庭木におなじみの芳香の花、といえば木犀であろう。
木犀は、中国原産の常緑樹で、渡来は江戸時代といわれるが、芭蕉の句には、一句も見当たらない。
モクセイは、「木の犀(さい)」と書くが、これは幹の肌の紋様が、動物の犀の皮に似ているところから出た名であるといわれる。
オレンジ色の花を開くのが金木犀で、渋い白い花が咲き、葉にギザギザが目立つのが銀木犀である。
仲秋のころ、甘い香りをただよわせる小花をたくさんつける。これは、たいてい金木犀で、きょうのNHKのTVニュースで、東京に金木犀が開花したと報じていた。銀木犀の開花は、少し遅れて晩秋にかかるようである。
夢見るような春の気配にふさわしい沈丁花の甘い香り。襟元を正したくなるような木犀の香りの高さ。この二つは、春と秋の日本の季節を、香りによって代表するものといえよう。
花期の長い沈丁花にくらべて、一度返り咲きはするものの、それぞれの花の盛りはほんのひととき。冷え冷えする時雨に打たれて、たちまちその香りを失ってしまう木犀の侘びしさすらが、物悲しい秋を象徴するかのようである。
木犀は、匂い止んで、地上にこぼれるこまかい四弁の花の風情もまたいい。
木犀や日影澄みける苔の上 秋桜子
静まり返った秋の日影の庭の面、その苔の上に金色の粒を撒き散らしたような金木犀の落花の輝き。木犀の香りは言わずとも、十七音の間に、きよらかな香りが満ち満ちている句である。
人知れず咲き始めて人知れずに散る木犀の香りは、一切の煩悩を絶って、無念無想の境地を導き出してくれるものかも知れない。
文字や言語では表現できない真理を、宇宙のたたずまいが黙々と告げているのだ。宇宙が説く真理をうなずきとれるように、道を学ぶものは、「道念」という心の受信機を精密にしなければならない。
木犀を、中国では厳桂とか月桂、真桂などと、桂の字を宛てて呼んでいる。中国においては、禅寺の庭に好んで植えられたものらしく、これが江戸時代にわが国へ渡って来た時は、やはり、お寺の庭に植えられたものであろう。
歳時記にも、木犀の別称として“桂の花”と載っている。
木犀の風となりしを身にまとふ 季 己
木犀は、中国原産の常緑樹で、渡来は江戸時代といわれるが、芭蕉の句には、一句も見当たらない。
モクセイは、「木の犀(さい)」と書くが、これは幹の肌の紋様が、動物の犀の皮に似ているところから出た名であるといわれる。
オレンジ色の花を開くのが金木犀で、渋い白い花が咲き、葉にギザギザが目立つのが銀木犀である。
仲秋のころ、甘い香りをただよわせる小花をたくさんつける。これは、たいてい金木犀で、きょうのNHKのTVニュースで、東京に金木犀が開花したと報じていた。銀木犀の開花は、少し遅れて晩秋にかかるようである。
夢見るような春の気配にふさわしい沈丁花の甘い香り。襟元を正したくなるような木犀の香りの高さ。この二つは、春と秋の日本の季節を、香りによって代表するものといえよう。
花期の長い沈丁花にくらべて、一度返り咲きはするものの、それぞれの花の盛りはほんのひととき。冷え冷えする時雨に打たれて、たちまちその香りを失ってしまう木犀の侘びしさすらが、物悲しい秋を象徴するかのようである。
木犀は、匂い止んで、地上にこぼれるこまかい四弁の花の風情もまたいい。
木犀や日影澄みける苔の上 秋桜子
静まり返った秋の日影の庭の面、その苔の上に金色の粒を撒き散らしたような金木犀の落花の輝き。木犀の香りは言わずとも、十七音の間に、きよらかな香りが満ち満ちている句である。
人知れず咲き始めて人知れずに散る木犀の香りは、一切の煩悩を絶って、無念無想の境地を導き出してくれるものかも知れない。
文字や言語では表現できない真理を、宇宙のたたずまいが黙々と告げているのだ。宇宙が説く真理をうなずきとれるように、道を学ぶものは、「道念」という心の受信機を精密にしなければならない。
木犀を、中国では厳桂とか月桂、真桂などと、桂の字を宛てて呼んでいる。中国においては、禅寺の庭に好んで植えられたものらしく、これが江戸時代にわが国へ渡って来た時は、やはり、お寺の庭に植えられたものであろう。
歳時記にも、木犀の別称として“桂の花”と載っている。
木犀の風となりしを身にまとふ 季 己