>具体的な事例を見てみよう。象皮症を患うインド人男性の写真の場合、振り子は、写真からはみ出さんばかりに大きな楕円をやみくもに描き続けた後、静止した。目で追うことができないほどの激しい動きは、この男性が、身体のみならず精神も病んでいることを示す。振り子が静止した後には、実験者は、胃への圧迫感と息苦しさを覚えた。〔...〕 同様の実験を繰り返し行ったカレンベルクは、写真の上に垂らした振り子が、被写体の性別、健康状態や体質、気質、撮影時の興奮状態などによって異なった動きを見せることを確信した。(浜野志保著「カレンベルクの写真ダウジング」より、『ヴァナキュラー・イメージの人類学』85~86ページ)
上の映像は、佐々木友輔が秋葉原事件の後に行った「場撮り」である。映画『夢ばかり、眠りはない』は、こうした「映像ダウジング」の集積として作られている。すなわち「場撮り」とは、あくまでも撮影後の写真を対象とするカレンベルクのダウジングと同様に、すでに映像化している現実から、ある種の身体性を切り取ろうとする行為である。
>しかし、この肖像写真は、共に保存された頭髪と同じく、被写体から切り取られた身体の一部として、そこに存在しているようにも見えるのだ。(同90ページ)
このジェフリー・バッチェンの「切り取り」には、次の「二重所属性(散種)」を見て取ることができる。
>パフォーマティヴな言明とはそもそもそれ自体が、ある意味ですでに引用付きのもの、本来のコンテクスト(コンスタティヴな機能)から抜き取られて使用されたものだったからである。〔...〕「すべての記号が引用されうる」とはデリダにおいては、あらゆる言明が寄生的に、あるいはパフォーマティヴに使われる可能性に曝されていることを意味する。これは裏返せば、あらゆる言明について、その使用が通常的か寄生的か、コンスタティヴかパフォーマティヴか決定することが原理的にできないことを意味する。(東浩紀著『存在論的、郵便的』17~18ページ)
そしてさらに「ポジティング」について。東浩紀が「テロ」と指摘した秋葉原事件を、なぜ佐々木は映画の題材にしなければならなかったのか? 次の東の発言には、その理由について藤田直哉的な「ロマンティシズム」から離れて考えるための重要なヒントが含まれている。もしかして加藤は、比喩的に言って、紙媒体に書かれている限りは人間だったが、電子媒体を通ることで兵器と化したのではなかったか。このあたりの話はメディア論的に深い。
>あとテッド・チャンの「七十二文字」もいい。あの短編では、文字を書き込むことがイコール物を動かすことという発想が出てくるけど、それは現実で言えばプログラムのことでしょう。プログラムというのはたんなる記号の羅列でしかないにもかかわらず、それによって直接に実体が変わる。〔...〕つまりプログラムというのは、紙に印刷されているかぎり言論だけど、フロッピーディスクに入れると軍需品になってしまう。こういう意味で、プログラムは言葉と物の境界にある。(東浩紀著『批評の精神分析D』126~7ページ)
(続く)