5月26日(水)人殺し野郎の継承
女性を強姦して(しそこなって)殺してトイレに流したという男がいる。怖いというのは女性であって、男はこんなものは怖くはない。どうせ男仲間ではパシリに過ぎない野郎だ。しかも殺したのは一人であって、これが10人だったら、少しは怖いだろうが。
この男は岡山の人で、マスコミはこぞって岡山に行っているのだが、しかし、高卒までそこに存在したというだけで、岡山と殺人の因果関係はどうせまったくない。けれどマスコミの肩を持てば、ただこいつが岡山でサーフィンやってようが、マンガの趣味があろうが、どこの何ともわからないものが殺人するよりも、サーフィンやっていた(架空)という事実さえも明らかになれば、それはそれで視聴者の留飲が下がろうというものだ。NHKが察情報の垂れ流しばかりで、洗濯機にも血痕が付いていたなどは、察がマスコミをもてあそんで徐々に話を流しているだけで、そのうちに、体の一部を食べたとでもいいだすのだろう。
さて本題は、こいつの岡山の友達連中は、だれがどういうようにこれを記憶しているのかという話である。33歳にもなれば、田舎でも実家を出ている人が多いわけだが。
男友達の本人が意外にも達観していて、かつての友人の反社会的な行為を糾弾して、あの男はどうだったと記憶しているのが、案外一番正確なのだが、しかしそういう男友達というのは少ないものだ。にもまして、友人が実に少ないというお宅少年でもあったから。
その次には、妙に女友達が、実家の母親とこの件の話をして、母親が娘からしっかり聞き出していた人は、実家に母親だけが残っていたとしても、案外マスコミの役には立っている。
そしてダメなのは、実家を出てしまっている男は、もう母親との縁もかなり薄い。父親とはなおさらである。そうなると、実家はマスコミの襲撃そのものを嫌って、何も話はしない。
実家に父親だけ残っている娘友達も同じようなもので、父親はマスコミが娘に何かを尋ねるというその行為自体に嫌悪感があって、記憶がどうであろうと、剣もホロロである。
母親とはつくづく得な存在だと思う。男女問わずに子供といつまでも仲がいいのは母親で、ましてや娘と母親の関係はそう簡単には崩れない。一人子供なら娘に限るという母親は今の時代に圧倒的に多い。そして息子は、母親の存在を越えた時にようやく結婚できるわけで、それで初めて妻を妻として見られるわけで、そうじゃないと妻を母親として見て、大きな勘違いがそこに生じる。
そして父親とは、息子にとっては越えるべき存在であって、超えてしまえばもう用済みとなる。息子がいつまでも父親を利用するのは、政治屋とタレントだけで、あれは息子が父を利権に利用しているだけで、正常な親子関係とは程遠い。そして娘から見た父は、ほとんど存在自体が煩わしいと思うのがせいぜいで、男親が娘を思う10分の1さえも、娘は理解していない。つまり父親の独りよがりである。男親の人生とは、たんなる勘違いで終わりそうだ。
つまり男親とは、ガキどもが成人するまでにせっせと金を運んでくるだけが仕事で、他に役目はない。それが今の私でもある。
でもせめて救いがあるとするなら、15歳のころに男のロマンを夢見たように、今でも同じことを継続できるのは男親だけである。人生の一時だけは暇つぶしに二人の子供を育ててはみるけれど、あれは片手間であって、本来の目的は、20歳だろうと、現在だろうと、70歳になっても、同じ夢を持ち続けるのが理想なのだろうかと、少し思う。となれば、三浦雄一郎のあの年の元気さだけは認めてもいいような気にもなるが。んなことでもしなきゃ、アホらしくて男親などやってられるかいと、他人の家族関係をのぞき見て、感じたこと。
女性を強姦して(しそこなって)殺してトイレに流したという男がいる。怖いというのは女性であって、男はこんなものは怖くはない。どうせ男仲間ではパシリに過ぎない野郎だ。しかも殺したのは一人であって、これが10人だったら、少しは怖いだろうが。
この男は岡山の人で、マスコミはこぞって岡山に行っているのだが、しかし、高卒までそこに存在したというだけで、岡山と殺人の因果関係はどうせまったくない。けれどマスコミの肩を持てば、ただこいつが岡山でサーフィンやってようが、マンガの趣味があろうが、どこの何ともわからないものが殺人するよりも、サーフィンやっていた(架空)という事実さえも明らかになれば、それはそれで視聴者の留飲が下がろうというものだ。NHKが察情報の垂れ流しばかりで、洗濯機にも血痕が付いていたなどは、察がマスコミをもてあそんで徐々に話を流しているだけで、そのうちに、体の一部を食べたとでもいいだすのだろう。
さて本題は、こいつの岡山の友達連中は、だれがどういうようにこれを記憶しているのかという話である。33歳にもなれば、田舎でも実家を出ている人が多いわけだが。
男友達の本人が意外にも達観していて、かつての友人の反社会的な行為を糾弾して、あの男はどうだったと記憶しているのが、案外一番正確なのだが、しかしそういう男友達というのは少ないものだ。にもまして、友人が実に少ないというお宅少年でもあったから。
その次には、妙に女友達が、実家の母親とこの件の話をして、母親が娘からしっかり聞き出していた人は、実家に母親だけが残っていたとしても、案外マスコミの役には立っている。
そしてダメなのは、実家を出てしまっている男は、もう母親との縁もかなり薄い。父親とはなおさらである。そうなると、実家はマスコミの襲撃そのものを嫌って、何も話はしない。
実家に父親だけ残っている娘友達も同じようなもので、父親はマスコミが娘に何かを尋ねるというその行為自体に嫌悪感があって、記憶がどうであろうと、剣もホロロである。
母親とはつくづく得な存在だと思う。男女問わずに子供といつまでも仲がいいのは母親で、ましてや娘と母親の関係はそう簡単には崩れない。一人子供なら娘に限るという母親は今の時代に圧倒的に多い。そして息子は、母親の存在を越えた時にようやく結婚できるわけで、それで初めて妻を妻として見られるわけで、そうじゃないと妻を母親として見て、大きな勘違いがそこに生じる。
そして父親とは、息子にとっては越えるべき存在であって、超えてしまえばもう用済みとなる。息子がいつまでも父親を利用するのは、政治屋とタレントだけで、あれは息子が父を利権に利用しているだけで、正常な親子関係とは程遠い。そして娘から見た父は、ほとんど存在自体が煩わしいと思うのがせいぜいで、男親が娘を思う10分の1さえも、娘は理解していない。つまり父親の独りよがりである。男親の人生とは、たんなる勘違いで終わりそうだ。
つまり男親とは、ガキどもが成人するまでにせっせと金を運んでくるだけが仕事で、他に役目はない。それが今の私でもある。
でもせめて救いがあるとするなら、15歳のころに男のロマンを夢見たように、今でも同じことを継続できるのは男親だけである。人生の一時だけは暇つぶしに二人の子供を育ててはみるけれど、あれは片手間であって、本来の目的は、20歳だろうと、現在だろうと、70歳になっても、同じ夢を持ち続けるのが理想なのだろうかと、少し思う。となれば、三浦雄一郎のあの年の元気さだけは認めてもいいような気にもなるが。んなことでもしなきゃ、アホらしくて男親などやってられるかいと、他人の家族関係をのぞき見て、感じたこと。