この2日、腰椎コルセットを装着した自分。
靴下を履くのもままならないが、
意外とそれはそれで面白い。
色んな発見が関節運動の視点、
そして、神経系の視点からある。
それでも行為は生まれる。
どのように行うかの自由度を持つ。
すなわち、行為のシミュレーション。
意図的な関係性に基づく運動イメージを持つことができる
自分の脳と身体は、自由度をいかようにでも調整できるものを持っている。
その自由度が制限されて不便さは感じるが、
いくとおりの行為を生み出す自分は豊かな身体を持った自分であると感じる。
この自分を教えることがセラピストの仕事なのかもしれない。
在宅リハビリテーションでは、それが醍醐味なのかもしれない。
午前中は、書き物をして、
午後は学部生の指導、
および会議、そして臨床実習指導者会議の準備などを行った。
もうそんな季節、
年々、年月の進み具合が早いと感じるが、
こうも毎週の講演が続くと、
心はもう年末、そして正月である。
早く冬休み来ないかな、と小学生並みのカレンダーをとばしている。
夜には奈良リハの共同研究者たちが来て議論を行う。
厳密な臨床手続きが求められるように、
研究も厳密な手続きが求められる。
厳密さのきわみを追求すれば、
結果はシンプルに現れる。
考察は結果に対してのみ、
その忠実さが科学的な態度である。
方法の厳密さ、結果の多彩さ、そして考察のシンプルさ。
あ~だ、こ~だ、ノウガキは自分の頭でするものであり、
文章には極力抑える。
ただし、そのノウガキは頭のなかで徹底的にしたほうがよいと思う。
それが最終的に奥行きにつながるように思える。
しかしながら、自分の研究はと思うと、
こうも論文を書いてきて、
その手続きは決してほめられるものではないと思い、
PTになって17年間、
そのほとんどが研究人生であるが、
物事を深く考えることができる進歩はあるが、
研究手続きの厳密さに進歩はあまり感じられず、
同級生やかつての仲間からのご批判をちょうだいしても、
それは的を得ていると思う。
そういう意見を言ってくれる仲間はいつだってありがたい。
21時過ぎに腰が限界をむかえたので、
家路を急ぐ。
テレビをつけるとケンミンショーに高知県人が出ていた。
「昼から飲む高知県人」
「よさこいを愛する高知県人」
「龍馬をこよなくリスペクトする高知県人」が出ており、
「よさこいはステージでやるものでなく、ストリートでやるもの」
「今の現代社会をつくったのは高知県人(坂本龍馬、吉田茂)」と豪語するおじさま、おばさまは、未来の自分をみるようで恐い。
板垣退助、中江兆民、植木枝盛、幸徳秋水、なども追加しておこう。
今の民主主義、社会主義、共産主義の原点がここにあるといってしまえば、
それは強引と批判を浴びそうだ。
上の人たちを見ると、理想は高いが、
現実目線では捕らえることができず、
結果的に陽の目をあびず、
その周りにいる、とりまとめが上手い、
そして目線が現実的な人たちにより
現代の社会がつくられたのだろう。
土佐人は志はいいが、運営には弱い。
しかし、三菱財閥の岩崎弥太郎やカシオ計算機の樫尾忠雄、
ルイ・ヴィトンジャパンの秦郷次郎、公文式の公文公など、
新しい道を拓くのは好きなんだろう。
寺田寅彦のように、
自然科学と人文科学の両立や、
牧野富太郎のように、
地位や名誉よりも研究など、
「いごっそう」は、
近くを見る能力は乏しいかもしれないが、
好きなものにまい進する、
遠くを見る能力はすぐれているのかもしれない。
どこまでも続く太平洋の地平線をながめると、
しらないうちにそんなのになっているのかもしれない。
まだ地方分権が言われていない時代に、
橋本大二郎をかつぎ・・・これはどうかは難しいが。
私学で最初に理学療法士の養成が始まった(養成学校)のも高知県。
そのおかげで、自分がPTになったころは
ダントツの人口比のPT数、世界一であった。
なんせ、人口は自然減ですから。。。
発泡酒売り上げNo.1と決して裕福でなく、
学力もいつも沖縄、山陰地方と最下位を争い、
スポーツは天皇・皇后杯ともに最下位。
それでもUターン率が高いこの県は、
人間らしい人情があるのだろう。
大阪人のハイヒール・モモコや久本雅美からも、
大阪人より恐ろしい、「我」が強い県として認知されたようだ。
ヤクザ映画でもっとも恐いことばは、
広島弁でもなく、関西弁でもなく、土佐弁であると、
それは感じてしまう。
これは高知びいきではなく、
語尾のイントネーションをすべて下げる音声の特徴にあるのだと思う。
いずれにしても、「自由は土佐の山間より」という言葉があるように、
「自由」を愛する。
脳は自由を感じることで、幸せを感じる。
freedom form care、これこそが安心である。
島国根性丸出しのブログであった。
靴下を履くのもままならないが、
意外とそれはそれで面白い。
色んな発見が関節運動の視点、
そして、神経系の視点からある。
それでも行為は生まれる。
どのように行うかの自由度を持つ。
すなわち、行為のシミュレーション。
意図的な関係性に基づく運動イメージを持つことができる
自分の脳と身体は、自由度をいかようにでも調整できるものを持っている。
その自由度が制限されて不便さは感じるが、
いくとおりの行為を生み出す自分は豊かな身体を持った自分であると感じる。
この自分を教えることがセラピストの仕事なのかもしれない。
在宅リハビリテーションでは、それが醍醐味なのかもしれない。
午前中は、書き物をして、
午後は学部生の指導、
および会議、そして臨床実習指導者会議の準備などを行った。
もうそんな季節、
年々、年月の進み具合が早いと感じるが、
こうも毎週の講演が続くと、
心はもう年末、そして正月である。
早く冬休み来ないかな、と小学生並みのカレンダーをとばしている。
夜には奈良リハの共同研究者たちが来て議論を行う。
厳密な臨床手続きが求められるように、
研究も厳密な手続きが求められる。
厳密さのきわみを追求すれば、
結果はシンプルに現れる。
考察は結果に対してのみ、
その忠実さが科学的な態度である。
方法の厳密さ、結果の多彩さ、そして考察のシンプルさ。
あ~だ、こ~だ、ノウガキは自分の頭でするものであり、
文章には極力抑える。
ただし、そのノウガキは頭のなかで徹底的にしたほうがよいと思う。
それが最終的に奥行きにつながるように思える。
しかしながら、自分の研究はと思うと、
こうも論文を書いてきて、
その手続きは決してほめられるものではないと思い、
PTになって17年間、
そのほとんどが研究人生であるが、
物事を深く考えることができる進歩はあるが、
研究手続きの厳密さに進歩はあまり感じられず、
同級生やかつての仲間からのご批判をちょうだいしても、
それは的を得ていると思う。
そういう意見を言ってくれる仲間はいつだってありがたい。
21時過ぎに腰が限界をむかえたので、
家路を急ぐ。
テレビをつけるとケンミンショーに高知県人が出ていた。
「昼から飲む高知県人」
「よさこいを愛する高知県人」
「龍馬をこよなくリスペクトする高知県人」が出ており、
「よさこいはステージでやるものでなく、ストリートでやるもの」
「今の現代社会をつくったのは高知県人(坂本龍馬、吉田茂)」と豪語するおじさま、おばさまは、未来の自分をみるようで恐い。
板垣退助、中江兆民、植木枝盛、幸徳秋水、なども追加しておこう。
今の民主主義、社会主義、共産主義の原点がここにあるといってしまえば、
それは強引と批判を浴びそうだ。
上の人たちを見ると、理想は高いが、
現実目線では捕らえることができず、
結果的に陽の目をあびず、
その周りにいる、とりまとめが上手い、
そして目線が現実的な人たちにより
現代の社会がつくられたのだろう。
土佐人は志はいいが、運営には弱い。
しかし、三菱財閥の岩崎弥太郎やカシオ計算機の樫尾忠雄、
ルイ・ヴィトンジャパンの秦郷次郎、公文式の公文公など、
新しい道を拓くのは好きなんだろう。
寺田寅彦のように、
自然科学と人文科学の両立や、
牧野富太郎のように、
地位や名誉よりも研究など、
「いごっそう」は、
近くを見る能力は乏しいかもしれないが、
好きなものにまい進する、
遠くを見る能力はすぐれているのかもしれない。
どこまでも続く太平洋の地平線をながめると、
しらないうちにそんなのになっているのかもしれない。
まだ地方分権が言われていない時代に、
橋本大二郎をかつぎ・・・これはどうかは難しいが。
私学で最初に理学療法士の養成が始まった(養成学校)のも高知県。
そのおかげで、自分がPTになったころは
ダントツの人口比のPT数、世界一であった。
なんせ、人口は自然減ですから。。。
発泡酒売り上げNo.1と決して裕福でなく、
学力もいつも沖縄、山陰地方と最下位を争い、
スポーツは天皇・皇后杯ともに最下位。
それでもUターン率が高いこの県は、
人間らしい人情があるのだろう。
大阪人のハイヒール・モモコや久本雅美からも、
大阪人より恐ろしい、「我」が強い県として認知されたようだ。
ヤクザ映画でもっとも恐いことばは、
広島弁でもなく、関西弁でもなく、土佐弁であると、
それは感じてしまう。
これは高知びいきではなく、
語尾のイントネーションをすべて下げる音声の特徴にあるのだと思う。
いずれにしても、「自由は土佐の山間より」という言葉があるように、
「自由」を愛する。
脳は自由を感じることで、幸せを感じる。
freedom form care、これこそが安心である。
島国根性丸出しのブログであった。