖った固い芽を伸ばして、やがて、二、三メートルの高さにまで成長する。
 秋が来ると共に、薄の花にも似て、それよりも大きな穂を出し、多数の紫がかった花を開く。
 晩秋、空が澄んでくるころ、川や沼の蘆が枯れはじめる。これを刈り取って簾などを作ったりする。刈束を車に積んだり、舟に乗せて漕ぎ戻るさまは、なかなかに風情があり絵になる光景である。
 刈り終わった後の水の広さが寒々と眼に迫り、冬の近さを思わせる。

 蘆刈の句といえば、高野素十の次の句が双璧だと思う。この句には、山本健吉の非常に優れた鑑賞があるので、そのまま記す。

        また一人遠くの蘆を刈りはじむ     高野素十
   水郷風景。一面の蘆原である。蘆刈る人がおちこちに点々と望まれる。
  と見ると、また新たな一人が遠くの蘆を刈りはじめた。ここにも素十の単
  純化の極致がある。遠望の一人の動作を描き出すことで、大きな水郷風景
  を彷彿たらしめる。調子が一本通っていて、「刈りはじむ」とM音で結ん
  だところ、引き締まるような快感がある。

        蘆刈の天を仰いで梳(くしけづ)る     高野素十
   ここにも描かれたのはたった一人の蘆刈女の動作である。ここでも作者
  の魂は写生の鬼と化している。広々とした蘆原に、夕日の逆光線を浴びて
  たった一人の女性の、天を仰いだ胸のふくらみまで、確実なデッサンで描
  き出している。
   素十には動詞現在形で結んだ句に秀作が多い。この形は説明的・散文的
  になりやすいが、それを防いでいるものは彼の凝視による単純化の至芸だ。
  抒情を拒否して、彼は抒情を獲得している。
                 (山本健吉『現代俳句』角川文庫より)


      蓑虫のうしろ吹かるる絵天井     季 己