私は失語症です(脳出血により失語症にかかり、克服したい)。

映画・美術館・料理・コンサート・短期旅行・一年に一度(?)海外旅行etc.種々雑多。

オリンポスの対話(グールドとモーツアルト)-----その3。

2011-02-23 12:06:23 | Weblog

  オリンポスの対話-----ミヒャエル・シュテーゲマン+宮澤淳一(補筆・訳)
  
  
※〈〉は実際のグールドの発言からの引用。ただし人称は「モーツァルト」から「あなた」へと置き換えてある。

       ※当ブロガーが、ちょっと、アレンジをした。

グールド(以下G)
モーツァルト(以下M

G:ですからすでに申し上げたように、あなたの音楽からは対位法的な関心はこれっぽっちも刺激されませんから・・・・・・。【つづく】

M:形式についてはどうですか?
G:(否定的に)〈そもそも私はソナタ形式の基本的にそれほど興味がないのです-----力強く男性的な主調の第1主題と、優雅で女性的な属調の第2主題とが綾なす問題はすさまじく月並みなものに思えるのです。[・・・・・・]おまけに、逆の形になることもありますよね、攻撃的で男性的な第2主題、とか。さっきも話に出た曲ですが、あなたの第13番変ロ長調の第1楽章の、第1主題と第2主題の旋律の間の統合性について考えてみると、私の知る限り、これらの主題を逆の順序に並べても演奏できますし、それでもなお満足のいく対比を示すことは十分可能です〉。
M:それは確かにおもしろいアイデアですね・・・・・・そしてそれほど奇をてらったものではないでしょう・・・・・・。
G:(上機嫌で)そう思いますか?!(急に深刻そうな顔をして)〈しかし私に理解できないのは、左手でカノン風の処理が可能な箇所があれほどあるのに、どうしてあなたはそれを怠るのかということです〉。
M:「ドソミソ、ドソミソ」といった左手のアルベルティ・バスに不服ですか?
G:不服ですね。ほら例えばソナタ第10番ハ長調K.330の第1楽章アレグロ・モデラートはこうです。(2種類残されたグールドの録音のうち、1970年録音と同じ激烈な速いテンポで弾く。)
M:(怖くなって)やめてくれ!耐えられない!いくらなんでも速すぎる! ×××みたいだ!(活字にできない下品な表現)
G:(笑って)失礼。興奮してしまったのでつい。〈同じ楽章を再び弾くが、今度は1958年録音のゆっくりとしたテンポである)この方がいいですか?
M:ええ、今度の方がいいです。しかし強弱はどうしたんです?フォルテとピアノの対比は?それからスフォルツァンドは?
G:ああ、罪深きモーツァルトよ!私はスフォルツァンドは決して弾きません。〈そういう芝居がかった要素は清教徒たる私の魂が許しませんからね〉。
M:(用心深く)批評家の反応はどうでしたか?つまり、スフォルツァンドがまったくなく、残ったものは・・・・・・。
G:(笑って)ああ、批評家ですね!あなたのソナタ第11番イ長調の私の解釈について、ある批評家先生が書いた文章を読んでさしあげましょうか?------「グールドが何を証明したいのかを理解するのは実に難しい。彼がこの曲を毛嫌いしているという噂が本当でない限り。テンポは聴いていて息苦しくなるほどに遅く、一音一音を短く切り、それらをお互いに分離させるデタシェのアーティキュレーションは、楽句の構造を乱す(そしてモーツァルトのはっきりとした指示にも数多く背いている)。[・・・・・・]このレコードを聴いていると、ある光景が浮かんでくる。それは、ひどく早熟だがとても意地悪な小さな男の子が、ピアノの教師をかつごうとしている情景である。」
M:(いぶかしげに)すると君はこの曲を、その、本当に毛嫌いしているわけですか?
G:(真剣に)いいえ、それは違います。確かに私はこの曲を大半のひとたちとは違った風に聴き、とらえ、そして解釈します。作曲者であるあなたの意図と違うのも事実です。〈あなたの音楽に私がもたらすものに賛同を得られない点が多々あるのも承知です。しかし、演奏家はたとえ暗中模索の状態にあったとしても、ある確信をもつべきなのです。すなわち、自分の解釈は正しいのだという確信、そして、演奏家は作曲家本人でさえ明確に意識していなかった解釈を見つけ得るのだという確信です〉。
M:君の演奏で、私の賛同を得られそうな解釈を施しているものを何か弾いてはいただけませんか?
Gソナタ イ長調の第3楽章アラ・トゥルカ、つまりいわゆる「トルコ行進曲」はいかがでしょう?
M:(不安そうに)はあ。
G:(笑いながら)心配ご無用。プレストでは弾きませんから。プレスティッシモでもありません。その正反対で、私はアレグレットで弾きます。あなたが指定したとおりのテンポでです。でもそういう演奏はめったにありませんよ。
M:(けげんそうに)ピアノとフォルテの対比もやるわけですね?
G:やりますとも!(笑って)この楽章にはスフォルツァンドの指定がありませんし。
M:では一音一音、私の書いたとおりに弾くんですね?
G:一音一音忠実に弾きますよ。ただしコーダで小さな分散和音を若干施しますがね。そうすると音楽がいかにもトルコ的になるでしょう?
M:まあいいでしょう。全身を耳にして聴きましょうか・・・・・・。

【終わり】

 Mozart piano Sonata no.11  Glenn Herbert Gould

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ここからは、関係ない。当ブロガーの自画像。 


オリンポスの対話(グールドとモーツアルト)-----その2。

2011-02-18 13:12:59 | Weblog

 オリンポスの対話-----ミヒャエル・シュテーゲマン+宮澤淳一(補筆・訳)
  
  
※<>は実際のグールドの発言からの引用。ただし人称は「モーツァルト」から「あなた」へと置き換えてある。

   ※当ブロガーが、ちょっと、アレンジをした。

グールド(以下G)
モーツァルト(以下M

M:正直のところ、絶句です。そんな話を聞いたら、誰もが思うでしょうね、ああ、グールドはモーツァルトの音楽が嫌いなんだな、って。【つづく】

G:(あわてて、しかも力をこめて)いいえ、とんでもない。どうしてそんなことをおっしゃるのです?例えば、あなたの交響曲第1番はまさに至高の宝石です。私は一度1959年のヴァンクーヴァー・フェスティヴァルで指揮をしたことだってありますよ。あるいはあなたのピアノ・ソナタの最初の6曲はどうです?〈声部の導き方、音域のバランスをしっかりととるところ、といった「バロック的な美点」の多くがすでに適切に配されています。そういう意味で後期の作品よりもすぐれていますし、だからこそ数ある作品の中で最高なのです。それにしても、「短いほどよい」という言葉があなたの音楽に対する私の姿勢をほぼ表現してはいますが、第6番ニ長調K.284は、おそらく6曲中最長のソナタであるにもかかわらず、大好きな曲だと言わねばなりません〉。〈終楽章は修正されたロンドというか、ひと組の変奏ですね。あなたのまともな変奏曲で、この終楽章ほど想像力に富むものを知りませんよ。ベートーヴェンでさえ、この終楽章ほど微妙な気分の推移に富んだ変奏曲は書いていません〉。
M:(絶望的に)喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか・・・・・・。
G:(無邪気に)いいですか、モーツァルトさん、あなたは〈ザルツブルクを離れたときにご自分のスタイルを凍結すべきだったのです。そして音楽語法を変えずにその後の300曲を書き続けていたら、本当によかったと思いますね〉。
M:(考え込んで)つまり、言いかえれば、ヴィーンが僕のスタイルをだめにしたと?
G:そう思いますよ。〈幾世代にもわたる聴き手があなたの音楽を形容するのに「軽さ」「気楽さ」「浅薄」「慇懃」「気まま」といった言葉を使うのが適当だと感じたとき、なぜそう感じたのか、その理由を考える価値は少なくともあります。正当な評価をされていないからだ、とか、共感が欠けているからだ、とは必ずしもいえないのです〉。
M:(不審そうに)つまり、「ドン・ジョヴァンニ」「魔笛」もだめだと?
G:だめです。
M:後期の交響曲もみなだめだと?
G:はっきり言ってだめです!後期にさしかかるぎりぎりのところで第35番「ハフナー」は認めますけどね。〈あの第1楽章の簡潔な構造は実に見事です〉。でも例えば、第40番ト短調は大嫌いです。あの曲で改宗を迫るのは無理ですよ。
M:もしかして後期のピアノ・ソナタも?
G:いちばんだめですね!〈我慢がなりません〉。そう言う私をお許しください。〈芝居がかった思いつきに満ちていますからね。はっきり言いますが、第16番変ロ長調K.570のような作品の録音に取りかかったとき、何の信念も抱いていませんでした。(わきを向いて)そういう作品はそっくり飛ばしてしまうのが誠実なやり方だったかもしれませんが、全集は完成させなくてはなりませんでした〉。
M:するともし僕が1791年に35歳で死なずにさらに創作を続けていたとすれば、作品は・・・・・・。
G:(勢い込んで、しかも冷ややかに)どうしようもなくなっていたでしょう!じゃあ仮にですよ、そう、あなたが70歳まで生きていたとしたら、1826年に死んだことになります。ベートーヴェンの死ぬ1年前、シューベルトの2年前ですね。すると、後半生の300曲の作品に基づいて、延命後のスタイルを推定するに、あなたはヴェーバーとシュポアの間に位置する作曲家として終わったでしょう。もっともこれは、私が1982年に50歳で死ななかったらさらに何を録音していたか、というのと同じくらい無意味な想像ですが。(毒々しく)いいですか、モーツァルトさん、私はあれ以上は何も録音しませんでしたよ、1曲たりとも。どのみち、50歳になったらピアニストをやめるつもりだったんですから・・・。
M:君が正しいとすれば、僕は〈早く死にすぎたのではなく、遅く死のすぎた〉ということに・・・。
G:誇張を恐れずに言えば、そうです。〈高い評価を得ているあの「劇的な(ドラマティック)」性格のおかげで、ある意味で、後期の楽曲は堕落したんですよ〉。こうも言えましょう。結局〈あなたは非常に世俗的な気質をもっていただけなんです。成長してからのあなたはその気質のおもむくままに活躍し、作品はそれ相応にだめになっていった〉。
M:(冷ややかに)そんなことを言うのは、なんて言っても無意味ですね。自分がかわいいから君の意見に賛成しないわけじゃないけれど、たとえ僕が自分を割り引いて考えたとしても、何十万とは言わないにせよ、どう控え目に見ても、何千人もの音楽愛好家は・・・・・・。
G:しかしたとえ何百万人いても、同じことです。子供の頃からそうでしたが、〈先生方も、私の知っているおとなで正常と思われる人たちも、どうしてこういった作品を西洋人の手になる偉大な音楽的財産に数えるのか、私にはまったく理解できませんでした〉。そもそも世間の人が私と同じようには物事をとらえていないとやっとわかったのは13歳くらいのときです。例えば、私は灰色のどんよりとした曇り空が大好きですが、その気持ちを人は共有してくれないなんて、それまで思ってもみなかったのです。ですから、日光の方を好む人が現実に存在することを知ったときは本当にショックでしたよ。このことは私にとってはいまだに謎なのですが、まあこれは別の話ですがね。
M:(哀れむように)かわいそうな友よ、君のことがわかり始めてきました。この天上には、「灰色のどんよりとした曇り空」が大好きだという君をきっと治療してくれる医者がいますよ。その医者の名はドクトル・フロイトといって・・・・・・。
G:(笑いながら)いや結構です。生前の私は、彼の同業者を遠ざけてきました。とにかく特定の天候を私が好む問題と、あなたの音楽にみられる創作上の一貫性の欠如に対する私の批判とは別の話です。さてそこで、例えば、ソナタ第13番変ロ長調K.333の終楽章アレグレット・グラツィオーソを考えてみましょう。いやもう少し正確に言うと、この楽章が閉じる直前のカデンツァの部分です。〈私にとって、あの1ページだけは入場料を払う価値があります〉。
M:(喜んで)本当ですか?
G:(怒ったように)しかしフェルマータのあと171小節で「カデンツァ・イン・テンポ」と指定するなんて、どうかしてます!〈作曲者のあなたが何と言おうと、あれは正真正銘のカデンツァです。同主調の変ロ短調で主題が弾かれて、その直後に下中音の変トが鳴る部分を低速ギアに変えずに突進させるなんて、どうしてこんなことをあなたが思いついたのか、それだけは理解できません〉。
M:話を聞く限り、僕の音楽に対する君のアプローチはもっぱら和声上の観点からしかないように思えますが。
G:ですからすでに申し上げたように、あなたの音楽からは対位法的な関心はこれっぽっちも刺激されませんから・・・・・・。

【つづく】 


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ここからは、関係ない。当ブロガーの自画像。


オリンポスの対話(グールドとモーツァルト)-----その1。

2011-02-13 12:53:14 | Weblog

 オリンポスの対話-----ミヒャエル・シュテーゲマン+宮澤淳一(補筆・訳)
  
  
※〈〉は実際のグールドの発言からの引用。ただし人称は「モーツァルト」から「あなた」へと置き換えてある。

   ※当ブロガーが、ちょっと、アレンジをした。

 雲の上に男がふたり。ひとりはセーター、ツイードのジャケット、その上に冬物のコートを着込んだ男。ウールのマフラー、チェックの縁なし帽、眼鏡、ミトン、だぶだぶのズボンにすり切れた茶色の靴。ピアノを弾いている。
 曲は、主題と6つの変奏、すなわち、モーツァルトのソナタ第11番イ長調K.331「トルコ行進曲付き」の第1楽章である。
 もうひとりはお下げ髪のついたかつらをかぶった男。ルーシュ飾りのネッカチーフ、金色の糸で豪華に刺繍の施されたヴェスト(そこには「黄金拍車勲章」がついている)、ひざ丈のズボン、絹のストッキングと留め金つきの靴、という装い。演奏にじっと耳を傾けている。
 ピアノを弾いているのはグレン・グールド。聴いているのはヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトである。

グールド(以下G):(第1楽章を弾き終えて)というわけですが・・・・・・。
モーツァルト(以下M
):(あっけにとられて)わ、わが友よ、ひとつ聞きたいのだけれど、そんなに低い位置から鍵盤に向かうのですか?
G
:そうです。
M:そうしていつもこの、何というか、椅子?に座って?
G:ええ、そうですよ。20歳か21歳のときに父に作ってもらったんです。
M:(おそるおそる)しかし、壊れているじゃないですか?
G:わかっています。一度ひどいめにあいましてね。空港の係員がこの上に立って、座る部分が抜けたんです。
M:(ピンとこない様子で)「クウコウ」の係員?
G:まぁいいです。(すばやく、しかも苛立った様子で)先回りして申し上げますがね、私はいつも演奏中に歌っています。別に有意義だと思いませんが、どうしても歌ってしまうんです。結局やめられませんでしたよ。ごめんなさい。
M:何も謝ることはありませんよ。特に気にはなりませんでしたから。少なくともそのことにはね。
G:では何に?
M:(はぐらかすように)いやその、君の弾いている楽器は妙な音ですねえ。ストライヒャー製のフォルテピアノではないし・・・・・・。
G:スタインウェイのCD318です。
M:(ピンとこない様子で)はあ。
G:で、気になったのは、ずばり、何ですか?
M:(困ったように)いや、何と言ったらよいか・・・・・・つまり、その・・・・・・。
G:・・・・・・テンポが遅すぎた?
M:その、第5変奏は、僕は「アダージョ」と指定しているのに、君はアレグロで弾いたでしょう・・・・・・・?
G:速すぎた、という意味ですか?
M:で、その一方、「アンダンテ・グラツィオーソ」と指定した主題は、ラルゴのようでしたね。(小声で)とてもあの曲には聞こえませんでした。
G:(笑って)あなただけではありませんよ、そういう反応を示したのは。今も同じ意見の人がいると思いますが、こんな批評が出ました。私の出したこの曲のレコードは「これまでで最も嫌悪すべきレコード」だと。
M:(意味がわからず)「れ、れこーど」?
G:(親切そうに)いいですか、モーツァルトさん、あなたが亡くなってから、この雲の下ではあなたには想像もつかないことが数えきれないほど起ったんです。しかし、われわれの対話ではそういったことは大切とは思えませんので、忘れましょう。今はこの演奏の問題だけを話し合えたらうれしいですね。「空港」や「レコード」についてはあとで喜んでご説明しましょう。オーケー?
M:『おー、けー、』です。どういう意味かよくわかりませんが。
G:結構です。第5変奏は速すぎる、主題は遅すぎる、とおっしゃるわけですね?!
M:ほかにもありますがね。いったいぜんたい、どうして君は・・・・・・。
G:(興奮して)いいですか、ここでの私の発想は、個々の変奏はその前の変奏よりも必ず速く弾くというものなんですよ。そういう〈私の意図からすれば、第5変奏は最後から2番目ですから、テンポも第6変奏に次ぐ速さとなるのです〉。
M:(いくぶん苛立って)そりゃあ君の意図に従えばそうでしょう。しかし、友よ、この僕の意図はどうなるんですか?
G:(問いを無視して)〈つまり、あの演奏の背後にある考えはこうです。第1楽章は緩徐楽章というよりは、ノクターン兼メヌエットですし----この点はあなたも否定しないでしょう?----このパッケージ全体を閉じるのは第3楽章のトルコの宮殿風の不思議な曲です。つまり、演奏者は特殊な構成を扱うわけで、ソナタ形式の約束事はほぼすべて忘れてよいのです〉。
M:本気ですか?(皮肉っぽく)いや、この僕の作ったソナタについての、この僕へのご教示、深く感謝いたしますよ。
G:(やや困惑して)〈私の第1楽章の演奏がいくぶん異様であることは認めますがね〉。
M:(きつく)まったく同感です。(少し間をおいて)どうして私の主題がそんな扱いを受けなくてはならないんでしょう?
 
G:(慎重に)この上なく陳腐な主題だからですよ。
M:君のように弾かなければそうでしょう。
G:そのとおりです。人々にはまったく新しい形でこれを聴き、体験してもらいたかったんです。〈徹底的に解析することによって、曲の基本的要素のひとつひとつを分離させ、主題の一貫性をわざと崩してみたかったんです〉。
M:君は砦を攻撃したら、ドカン!と、一挙にすべてを破壊するタイプなんですね。
G:いいえ、その逆です。〈私の発想はこうです。次々に現れる個々の変奏が、この一貫性の復元に奉仕します。そしてその作業に没入するうちに、装飾や彩りの要素としての変奏は、あまり目立たなくなるのです〉。
M:(驚いて)何としての変奏ですって?「彩りの要素」としての変奏ですって?
G:「装飾や彩りの要素」としての変奏です。〈あなたは紋切型の音型を安易に使いすぎると思いますね。何も考えていないだけなのではないかという印象をいつも受けます。あなたのやっていることは、ほかのありきたりの手法でも十分楽しめるような単なる触感の喜びなんですよ〉。これについて無理に認めさせてもどうにもなりませんがね。対位法的な関心が完全に欠如している点については言うまでもありません。芝居がかった快楽主義(シアトリカル・ヘドニズム)の極致だと言ったらわかりますか?(少し間をおいて)あの、何かおっしゃってください。
M:正直のところ、絶句です。そんな話を聞いたら、誰もが思うでしょうね、ああ、グールドはモーツァルトの音楽が嫌いなんだな、って。
【つづく】 

 

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ここからは、関係ない。当ブロガーの自画像。

 


映画「ヤコブへの手紙」と韓豚屋(HAN-TEJI-YA)。

2011-02-10 00:54:05 | Weblog

 私は、初め、なんと綺麗なところだろうと思った。山や湖は、風によそいで美しい。

 そこで、ヤコブ牧師と恩赦で出所したレイラは、出会う。二人とも悲しいのに、心まで見せようとしない。ヤコブ牧師は、このまま死んでしまうといいなと思うし、レイラは、自殺をしようとする。そのあと、劇的な会話が始まる。何と悲しいが、救われる。

 

 そのあと、韓豚屋(HAN-TEJI-YA)に行った。ガード下にある。半分凍りかけたマッコリとホットマッコリを呑んだ。ここのマッコリは、濃いし、美味しかった。

 あさりと豆腐のスンドゥブ(純豆腐)は、あんまり辛くないし、冷奴はコチュジャン(?)は、合う。

 新大久保によく行くが、このお店はなかなか。


ダ・ヴィンチ特別展~モナ・リザ25の秘密~と「松本楼」。

2011-02-03 17:53:42 | Weblog

 孫たちと一緒に、日比谷公園のダ・ヴィンチ・ミュージアムに行った。
 「ダ・ヴィンチが、今、生きていれば、もし学校の先生になったら色んなことを習うのになぁ!」と孫(兄)が言った。「モナ・リザは、まだ、完成してないって!」と孫(妹)が言った。

 それから、日比谷公園の松本楼に行った。サーモンのグリルは、バルサミコソースがいい味が出ている。

 今日は、本当に寒い。右手は、いつもならプランプランしているのに、寒さに縮こまっている。右足は、歩くたびに痛い。孫たちは元気だ。