森岡 周のブログ

脳の講座や講演スケジュールなど・・・

涙を流すことの意味

2007年01月17日 23時13分46秒 | 過去ログ
実習配置終了、あとは教員全員でもう一度パズルの組み換え。
3割りぐらいは変動するだろう。
これも運命、どうなるのかわからない。

配置をしながら少し考えることがあった。
「涙を流す」ことの閾値が低くなっているということに。
これは「キレる」閾値にも近いと思う。

乳児の泣くという行為は生きていくために必要な生理的欲求である。
その欲求が満たされるということで、その泣くという行為は心理的欲求に変わる。
願望欲である。
「ミルク」で満たされた喜びは、そのあと、自分が満たされないと、それを満たしてほしいというサインのために泣く。
おもちゃを買ってもらえないときに泣くのもそうである。

これは、心理的欲求だが、果たして意図的かと言われると、そういう場合もあるし、そうでないときもあるように思える。
あからさまに戦略的に泣くのはそうであるが、自然と涙が出てしまうのも事実である。
怒られて泣くという行為もその自然に近い。
無意識に願望を相手に伝えるという人間に存在する行為なんだろう。

子供をしかり、泣くというのもそうかな。

それが成長し、場というものを尊重し、自分を操作する「メタな人間」が生まれるのが通常の大人という。このことについては後で触れる。

学生をしかると(しつけのため)泣く場面によく出くわすと教官の間でもよく話題にでる。
怒らなくても、部屋に泣きにくるっていうのもある。
これはうちだけでなく、他学でもある。
最近、他学でも話題になった。
これは「見て」「見て」「なぐさめて」「認めて」「聞いて」「聞いて」という自己欲求を他者へ向かわせる典型的な行為である。

この場合、聞いてあげるということで大抵落ち着く。
この行為は別に悪いわけでなく、人間にはあるものだ。
森羅万象、この世に生きている以上は「他者」に見てもらいたいし、認めてもらいたい。そうだと思う。

しかし、状況を垣間見ないといけないし、それを続けるわけにもいかない。
なぜなら、私たちには「学習する脳」、大脳皮質があるから。


これについては、「私」こんなに一生懸命やっているのに、「どうして?」という意識なのかもしれない。
「私自身」が一生懸命やっていると思っている(思い込んでいる)度合いに涙の出現は比例するのかもしれない。

しかし、よくよく考えると、この出来事は、その一生懸命の度合いが、他者、すなわち、バイザーや教官、親、あるいは恋人から見ればまだまだ足りない、あるいはずれている(違う)のだ。
このことに学生は気づかないといけない。

これには二つの傾向がある。
ひとつは「結果(怒られる)」が自らの「予期」をはるかに超えた。
「結果」が「予期」通りだった。
この二つの感情システムがあるように思える。

先日、母親のことで、ある医療者をどなりつけた。
このことで後から違う医療者から電話があったが、「泣いていた」という出来事を患者の家族が聞いた。
しかし、ちゃんちゃらおかしい。
精一杯やって怒られたので泣いたという出来事は患者の家族にとってまったく意味はないし、逆にその事実を聞いたとしても、まったく「共感」はしない。
むしろ、プロとして目を疑う。

つまり、バイザーにおこられる、教官におこられる、そして泣いたり、すねたりするという行為は、まだプロとして未熟なのだ。

泣くという行為は自分自身の振り返り行為であるが、それは「場の精神」をわきまえないといけない。
これがないと、ルドウーのいう高次でなく、低次感情処理システムになってしまう。これが反射的に学習されている学生もいる。注意されたら必ず泣くということは、蛇を見たら必ず逃げるという処理システムである。つまり防御システムである。自らの自己防衛のために「泣く」のである。

こればっかりはそうではない。そんなつもりで泣いていない、という意見もあるだろう。しかし、それは意識であり、この防衛システムは無意識であるから、そこにすぐには接続はできない。意識ではそうでないといえるのは脳のシステムが違うからだ。そこに接続するためには、「ゆっくりとした時空」のなかでしばらく自省し続けるしかない。

自分のそうした泣くという、いわゆる「同情」願望システム、あるいは防衛システムだけに人の涙はあるのではない。

涙を流すという人の本質的な意味は無意識に他者に「共感」するシステムである。
ミラーニューロンがシステムとしていわれ始めて数年たつが、STSや前部帯状回、あるいは島がその機能を担っている事実は、泣くという行為は他者のためにあるのだと思う。
そう、「共感」するというということは、こういうことなのだ。
学生に研究室で泣かれても、真から「共感」することは出来ないと思う。
「励まし」はできるが、その時空を本質的に共有できていない。
共通コードされないのである。

ということは、泣くという行為は、二人称の意識経験が存在しているということが大事なんだ。
だから、医療者は家族には勝てない。
アンビリバブルな出来事は、脳の機能からいって、アンビリバブルでは、実はないのだ。
その無意識の共感システムは本当の無意識ではない。
犬の遠吠えを見ても、聞いても人間のミラーニューロンは活性しない。
「私」と「あなた」との「間」の意識経験が重要だ。

いずれにしても、「泣く」という閾値が下がっている諸君、「私自身」をもう1回見直してちょうだい。

一方、「マインドリーディング」できなさすぎるという諸君も逆の意味で困る。
人間の「心の理論」はこれがあって成立する。
相手に心を読んでもらうように振舞うことも大事である。
メタ認知できていない者が増えている。
社会的認知能力の基本はこの脳のシステムである。
現代の秩序のない日本社会は、これが失われている。
現代若者に足りないのはこのメタ認知である。


しかしながら、メタ認知が究極すぎるのも実は人間らしさ、いや違う。「私らしさ」を失うきっかけになる。右肩の背後にいる「私」、つまり「客観的」ということを意識するあまりに、「頭のなか」の「私」を制御しすぎてしまうのである。
一昔前の会社依存主義の時代はこうであった。
ここに「私らしさ」は存在しなかった。いやご法度であった。
封建社会日本の名残である。

外部の振舞っている「私」でなく、そのつど内部に表象されるエモーショナルな「私」が「私」なのかもしれない。

「私らしさ」それは、その中間なのか、内部の「私」なのか、はたまた外部なのか。その答えを探し求めるために人生の旅があるのかもしれない。

そんな私も昔は自分のことしか考えていないすぐにキレる若者の代表だった。
今もキレるが、少し自分が違うようになってきた。そういう過去の私について見方が変わるというのが「学習」っていうのかもしれない。

この私を振り返るという表象し、その見方が変化することは大事だが、モノの見方が変わる、つまりリハビリテーションの見方が変わることも「学習」なんだろう。アインシュタインが言った「学校で習ったことをすべて忘れることが学習である」という格言や、「知識よりも想像が大切である」という格言も的を得ている。1976年12月の理学療法・作業療法(現理学療法ジャーナル)の表紙は股関節伸展に苦しんでいる患者の表情だった。あれから30年、振り返ってみませんか。そのころは、プロペラ機の時代、カセットテープの時代、パソコンなんか・・・の時代ですよ。

私の振り返り、あるいは仕事の振り返り、そのつど新しい自分に出会える、これこそ幸せであり、それを感じさせてくれるのは脳そのものだ。

私は心底、脳や学習や認知を勉強していることが、自分の人生にとって有意味になっている。これを勉強しなかったら今頃も自己中心的かつ自尊心の高い、テクニックを駆使し、患者に治療を施してやっているという鼻高々な情けないセラピスト、教師だっただろう。

脳や認知を学習するたびに、自らが反省する。

その手続きを知った。

人生すべて勉強である。

小学校の恩師にいただいた色紙にはそう書いてあった。



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