壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

団栗(どんぐり)

2008年10月24日 22時01分30秒 | Weblog
        どんぐりころころ どんぶりこ
        お池にはまって さあ大変
        どじょうが出て来て 今日は
        ぼっちゃん一緒に 遊びましょう
 
 ご存知、童謡「どんぐりころころ」である。昨年、「日本の歌百選」に選ばれた。この歌詞に出てくる「どんぶりこ」は、ドングリが池に落ちた音の擬音語であるが、‘どんぐり’に引かれて「どんぐりこ」と間違えて歌う人の、なんと多いことか。
 幼稚園で新卒の先生を採用する際、突然、この歌を歌ってもらい、正しく「どんぶりこ」と歌える先生は、採用してまず間違いがない。
 
 ころころ転がる団栗は、子供たちの大の仲好しだ。
 柏・楢・樫・一位・クヌギ・椎などブナ科に属する木の実は、同じブナ科でも、栗の実とは大違いの不出来な従兄弟たちで、ドングリと一まとめに呼ばれている。
 橡栗(とちぐり)の転かともいわれるが、‘まるい栗’の意で、団栗と書くようになったらしい。
 団栗は、渋くて生ではとても口に合わない。それだけに、好んで食べられる栗とは違って、棘の恐ろしい毬をまとって、外敵を防ぐ必要はない。
 いかにも鄙びたお猪口に乗って、艶々としたかわいいふくらみを見せている団栗は、秋の山に遊ぶ子供たちを、夢中にさせずにはおかない愛嬌ものである。

        団栗やころり子供のいふなりに     一 茶
 とか、
        笠敷いて着ること知らず小楢の実     乙 二

 などの句は、その童心の世界を詠んだものである。
 芭蕉に団栗を詠んだ句はないが、橡(とち)の実を詠んだ句が、一句だけある。

        木曽の橡浮世の人のみやげかな     芭 蕉
 
    木曽の山奥で拾った珍しい橡の実を、世の営みに追われて山奥を知らぬ
   人々への土産としよう。

 「浮世の人」という言い方は、浮世の外にいる自分の身のありかたを意識した言い方である。俗人への土産にしようという意に解すると行き過ぎで、浮世の外の旅の土産として、世の常の生活をする人に、珍しがられ喜んでもらおうという、和らいだ気持だととりたい。

 水楢や白樫の団栗が、半分以上も深々とお猪口の中に収まって、まるまるとした頭をのぞかせているところは、山形あたりの郷土玩具にある、籠の中に収まった人形を思わせる愛らしさがある。
 また大粒の団栗の中心に軸を通して、独楽遊びをしたり、いろいろ細工を加えて郷土人形を造るなど、なかなか楽しみの多いものである。

 秋、実る木の実を‘木(こ)の実’と総称するが、やはり小粒で色彩の地味な、そしてこぼれやすい団栗・樫の実・椎の実などが、ほんとうの木の実であろう。
 その木の実でつくる木の実独楽――も美しい夢のある季語である。
 さかんに降りこぼれる木の実の音を、木の実しぐれ・木の実雨ともいう。
 秋はロマンの時候であり、その精髄が、この一群の季題でもあろうか……。


      掌にのつてさみしくないか木の実独楽     季 己