漢検1級198点!! 満点取るまで生涯学習!! ➪ “俳句”

我孫子・手賀沼と愛猫レオンの徒然日記。漢検1級チャレンジャーの方の参考となるブログ。2018年7月から“俳句”も開始。

対海国、𣴴神(かいしん)の宮

2016年01月17日 | 古代史
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<この記事は漢検1級とほとんど関係ありません・・・ちょっとは関連していますが・・・>

●ブログ開設当初から作成しておいたカテゴリー「古代史」に書き込みを開始しています。
●私事の単なるメモ帳のようなものですので、興味のない方はスルーしてください。
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☆☆☆今年のテーマ:①漢検1級199点以上 ②好きな古代史の研究深化(古田説の研究) ③(非公開) ☆☆☆  
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●「古代史をひらく 独創の13の扉」から・・・
<第3の扉>・・・倭人にも漢字能力があった・・・
・「一大(イキ)国」「対海国」は倭人による命名・・・現在の「壱岐」「対馬」のこと・・・
 *倉田命題「中華思想の古代中国が“一大”などという大それた命名をするわけがない」等。
・だとすると、倭人伝の時代にはすでに倭人に漢字能力があったことになる。
 *俾弥呼が後漢の明帝に報恩の上表文を送っていることからも裏付けられる。*上表文の現物や文章は見つかっていないが、俾弥呼が上表文を送ったとの記録は倭人伝にある。・・・この上表文と(当然あるはずの)俾弥呼の自署名が見つかるととても面白いのに・・・。
・一大(イキ)国、一大(イキ)率
 *イキ(壱岐)は古名「伊伎島(いきのしま)、天比登都柱(あまのひとつばしら)」(古事記)
 *「一(イチ)」はこの古名からきている、「大」は「大国」の意で、壱岐から九州本土に侵略してきた“壱岐軍団”が自らの“母国”を誇らしげに命名した名残り。「一大(イキ)率」・・・九州本土への駐留軍、「諸国、これを畏怖する・・・」
・対海国
 *上島・下島の間に浅茅(あそう)湾という瀬戸あり。この浅茅湾をはさんで両島を支配していたことから(倭人によって)命名されたのではないか・・・。
 *対馬に「和多都美(わたつみ)神社」(浅茅湾のそば)と「“𣴴”神の宮」という神社あり・・・古い時代の漢字教養が伝えられている。
  (注)「𣴴神の宮」というのは現在の「海神神社」のこと。(この神社は、地図をみると、朝鮮半島方面の海のそばにあるが・・・)今、こういう字が現地で使われているかどうか不詳。ネット上では見当たらない。いま、とうなってるんだろ。神社の由来書か何かを入手すればわかるのかな。
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 <𣴴>
 *海の異体字とも。Unicode U+23D34 。
 *ネットで色々探したら、面白い発見・・・あの、弘法大師・空海もこの「𣴴」を使って、自分の名前を「空𣴴(くうかい)」としている文献あり。ネットのその記事では、この「𣴴」の字は、空海が唐から持ち帰った漢字で、それをはじめて使ったとの説明があったが、この神社の創建(不詳だが社伝によれば相当古い・・・神功皇后の3韓征伐に由来する由←この3韓征伐てのも相当怪しいが・・・)からしたら、相当前の時代の字を(倭人)がすでに使っていたことになる。
<対海国>
 *上記の(「対海」国の命名の“湾を両岸から支配したので対・海としたのでは”との)説明はちょっと今一つしっくり来ていない、納得感がまだない。もっと詳しい説明がどこかにあるのかな・・・。
 *それと本件とは関係ないが、倭人伝にある「対海国 方400里」「一大国 方300里」・・・地図で見る限り、方400里のほうは、対馬の南半分ぐらいの大きさのような気がするが・・・。どうなんだろう。

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漢検1級 27-③に向けて その110  文章題訓練㊴

2016年01月17日 | 文章題
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<「漢字の学習の大禁忌は作輟なり」・・・「作輟(サクテツ)」:やったりやらなかったりすること・・・>

<漢検1級 27-③に向けて その110>
●「文章題訓練」その㊴です。㊴~㊸まで連続5題、「俳人蕪村」(正岡子規)からの出題です。ちょっとおもしろい趣向の出題になったと思いますが如何でしょうか(^^)
●難度は並み・・・チャレンジャーは80%(24点)以上が目標・・・。リピーターは限りなく100%とりたいところ(^^)

●文章題㊴:次の文章中の傍線(1~10)のカタカナを漢字に直し、傍線(ア~コ)の漢字の読みをひらがなで記せ。(30) 書き2×10 読み1×10
「(緒言)
 芭蕉新たに俳句界を開きしよりここに二百年、その間出づるところの俳人少からず。あるいは芭蕉を(1)ソジュツし、あるいは檀林を主張し、あるいは別に門戸を開く。しかれどもその芭蕉を尊崇するに至りては衆口一斉に出づるがごとく、檀林等流派を異にする者もなお芭蕉を排斥せず、かえって芭蕉の句を取りて自家俳句集中に加うるを見る。ここにおいてか芭蕉は無比無類の俳人として認められ、また一人のこれに匹敵する者あるを見ざるの有様なりき。芭蕉は実に敵手なきか。曰く、否。
 芭蕉が創造の功は俳諧史上特筆すべきものたること論を竢たず。この点において何人かよくこれに凌駕せん。芭蕉の俳句は変化多きところにおいて、雄渾なるところにおいて、高雅なるところにおいて、俳句界中第一流の人たるを得。この俳句はその創業の功より得たる名誉を加えて無上の賞讃を博したれども、余より見ればその賞讃は俳句の価値に対して過分の賞讃たるを認めざるを得ず。誦するにも堪えぬ芭蕉の俳句を註釈して(2)モッタイつける俳人あれば、縁もゆかりもなき句を刻して芭蕉塚と称えこれを尊ぶ俗人もありて、芭蕉という名は徹頭徹尾尊敬の意味を表したる中に、(3)ガイダ珠を成し句々吟誦するに堪えながら、世人はこれを知らず、宗匠はこれを尊ばず、百年間空しく(4)ガレキとともに埋められて光彩を放つを得ざりし者を蕪村とす。蕪村の俳句は芭蕉に匹敵すべく、あるいはこれに凌駕するところありて、かえって名誉を得ざりしものは主としてその句の平民的ならざりしと、蕪村以後の俳人のことごとく無学無識なるとに因れり。著作の価値に対する相当の報酬なきは蕪村のために悲しむべきに似たりといえども、無学無識の徒に知られざりしはむしろ蕪村の喜びしところなるべきか。その(5)ホウショウ不羈世俗の外に卓立せしところを見るに、蕪村また性行において尊尚すべきものあり。しかして世はこれを容れざるなり。
・・・・
(積極的美)
 美に積極的と消極的とあり。積極的美とはその意匠の壮大、雄渾、(6)ケイケン、艶麗、活溌、(7)キケイなるものをいい、消極的美とはその意匠の古雅、幽玄、悲惨、沈静、平易なるものをいう。概して言えば東洋の美術文学は消極的美に傾き、西洋の美術文学は積極的美に傾く。もし時代をもって言えば国の東西を問わず、上世には消極的美多く後世には積極的美多し。(ただし壮大雄渾なるものに至りてはかえって上世に多きを見る)されば唐時代の文学より悟入したる芭蕉は俳句の上に消極の意匠を用うること多く、従って後世芭蕉派と称する者また多くこれに(ア)倣う。その寂といい、雅といい、幽玄といい、細みといい、もって美の極となすもの、ことごとく消極的ならざるはなし。(ただし壮大雄渾の句は芭蕉これあれども後世に至りては絶えてなし)ゆえに俳句を学ぶ者消極的美を唯一の美としてこれを尚び、艶麗なるもの、活溌なるもの、キケイなるものを見ればすなわちもって邪道となし卑俗となす。あたかも東洋の美術に心酔する者が西洋の美術をもってことごとく野卑なりとして貶するがごとし。艶麗、活溌、キケイなるものの野卑に陥りやすきはもとよりしかり。しかれども野卑に陥りやすきをもって野卑ならざるものをも棄つるはその弁別の明なきがゆえなり。しかして古雅幽玄なる消極的美の弊害は一種の厭味を生じ、今日の俗宗匠の俳句の俗にして嘔吐を催さしむるに至るを見るに、かの艶麗ならんとして卑俗に陥りたるものに比して(イ)毫も優るところあらざるなり。
 積極的美と消極的美とを比較して優劣を判せんことは到底出来得べきにあらず。されども両者ともに美の要素なることは論を竢たず。その分量よりして言わば消極的美は美の半面にして積極的美は美の他の半面なるべし。消極的美をもって美の全体と思惟せるはむしろ見聞の狭きより生ずる誤謬ならんのみ。日本の文学は源平以後地に墜ちてまた振わず、ほとんど消滅し尽せる際に当って芭蕉が俳句において美を発揮し、消極的の半面を開きたるは彼が非凡の才識あるを証するに足る。しかもその非凡の才識も積極的美の半面はこれを開くに及ばずして逝きぬ。けだし天は俳諧の名誉を芭蕉の専有に帰せしめずしてさらに他の偉人を待ちしにやあらん。去来、丈草もその人にあらざりき。其角、嵐雪もその人にあらざりき。五色墨の徒もとよりこれを知らず。新虚栗(しんみなしぐり)の時何者をか(8)ツカまんとして得るところあらず。芭蕉死後百年に(ウ)垂としてはじめて蕪村は現われたり。彼は天命を負うて俳諧壇上に立てり。されども世は彼が第二の芭蕉たることを知らず。彼また名利に走らず、(9)ブンタツを求めず、積極的美において自得したりといえども、ただその徒とこれを楽しむに止まれり。
 一年四季のうち春夏は積極にして秋冬は消極なり。蕪村最も夏を好み、夏の句最も多し。その佳句もまた春夏の二季に多し。これすでに人に異なるを見る。今試みに蕪村の句をもって芭蕉の句と対照してもって蕪村がいかに積極的なるかを見ん。
 四季のうち夏季は最も積極なり。ゆえに夏季の題目には積極的なるもの多し。牡丹は花の最も艶麗なるものなり。芭蕉集中牡丹を詠ずるもの一、二句に過ぎず。その句また
 尾張より東武に下る時
牡丹(エ)蘂深くわけ出づる蜂の名残かな  芭蕉
 ・・・
等のごとき、前者はただ季の景物として牡丹を用い、後者は牡丹を詠じてきわめて(オ)拙きものなり。蕪村の牡丹を詠ずるはあながち力を用いるにあらず、しかも手に随って佳句を成す。句数も二十首の多きに及ぶ。
・・・
蕪村には直ちに若葉を詠じたるもの十余句あり。皆若葉の趣味を発揮せり。例、

山にそふて小舟漕ぎ行く若葉かな
(カ)蚊帳を出て奈良を立ち行く若葉かな
不尽一つ埋み残して若葉かな
窓の灯の梢に上る若葉かな
・・・
そのほか春月、春水、暮春などいえる春の題を艶なる方に詠み出でたるは蕪村なり。例えば
(キ)伽羅くさき人の仮寝や朧月
・・・
河内路や(ク)東風吹き送る巫が袖
・・・
梅散るや(ケ)螺鈿こぼるる卓の上
・・・
 いずれの題目といえども芭蕉または芭蕉派の俳句に比して蕪村の積極的なることは蕪村集を (コ)繙く者誰かこれを知らざらん。一々ここに(10)ゼイせず。」「俳人蕪村」(正岡子規)
👍👍👍 🐵 👍👍👍

(1)祖述(漢検辞典にもあり) (2)勿体 (3)咳唾 (4)瓦礫 (5)放縦(*「ほうじゅう」の方が一般的か・・・) (6)勁健 (7)奇警 (8)攫 (9)聞達 (10)贅(*「贅言」「贅語」のような熟語が頭に浮ばないと苦しいかも)
(ア)なら (イ)ごう (ウ)なんなん (エ)しべ (オ)つたな (カ)かや (キ)きゃら (ク)こち (ケ)らでん (コ)ひもと
👍👍👍 🐵 👍👍👍



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漢検1級 27-③に向けて その109 文章題訓練㊳

2016年01月17日 | 文章題
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<「漢字の学習の大禁忌は作輟なり」・・・「作輟(サクテツ)」:やったりやらなかったりすること・・・>

<漢検1級 27-③に向けて その109>
●「文章題訓練」その㊳です。・・・ご健闘を祈ります👍
●難度は並み・・・チャレンジャーは80%(24点)以上が目標・・・。リピーターは限りなく100%とりたいところ(^^)

●文章題㊳:次の文章中の傍線(1~10)のカタカナを漢字に直し、傍線(ア~コ)の漢字の読みをひらがなで記せ。(30) 書き2×10 読み1×10

「・・・定基は(ア)勿論悪人というのではないが、つまりは馬で言えば(1)カン強(づよ)な馬で、人としては(2)キ一本の人であったろう。で、女房を逐い出し得てからは、それこそせいせいした心持になって、渾身の情を傾けて力寿を愛していたことであろう。任地の三河にあっては第一の地位の三河守であり、自分のほかは属官僕隷であり、行動は自由であり、飲食は最高級であり、太平の世の公務は清閑であり、何一ツ心に任せぬことも無く、好きな狩猟でもして、山野を(3)チクして快い汗をかくか、天潤いて雨静かな日は明窓浄几香炉詩巻、吟詠翰墨の遊びをして性情を(イ)頤養するとかいう風に、心ゆくばかり自由安適な生活を楽んでいたことだったろう。ところが、それで何時迄も済めば其様(そんな)好いことは無いが、花に百日の紅無し、玉樹亦凋傷するは、人生のきまり相場で、造物豈独り此人を憐まんやであった。イヤ去られた妻の呪詛が利いたのかも知らぬ。いつからという事も無く力寿はわずらい出した。当時は医術が猶幼かったとは云え、それでも相応に手の尽しかたは有った。又十一面の、薬師の、何の(ウ)修法、彼の修法と、祈祷の術も数々有った。病は苦悩の多く強いものでは無かったが、美しい花の日に(4)ヘイチュウに萎れゆくが如く、清らな瓜の(エ)筺裏に護られながら漸く玉の艶を失って行くように、次第次第衰え弱った。定基は(5)ショウソウしだした。怒りを人に遷すことが多くなった。(6)シュウを独りで味わっていることが多くなった。療治の法を求めるのに、やや狂的になった。・・・・

 定基は東山如意輪寺に走った。そこには大内記慶滋保胤のなれの果の寂心上人が居たのである。定基は寂心の前に端座して吾が淵底を尽して寂心の明鑑を仰いだのである。寂心は(7)シュツジンしてから僅に二三年だが、今は既に泥水全く分れて、湛然 清照、もとより浮世の膠も無ければ、仏の(8)キンパク臭い飾り気も無くなっていて、ただ平等慈悲の三昧に住していたのである。二人の談話は何様どんなものだったか、有ったか無かったか、それも分らぬ。ただ然し機縁契合して、師と仰がれ弟子と容れられ、定基は遂に剃髪して得度を受け、寂照という青道心になったのである。時に永延二年、齢はと云えば、まだ三十か三十一だったのである。よくも思いきったものであった。

本来を云えば弥陀なり弥勒なり釈迦なりを頼んで、何かムニャムニャを唱えて、そして自分一人極楽世界へ転居して涼しい顔をしようと云うのは、随分虫のいいことで、世の諺に謂う「(オ)雪隠(9)マンジュウを食う」料簡、汚い、けちなことである。証得妙果の境界に入り得たら、今度は自分が其の善いものを有縁無縁の他人にも施し与えようとすべきが自然の事である。そこで菩薩となり仏となったものは化他の業にいそしむことになるのが自然の法で、それが即ち菩薩なり仏なりなのである。弥陀の四十八願、観音の三十三身、何様な苦労をしても、何様なものに身を為しても、一切世間を善くしたい、救いたい、化度したいというのが、即ち仏菩薩なので、何も蓮花の上にゆったり坐って百味の(カ)飲食(キ)啖い飽こうとしているのが仏菩薩でも何でも無い。寂心は若い時から慈悲心牛馬にまで及んだ人である。それが出家入道して、所証日に深く、浄土は隣家を看るよりも近々と合点せられるに至ったのである。終には此世彼世をひと(10)マタぎの境界に至ったのである。そこで昔はあれほど想い焦れた浄土も吾が手のものとなったにつけて、浄土へ行きっ切りとなろう気はなく、自然と娑婆へ往来しても化他の業を執ろうという心が湧き上ったに疑い無く、言語の端にもおのずから其の意が漏れて、それから或人の夢や世間の噂も出たのであろう。その保胤の時から慈悲牛馬に及んだ寂心が、自己の証得愈々(いよいよ)深きに至って、何で世人の衆苦充満せる(ク)此界に喘ぎ悩んでいるのを傍眼にのみ見過し得ようや。まして保胤であった頃にも、其の明眼からは既に認め得て其の文章に漏らしている如く、世間は漸く苦しい世間になって、一面には文化の華の咲き乱れ、(ケ)奢侈の風の蒸し暑くなってくる、他の一面には人民の生活は行き詰まり、永祚の暴風、正暦の疫病、諸国の盗賊の起る如き、優しい寂心の心からは如何に哀しむべき世間に見えたことであろう。寂心は世を哀れみ、世は寂心の如き人を懐かしんでいた。寂心娑婆帰来の談の伝わった所以でもあろう。勿論寂心は(コ)辟支仏では無かったのである。・・・」「連環記」(幸田露伴) 
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<解答>
(1)癇 (2)生 (3)馳駆 (4)瓶中 (5)焦躁 (6)愁 (7)出塵 (8)金箔 (9)饅頭 (10)跨
(ア)もちろん (イ)いよう (ウ)ずほう(すほう・しゅほう) (エ)きょうり (オ)せっちん(「せついん」でも間違いではないだろうが・・・) (カ)おんじき (キ)くら(「く」でも可か) (ク)しかい (ケ)しゃし (コ)びゃくしぶつ
*(注)辟支仏:原文ルビは「ヘキシブツ」だが、「ビャクシブツ」(広辞苑)と読む。
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