私は失語症です(脳出血により失語症にかかり、克服したい)。

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オリンポスの対話(グールドとモーツアルト)-----その2。

2011-02-18 13:12:59 | Weblog

 オリンポスの対話-----ミヒャエル・シュテーゲマン+宮澤淳一(補筆・訳)
  
  
※<>は実際のグールドの発言からの引用。ただし人称は「モーツァルト」から「あなた」へと置き換えてある。

   ※当ブロガーが、ちょっと、アレンジをした。

グールド(以下G)
モーツァルト(以下M

M:正直のところ、絶句です。そんな話を聞いたら、誰もが思うでしょうね、ああ、グールドはモーツァルトの音楽が嫌いなんだな、って。【つづく】

G:(あわてて、しかも力をこめて)いいえ、とんでもない。どうしてそんなことをおっしゃるのです?例えば、あなたの交響曲第1番はまさに至高の宝石です。私は一度1959年のヴァンクーヴァー・フェスティヴァルで指揮をしたことだってありますよ。あるいはあなたのピアノ・ソナタの最初の6曲はどうです?〈声部の導き方、音域のバランスをしっかりととるところ、といった「バロック的な美点」の多くがすでに適切に配されています。そういう意味で後期の作品よりもすぐれていますし、だからこそ数ある作品の中で最高なのです。それにしても、「短いほどよい」という言葉があなたの音楽に対する私の姿勢をほぼ表現してはいますが、第6番ニ長調K.284は、おそらく6曲中最長のソナタであるにもかかわらず、大好きな曲だと言わねばなりません〉。〈終楽章は修正されたロンドというか、ひと組の変奏ですね。あなたのまともな変奏曲で、この終楽章ほど想像力に富むものを知りませんよ。ベートーヴェンでさえ、この終楽章ほど微妙な気分の推移に富んだ変奏曲は書いていません〉。
M:(絶望的に)喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか・・・・・・。
G:(無邪気に)いいですか、モーツァルトさん、あなたは〈ザルツブルクを離れたときにご自分のスタイルを凍結すべきだったのです。そして音楽語法を変えずにその後の300曲を書き続けていたら、本当によかったと思いますね〉。
M:(考え込んで)つまり、言いかえれば、ヴィーンが僕のスタイルをだめにしたと?
G:そう思いますよ。〈幾世代にもわたる聴き手があなたの音楽を形容するのに「軽さ」「気楽さ」「浅薄」「慇懃」「気まま」といった言葉を使うのが適当だと感じたとき、なぜそう感じたのか、その理由を考える価値は少なくともあります。正当な評価をされていないからだ、とか、共感が欠けているからだ、とは必ずしもいえないのです〉。
M:(不審そうに)つまり、「ドン・ジョヴァンニ」「魔笛」もだめだと?
G:だめです。
M:後期の交響曲もみなだめだと?
G:はっきり言ってだめです!後期にさしかかるぎりぎりのところで第35番「ハフナー」は認めますけどね。〈あの第1楽章の簡潔な構造は実に見事です〉。でも例えば、第40番ト短調は大嫌いです。あの曲で改宗を迫るのは無理ですよ。
M:もしかして後期のピアノ・ソナタも?
G:いちばんだめですね!〈我慢がなりません〉。そう言う私をお許しください。〈芝居がかった思いつきに満ちていますからね。はっきり言いますが、第16番変ロ長調K.570のような作品の録音に取りかかったとき、何の信念も抱いていませんでした。(わきを向いて)そういう作品はそっくり飛ばしてしまうのが誠実なやり方だったかもしれませんが、全集は完成させなくてはなりませんでした〉。
M:するともし僕が1791年に35歳で死なずにさらに創作を続けていたとすれば、作品は・・・・・・。
G:(勢い込んで、しかも冷ややかに)どうしようもなくなっていたでしょう!じゃあ仮にですよ、そう、あなたが70歳まで生きていたとしたら、1826年に死んだことになります。ベートーヴェンの死ぬ1年前、シューベルトの2年前ですね。すると、後半生の300曲の作品に基づいて、延命後のスタイルを推定するに、あなたはヴェーバーとシュポアの間に位置する作曲家として終わったでしょう。もっともこれは、私が1982年に50歳で死ななかったらさらに何を録音していたか、というのと同じくらい無意味な想像ですが。(毒々しく)いいですか、モーツァルトさん、私はあれ以上は何も録音しませんでしたよ、1曲たりとも。どのみち、50歳になったらピアニストをやめるつもりだったんですから・・・。
M:君が正しいとすれば、僕は〈早く死にすぎたのではなく、遅く死のすぎた〉ということに・・・。
G:誇張を恐れずに言えば、そうです。〈高い評価を得ているあの「劇的な(ドラマティック)」性格のおかげで、ある意味で、後期の楽曲は堕落したんですよ〉。こうも言えましょう。結局〈あなたは非常に世俗的な気質をもっていただけなんです。成長してからのあなたはその気質のおもむくままに活躍し、作品はそれ相応にだめになっていった〉。
M:(冷ややかに)そんなことを言うのは、なんて言っても無意味ですね。自分がかわいいから君の意見に賛成しないわけじゃないけれど、たとえ僕が自分を割り引いて考えたとしても、何十万とは言わないにせよ、どう控え目に見ても、何千人もの音楽愛好家は・・・・・・。
G:しかしたとえ何百万人いても、同じことです。子供の頃からそうでしたが、〈先生方も、私の知っているおとなで正常と思われる人たちも、どうしてこういった作品を西洋人の手になる偉大な音楽的財産に数えるのか、私にはまったく理解できませんでした〉。そもそも世間の人が私と同じようには物事をとらえていないとやっとわかったのは13歳くらいのときです。例えば、私は灰色のどんよりとした曇り空が大好きですが、その気持ちを人は共有してくれないなんて、それまで思ってもみなかったのです。ですから、日光の方を好む人が現実に存在することを知ったときは本当にショックでしたよ。このことは私にとってはいまだに謎なのですが、まあこれは別の話ですがね。
M:(哀れむように)かわいそうな友よ、君のことがわかり始めてきました。この天上には、「灰色のどんよりとした曇り空」が大好きだという君をきっと治療してくれる医者がいますよ。その医者の名はドクトル・フロイトといって・・・・・・。
G:(笑いながら)いや結構です。生前の私は、彼の同業者を遠ざけてきました。とにかく特定の天候を私が好む問題と、あなたの音楽にみられる創作上の一貫性の欠如に対する私の批判とは別の話です。さてそこで、例えば、ソナタ第13番変ロ長調K.333の終楽章アレグレット・グラツィオーソを考えてみましょう。いやもう少し正確に言うと、この楽章が閉じる直前のカデンツァの部分です。〈私にとって、あの1ページだけは入場料を払う価値があります〉。
M:(喜んで)本当ですか?
G:(怒ったように)しかしフェルマータのあと171小節で「カデンツァ・イン・テンポ」と指定するなんて、どうかしてます!〈作曲者のあなたが何と言おうと、あれは正真正銘のカデンツァです。同主調の変ロ短調で主題が弾かれて、その直後に下中音の変トが鳴る部分を低速ギアに変えずに突進させるなんて、どうしてこんなことをあなたが思いついたのか、それだけは理解できません〉。
M:話を聞く限り、僕の音楽に対する君のアプローチはもっぱら和声上の観点からしかないように思えますが。
G:ですからすでに申し上げたように、あなたの音楽からは対位法的な関心はこれっぽっちも刺激されませんから・・・・・・。

【つづく】 


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ここからは、関係ない。当ブロガーの自画像。

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