SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

ほしのこえ その7

2010年10月09日 | Weblog
RT @kasai_genkai(笠井潔/限界小説研): 私と世界の直結という点で、最も純粋化されたセカイ系作品は「ほしのこえ」だろう。この自主制作アニメには主人公の二人、ノボルとミカコ以外の人物は基本的に登場しない。作中では家庭や学校さえほとんど描かれることがなく、小状況は恋人同士の親密空間として閉じられている。この小状況と、ノボルと引き裂かれたミカコが戦闘ロボットの搭乗員として戦う宇宙空間(大状況)のあいだには、いかなる媒介的領域も存在しない。(限界小説研究会編『社会は存在しない-セカイ系文化論』22ページ)

 たしかに 『ほしのこえ』には社会領域が排除されているが、だからといって「いかなる媒介的領域も存在しない」という断定には首肯できない。笠井潔はガチガチの物書きなので、基本『ほしのこえ』を「言論」として読んでしまっている。しかし、この作品の映像は、絵画や映画の本質がそうであるように、感覚を通してしか触れることできない、ある根源的な媒介領域の存在を示唆している。クラーゲスとかいう人は、その謎の媒介領域を「遠の観得」と呼んでいたという。そしてこの植物的な「遠」の知覚は、対して圧倒的な「近」との結合を生きる動物にも、もともとそなわっている性能だというのである。社会環境の「アーキテクチャーの生態系」的な進化により、必然的に、この「遠の観得」が人間のうちにも再び発揮され始めてきているのではないだろうか。

RT @三木成夫著『生命形態学序説』より: クラーゲスは、このような植物の生を眺めて、そのからだには「遠」が“居合わせている”と表現した。それは、かれらの単細胞が、地球からいわば一個の衛星として分れた遠い過去の物語を、そのDNAのラセン形象がひとつの「生命記憶」としてこれを受け継いでいることを意味するものであろう。感覚的に完全に盲目の植物たちが、地球の中心に向かって正確に根をおろし、さらに秋の到来とともに、にわかに葉を落としてゆくのは、自分と宇宙を結ぶ太い絆のはたらきによる、というよりも、そうした「遠」の記憶の声に促されての結果と見るよりない。これを植物の「遠の観得」と呼ぶ。(村瀬学著『カップリングの思想』(平凡社)45ページ)

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