すとう信彦 & his band

社会起業家(チェンジメーカー)首藤信彦の日常活動とその仲間たち

後藤さんは何を遺したか

2015-02-01 10:19:22 | Weblog
 早朝から後藤氏殺害のニュースが流れ、29日の人質交換期限より消息の無かった同氏の死が確定した。本来なら最初の段階で処刑される可能性があったが、ヨルダン人パイロットとの解放一体化案が浮上したことにより、新たな役割を演じて、生き延びる微かな希望が生まれたがゆえに、一層残念無念の断腸の思いだ。
 しかし、私は彼の死に「お悔やみ」も「お疲れさま」とも言わない。それは覚悟してシリアに入った後藤さんにふさわしい言葉でないと思う。
 本人自身が何よりも無念だろう。長年この地域で活動していて、自分を誘導する人がどういう人か、どういう可能性があるか十分に理解していただろう。それでも、その恐怖を乗り越える何らかの魅力に引きづられ、シリアに入った。それが何かはわからない。本人もわからないかも知れない。
 それでも結果的にこのような状況に置かれたことに、本人自身こそが無念の極みだろう。特に、自分の存在がヨルダンのそして中東の紛争の火種として利用されたことは、悔やんでも悔やみ切れないものがあるにちがいない。
 彼が生きてイスラム国を出る可能性はあった。イスラム国側も、彼の利用価値に気づいたはずだ。だから、日本政府が交渉して解放に導く手段とルートはあったはずだ。政府は何もしなかった..と確信を持って言える。政府の総力をあげて「緊張感を持って」解決に全力を尽くす..というのが大した宣言のように総理の口から出てくるが、寝ないで現地からのメールを待って右往左往するのは、一晩中太鼓をたたいて救命を祈る庶民と変わらない。
外務省中東課は自ら恥じるべきだ。いや、今の外務省全体を探しても、このような問題の解決に能力と覚悟を持った官僚を見出すことはできないだろう。昔がよかったというつもりはないが、昔は外務省にも自己保身だけでない、「俺が日本の外交を支えているんだ。。。」そんな並外れた男たちが地域ごとにごろごろいた。ユダヤ人ビザ発給の杉原千畝氏が好例だ。民間人だってそうだ。小生がいたころの商社マンには、革命直後に乗り込んでいって毛布を売りつける。。。みたいなビジネスマンがけっこういた。今ならイスラム国に乗り込んで、軍服の受注や、未亡人を雇用する縫製工場建設みたいなプロポーザルを出してチャネルをつくるというようなものだ。
 では後藤さんが遺したものは何か?自分の犠牲がきっかけで日本が「有志連合の十字軍」に加わり、自衛隊が派遣されて自分の復讐をとげることか?そうではないだろう。確かにアプローチに問題があり、行動にも甘さがあったかも知れない。それでも、彼が長い活動を経て求めたものが、この地域の平和と未来であったことは疑いを得ない。彼は残念ながら、その達成に貢献することができなかった。だからこそ、誰かがそれを引き継いでいかなければならない。骨を拾うというのは、そういう意味だ。

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