陰暦九月十三日の月を後の月と呼び、八月十五日の名月と同じように、供え物をして祀る習慣がある。
三宝に栗や枝豆を盛って供えるので、栗名月・豆名月の名もある。
十五夜の月よりもさらに露けく、形がやや欠けているのも風情がある。月光は名月のころよりも澄み、少し冷たい感じになる。この秋の最後の月として、名残の月ともいう。
千九十年ほど前の、延喜十九年(919)九月十三日に、醍醐天皇は、宮中の清涼殿において、月の宴を催された。これは、醍醐天皇の父宇多法皇が、八月十五夜の名月に対して、九月十三夜の月の方が、はるかに空は澄み渡って、月を観賞するのにふさわしいことを指摘されたことに始まったものである。
院政時代の中御門右大臣藤原宗忠が、五十余年にわたって記した日記『中右記』保延元年(1135)九月十三日の条に、
「今夜雲浄ラカニ月明カシ。是レ寛平法皇、今夜ノ名月双ビ無キ由仰セ出ダサル。ヨツテ我ガ朝、九月十三夜ヲ以テ名月之夜ト為ス」
と記していることによって、証明された。
なるほど、陰暦八月十五夜は台風シーズン真只中。それに比べ、陰暦九月十三夜は、空気中の湿度も低く、はるかに澄み切った月が眺められる。昨晩も確かにそうであった。
しかも、気温の低下を考慮して、八月の十五夜よりは月の出の時間の早い十三夜を指定したとは……。
藤原氏の専権を抑止すべく、家柄の低い菅原道真を思い切って登用された、合理主義者の宇多法皇だけはあると、納得のゆくことである。
民間では、十三夜の習俗が伝わっていて、女名月・姥月(うばづき)などともいわれている。晩秋になって、満月ではなく少し欠けた月を賞でるところは、いかにも日本人的である。
その「後の月」が明けた今日、「都電荒川線沿線ウォークラリー」が開かれ、変人は拙宅近くの「泊船軒」のガイドを、先輩ガイドのTさんと共に担当した。
区の職員の方によると、千数百名の参加があったようだが、泊船軒に来られた方は43名。この貴重な43名の方に感謝し、改めて御礼を申し上げる。
ご法事があったにもかかわらず、快く我々を迎えてくださったご住職初めお寺の方々にも、感謝と御礼を申し上げたい。
おかげさまで、本堂の天井画、小室翠雲の「雲龍図」、および内陣の格天井の「花鳥風月図」を、案内することが出来、来られた皆さんに非常に喜ばれた。
質問で最も多かったのは、お寺さんなのになぜ「軒」なのか?ということだった。お寺さんだと思わなかった方もかなりおられた。
確かに、お寺さんで「泊船軒」は珍しい。「来々軒」・「珍来軒」と同様のラーメン店と思った方も……。
東大寺・清水寺のように「ジ・でら」、知恩院のように「イン」、寂庵のように「アン」、大日堂のように「ドウ」などが、一般的であろう。
では、なぜそれらの寺・院・庵・堂を用いずに「軒」を用いたのだろう。
「軒」は、貝原益軒のように雅号にも用いられ、家を数える語でもある。「意気軒昂」という熟語がある通り、「気持がふるいたつさま」の意もある。
また、泊船軒の本寺である海禅寺には、泊船軒の他に霊梅軒・寒窓軒・瑞光庵の四つの塔頭があった。このうち、寒窓軒と瑞光庵は、関東大震災で全壊し廃寺、霊梅軒は、霊梅寺と改称し浅草に現存、泊船軒は、大震災の後、現在の荒川区に移転という次第。
以上を勘案すると、これらの塔頭はあまり大きくなく、「院」と名乗るにはおこがましく、“ちっぽけな寺”の謙遜の意を込めて、屋号に添えて用いられる「軒」にしたのかもしれない。あるいは、三つの塔頭が、軒を並べていたからであろうか。
やはり、「不勉強のため申し訳ありません」が、いちばん利口かも?
ところで、陰暦十月十二日は、俳聖芭蕉の忌日である。芭蕉の別号、「桃青」は有名であるが、「泊船堂」は、あまり知られていない。
裏庭のさるのこしかけ後の月 季 己
三宝に栗や枝豆を盛って供えるので、栗名月・豆名月の名もある。
十五夜の月よりもさらに露けく、形がやや欠けているのも風情がある。月光は名月のころよりも澄み、少し冷たい感じになる。この秋の最後の月として、名残の月ともいう。
千九十年ほど前の、延喜十九年(919)九月十三日に、醍醐天皇は、宮中の清涼殿において、月の宴を催された。これは、醍醐天皇の父宇多法皇が、八月十五夜の名月に対して、九月十三夜の月の方が、はるかに空は澄み渡って、月を観賞するのにふさわしいことを指摘されたことに始まったものである。
院政時代の中御門右大臣藤原宗忠が、五十余年にわたって記した日記『中右記』保延元年(1135)九月十三日の条に、
「今夜雲浄ラカニ月明カシ。是レ寛平法皇、今夜ノ名月双ビ無キ由仰セ出ダサル。ヨツテ我ガ朝、九月十三夜ヲ以テ名月之夜ト為ス」
と記していることによって、証明された。
なるほど、陰暦八月十五夜は台風シーズン真只中。それに比べ、陰暦九月十三夜は、空気中の湿度も低く、はるかに澄み切った月が眺められる。昨晩も確かにそうであった。
しかも、気温の低下を考慮して、八月の十五夜よりは月の出の時間の早い十三夜を指定したとは……。
藤原氏の専権を抑止すべく、家柄の低い菅原道真を思い切って登用された、合理主義者の宇多法皇だけはあると、納得のゆくことである。
民間では、十三夜の習俗が伝わっていて、女名月・姥月(うばづき)などともいわれている。晩秋になって、満月ではなく少し欠けた月を賞でるところは、いかにも日本人的である。
その「後の月」が明けた今日、「都電荒川線沿線ウォークラリー」が開かれ、変人は拙宅近くの「泊船軒」のガイドを、先輩ガイドのTさんと共に担当した。
区の職員の方によると、千数百名の参加があったようだが、泊船軒に来られた方は43名。この貴重な43名の方に感謝し、改めて御礼を申し上げる。
ご法事があったにもかかわらず、快く我々を迎えてくださったご住職初めお寺の方々にも、感謝と御礼を申し上げたい。
おかげさまで、本堂の天井画、小室翠雲の「雲龍図」、および内陣の格天井の「花鳥風月図」を、案内することが出来、来られた皆さんに非常に喜ばれた。
質問で最も多かったのは、お寺さんなのになぜ「軒」なのか?ということだった。お寺さんだと思わなかった方もかなりおられた。
確かに、お寺さんで「泊船軒」は珍しい。「来々軒」・「珍来軒」と同様のラーメン店と思った方も……。
東大寺・清水寺のように「ジ・でら」、知恩院のように「イン」、寂庵のように「アン」、大日堂のように「ドウ」などが、一般的であろう。
では、なぜそれらの寺・院・庵・堂を用いずに「軒」を用いたのだろう。
「軒」は、貝原益軒のように雅号にも用いられ、家を数える語でもある。「意気軒昂」という熟語がある通り、「気持がふるいたつさま」の意もある。
また、泊船軒の本寺である海禅寺には、泊船軒の他に霊梅軒・寒窓軒・瑞光庵の四つの塔頭があった。このうち、寒窓軒と瑞光庵は、関東大震災で全壊し廃寺、霊梅軒は、霊梅寺と改称し浅草に現存、泊船軒は、大震災の後、現在の荒川区に移転という次第。
以上を勘案すると、これらの塔頭はあまり大きくなく、「院」と名乗るにはおこがましく、“ちっぽけな寺”の謙遜の意を込めて、屋号に添えて用いられる「軒」にしたのかもしれない。あるいは、三つの塔頭が、軒を並べていたからであろうか。
やはり、「不勉強のため申し訳ありません」が、いちばん利口かも?
ところで、陰暦十月十二日は、俳聖芭蕉の忌日である。芭蕉の別号、「桃青」は有名であるが、「泊船堂」は、あまり知られていない。
裏庭のさるのこしかけ後の月 季 己