sptakaのブツブツDiary

sptakaさんは、毎日ブツブツ発言しています。

太平洋戦争の敗戦78年という暑い夏2023年

2023-08-16 21:47:15 | ブツブツ日記

 昭和16年の12月のあの日、真珠湾の奇襲攻撃でアメリカの空母を2隻だか沈めて、日本は開戦した。その日が冬晴れだったは有名なことで、その抜けるような青空を見上げて、ガチャガチャうるさい米国を一撃して、日本人の8割は、すっきりした気分に浸ったと当時の記録にある。それまでは陸軍が開戦するというのに、昭和天皇ヒロヒトはそれを了解せず、国民の多数派は軍部の言うようにしろという時代だった。烏合の衆とはそんなものだろう。
 そしてよかったのは半年だけで、ミッドウェーの頃から、もう落ち目になる。国力が断然ちがうのだ。それから3年間は徹底的に攻められて、広島長崎のころまでに、310万人が戦死したといわれ、ついに無条件降伏になる。そうすると、ついに天皇陛下の首も飛ぶのかと平気で言われて、焼け野原で腹を減らした生活を強いられ、それは仕方がないの、またもや従順な烏合の衆になっていく。
 何がよくないのか。内務省の岸信介は絞首刑すら免れたが、立派A級戦犯でありながら、戦後総理になったという、このでたらめさ加減。その孫も、つい先日まで総理になっていたという、政治的未熟な政権。亡くなったヒロヒトは遠い過去としても、その孫の徳仁は、未だに広島長崎の慰霊の日には怖くて参列できず、日本武道館だけで、偉そうに戦後慰問だという紙原稿を読むだけのおちゃらけ。さらに政権も文科省も、この近代史の定説を確定させずに、口先で「世界平和」を言うだけで、世間に笑われるその体たらく。広島長崎の平和教育とは、「世界平和」というだけで、んなこと「空気は大切だ」と同義語であって、「世界戦争」と唱えている国などはどこにもない。ロシアでさえ、世界平和をいうのだ。このしらばくれた二枚舌のバカさ加減が、アホウの根本にあると思っている。
 敗戦したそのときから、山登りを再開したという豪気な人がいる。焼け跡闇市焼け野原でその日のメシ食うだけが精いっぱいなのに、なぜか遊びに精を出していた。寺田甲子男は大正13年生まれ(1924年)で敗戦は21歳だった。寺田も徴兵されて高田(新潟)の部隊から大陸に出兵していた。まもなく戻った九州から東京に戻ったが、山に登った。戦後すぐに、谷川岳で遊ぶのだから、そんな人は他にいなかった。しかも遊びがてらに、帰りにはヤミ米を買い込んで東京に担ぎ、ヤミ屋の真似事やっていたのだから、生活力がある。
 飛んで戦後の一般登山とは昭和27年頃からだったというのは、マッカーサーの占領政策が終わって講和条約が結ばれたころに、ようやく国内は自由になったからとみられる。その頃の登山者とは、昭和5年くらいに生まれた大野栄三郎さんたちで、彼らにとっては22歳といういい年代だった。先人の昭和21年と、一般の27年に、6年の空白期間があるのはどうしてか。過去に聞いたことがある。
「甲子男さんのように、戦後すぐに山登りなんてできた人は、登山の面白さを、戦前の経歴の中で知っていた」
というわけである。なるほど戦争が開始しても、昭和18年ころは、まだのんびりしていて、その頃甲子男は19歳くらいであるが、すでにとぼける(登歩渓流会)連中と谷川岳やら一ノ倉沢に入っていた。当時京浜岳連が、巌剛新道にツルハシなどを運び上げて、道標などを立てていた。地元群馬県は何もやらないらしいから(金銭的にできない)、東京横浜から京浜岳連の連中が出て、山を整備したという時代である。
 その間に「風雪のビバーク」なるベストセラーの山岳ノンフィクションが出版されたことがある。松波明という血気盛んな学生が冬の北鎌尾根で遭難して、その手記が単行本になったといういきさつだ。昭和24年のこと。裕福な学生だった彼は、その時代に冬の装備も実家の援助で揃えて、冬にバリエーションルートに入って、遭難する。よくぞ、その食えない時代に、贅沢三昧の行為ができたものだと、やっかまれた時代であった。彼はそのとぼける登歩渓流会の会員だった。元来そこには、杉本光作と山口清秀のボス二人がいたが、その山口にしても、実家のセメント稼業で食うだけの時代に、部員が遭難したと捜索に駆り出され、戦後山口が登山を再開したのも、この遭難出動などが理由でもあったという、レジャー不毛時代の出来事だった。
 昭和27年頃の講和条約で日本はようやく歩み出して、上越線にスキー列車が走るようになり、世間の上流などは、スキーなど始められるようになった。寺田が結婚するのも、その列車で奥さんと出会ったからでもある。かくいう普通の会社勤めだった私の両親も、結婚する母と、その頃数回スキーに行っていたらしい。身長プラス40センチなんていう、おかしな長い木製の板で、普及し始めたレジャースキーをやったのだろう。私の生まれる昭和31年の、ちょっと前のことだ。
 思うのは、こうした敗戦ニッポンの戦後の復興は、おそらく世界一の回復力だったように思われる。日本人がまあ優秀だったせいもあるが、戦勝国アメリカの占領政策が、これほど成功した例は他にないと、これは敗戦ニッポンの中では、あまり評価されなかった点だと思われる。例えていえば、A級戦犯は絞首刑にしたが、天皇はそのまま存続させた。ほんの数日で憲法改正をやった。財閥解体もスムーズだった。と、いくらか誉めると、必ず左巻きのアホウは、中ソ共産圏からの防波堤にさせられたというが、それの何が悪かったのかと思う。どうせ無条件降伏したアホウな国である。その対岸には、軍部専制で、1億玉砕が叫ばれた時代である。どういうことか。ヒトラーはユダヤをジェノサイドすると批判されるが、日本人は自らが自分たちで1億を玉砕して、日本人の全滅などは、欧米に負けるくらいなら、それがいいとほざいていた、きちがいである。自分たちで日本人種を絶滅させるとは、ドイツの10倍はきちがいだとは思わないか。せめて、それを広島長崎で救って、ヒロヒトに降伏宣言させたのだから、話はずっとましだと思うのだ。
 その成功した占領政策の一因というのが、占領米君の日本語力だというのは、先に恩師から聞いた話である。こんにちは、の後に、「チョコレートあげますよ」と、彼らは言った。
 もしかして女子は全員強姦されるかも知れないと、日本人は当初マッカーサー部隊を怖がった。男は全員奴隷扱いにされる。日本は青い目の国になってしまうと。ところがまったくそうではなかった。そのチョコレートあげますよに、どれだけの日本人子供は笑顔になったか。あの数年間で食うのには困ったが、外人を恐れていたなんていう話は実はないのである。せめてノムさん監督の妻サッチー辺りが、外人の二号さんで小遣い稼いでいたという笑い話が残るだけで、それはすでに平和の証じゃないかと思う。
 幕末以来の尊王攘夷は、チョコあげるよの一言で、簡単に崩れ去ったというのは、烏合の衆のご都合主義というだけでは、済まされないように思う。
 ミシガンから派遣された海兵隊は、20センテンスくらいの日本語を丸暗記させられて、それが占領政策をスムーズにしたのは、どうやら本当らしい。それを見ていた安田一郎という通訳者が、後に埼大の英語科教員になって、中学英語は、音読の繰り返しと自然暗記で、英語力は増すと勝手に解釈して実践した。それが私の中学時代の続基礎英語で、浦和市(さいたま市)などは、今でもその残骸の教えを実践して、中学生では日本一の英語習得率だと、今でも文部省でもこれを評価する(ただし、煩わしい程面倒くさいのだが)。
 私はその安田一郎の弟子といわれた田口義豁先生が恩師にあたるが。あの英語授業を受けた理由が、敗戦ニッポンを占領したミシガン海兵隊の連中の行為がヒントにあるとするなら、戦後10年もしてから生まれたノンポリ世代としては、敗戦も悪くなかったんじゃないのかと、とんでも勘違いを思う。あのくらいのことがなかったら、この好戦国民の島国ニッポンは、ちっとも変わらなかったんじゃないか(今でもたいして変わっているとは思わないが)。
 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

御巣鷹山日航機墜落の暑い夏の記憶

2023-08-13 09:13:16 | ブツブツ日記

クライマーズハイなんていう、駄作小説が世にあって、墜落と一ノ倉沢登攀のどこに関りがあるのか、んなこと関係なく、あの墜落の日に、私と友人は、黒部別山から仲間のいる剣真砂沢のベースキャンプに降りてきた。登山クラブの夏合宿のその日のことなのだが、いまさらこういう経歴は格好がいいのかアホウなのか、思い出す。
 下山が遅れて暗くなっていた頃に、ちょうど、日航機が墜落したと仲間が叫んでいたのだ。「ほら高校時代に登ったって」と私が自慢していた過疎の地味山といわれ、「御座山」のことかと聞き返すと、そうだよ。後に御巣鷹山と明らかになったが、ラジオの速報で、長野の南相木辺りとも思えたようで、私はフーンと思っただけ。夏の黒部別山というマニアックな登攀から戻った興奮状態では、たった飛行機の墜落ごときの下界のアホなニュースには関心は湧かなかったのだが。
 入山はその4日前くらいのことで、実はその日に長野では集中豪雨があって、(それは今年の台風被害同じようなことだが)、中央線が不通模様で、じゃマイカーでいくかと、初めてあんな遠くまで、クルマ転がした夏のおかしな入山(今では常識的でもあるが)でもあったが。
 扇沢は今と同じ風景なのだが、豪雨の影響で立山黒部の観光ルートがその日は不通になっていた。しかし当時の気楽さとは「歩いて入山するなら通れますよ」。こちらも20代の二人で、「じゃ、そうするか」。 
 来年あたりに廃止になるというその関電トロリーバスのトンネルを、それは映画黒部の太陽の主役ブツで、今の車窓の「これより破砕帯」とネオン脇を、私たちは歩いて通ったという、へんてこ経験がある。
 日本はどんな山奥でも、山師や冠松次郎のたちの杣道の既得権があって、(佐々成政の針ノ木伝説もそうか)後からできた交通ルートでも、「歩く」というなら、そちらが優先されるという奇妙な事象がった。だから冬などは、あのトンネルは解放されていたと聞く。
 僕らも、それを実践して、その日は、抜けて下って、別山沢の右俣と思ったが入って、少しして1泊目にした。すでに予定から1日遅れは承知のこと。
 あの登攀は何枚かの記念写真と、わずかな記憶で忘れたが、延々と雪渓を歩いたり、クレバスに流木を渡してそれを支点に中に下降したりもしたね。ただ対岸にもう1パーティの登山者がいたことが異様でもあったが。後年、下の廊下を下ったときに、(そのくらいの時じゃないと、内蔵助出合いより下流に行くことはないけど)、入山口の別山沢合流点に降りて、ああ懐かしいと思ったことはあったが。
 2日目だったか、3日目に、登攀を終えて、稜線から真砂沢に合流したのが、先の話である。
 もう翌日は下山日になった。本隊を後にして、私は友人と再開していた観光ルートで下山した。大町からマイカー帰宅をするが、帰りも楽しかったのだが、当時は中央道は甲府までしか開通していなくて、下道で延々戻って、途中も例の墜落騒動で通行規制もありながら、夜に帰宅した。
 当時私は新婚だったのだが、結局帰宅は初日の理由で1日遅れて、しかし妻は、飛行機が墜落するし、前日の帰宅予定が叶わず、翌日に元気に「ただいま」では、待つ身としては、不都合極まりないのだが、当人はその理由が分からない。38年経って未だに、そのこと問われるし、しかも長男がその12月に生まれた身重でもあって、今になってやっと、ああそういうことが重なっていたかと、やや理解した。なんていう暑い夏は、後半人生の起点の85年でもあった。
 しかもその数週後には、現地上野村とかへも、仕事で出かけたこともあった。その関心は続いていたのだが、実はあの墜落の刑事責任というのは、どこにもない(無罪)というのは、当時不可解に思った。ところが今では遺族の話や、その後の日航の民事補償の話ばかりに終始するが、しかしあんな墜落は、30年に一度は必ずどこかで起こるという思いは、実は間違いらしい。今となっては、あの勤続疲労と揶揄された「金属疲労」なる墜落は、もう皆無であるというあれから38年の間に進化した、飛行機の安全点検、それはレーザー光線などでより綿密らしいが、もうあり得ない事故となっているということだ。目に見えなかった金属疲労は目に見えるようになったらしい。
 つまりあの時代に、500人乗りのジャンボ機を、羽田~伊丹で就航させて、1時間に離着陸を繰り返す日に3往復も4往復も、それは世界一の酷使な使用状況であり、それが金属疲労なる事象を、ボーイングや世界にその存在を明らかにしたという、いわくつきで逆説的な事故だったから。製造したボーイングでも、その理解をしていない時代のことで、そこに刑事責任を問われても無理だという、まあ、こんな無謀な理屈が、日米の裁判の最終結論になっていたということだ。今となれば、歴史の過渡期というか、今でも地球温暖化の最大の敵は旅客機の排ガスだとは言われるが、同じように加害者連中は何も理解していない時代があると、そういうことが、実はこれが、あの夏の一番の記憶にもなっているわけだ。
 後年JALのスッチーとは、特に90年代には、世界一生意気なOLの仕事と思っていて(それは今も少し続いているのだが)さらに後年、ふと同じ人種に出会ったがのだが、もう70年代生まれの彼女たちにすれれば、せめて「あれは私が子供の頃の事故なのよ」といえば、いくらか話が通じて可愛げもあったのに、「1985年のことですね」と事務的に、それは就職したときに、会社案内で彼女たちが汚点として必ず通る道らしく、今でもお婆スッチーが社内講義するようだが、私はんな事務よりも、以降の、こういうグタグタが、いい意味で人生に大きく関わったというような思いがいつもあるのに、彼女は「その話はもういい加減にして」とばかりに、さっさと会釈して場を去って、しかも90年のバブルと同じように、フィットスーツで、お尻プリプリに歩き去っていく、あの人種とはいつの時代も嫌いの対象だとその時思って、「あの事故は忘れない」という日航社内のお婆スッチーの講義も、ホンネかねと疑う。
でもまあ、飛行機とはそんな下衆の女とは関係なしに、ライト兄弟が飛ばして、リンドバーグが大西洋渡って、まだ100年しかたっていない際物だけど、(私だって一時はスカイスポーツに凝って、パラグライダー三昧もあったが)。その中の3分の1の長期を占有して、妙に安全になってきたんだという、この間も札幌まで往復したし、その流れは、私の結婚生活38年の成長と、同じかなあと漠然と思ったりしている。

 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

甲子園で慶応高校が勝つと、軍国校歌(塾歌)が流れる

2023-08-11 23:38:22 | ブツブツ日記

♪風に鳴るわが旗を~~この旗を~~強く雄々しく樹(た)てんかな
 くどいんだよなあ、旗を立てよと。な~にも知らない奴には、意味不明で広島長崎も知らないから、アホウというけれど、これは昭和の軍部の時代の占領政策まるだしでね。ちょっと前に韓国が日本に勝った時、マウンドに韓国旗を悪ふざけで立てて、それは硫黄島を米軍が堕としたときの、国旗掲揚と同じで、日本がクレーム入れたよな。同じなんだな。
 そもそも慶応の福沢へは、好き嫌いが激してくて、あのその場しのぎの日和見と言われるのは、自由民権の西洋主義はいいとしても、日清戦争の頃になれば、イケイケの軍国主義になり替わって、それは英仏の世界占領を真に受けての占領政策推進で、今の平和教育の時代にすれば、どこの石頭の諭吉が、朝鮮占領の大喝采でこれに大出資したかの、嘲り笑いで、一般に旧制中学のこの時代の軍国校歌は歌わない慣例になっていて、我が母校でも、
♪大和心に西の才~~
 とあるのだが、これも欧州を攻めろという軍部の時代の校歌だとされ、この3番だけは、戦後は合唱しなくなった。
 歌いたいのは分かるよ。母校なのだから、それが軍部の時代でも生きていて、その時代に作られた塾歌だというわけだから。しかしなあ、一方で長髪OK,練習短時間と自主性言いながら、旧高校野球の体制批判、それは丸刈りや管理体制のことだが、それを徹底的にこき下ろすあの幼稚舎の監督でありながら、軍国塾歌を嬉しそうに歌うこのパラノイアは、諭吉そっくりで笑いもでる。1回戦勝っただけで、あと4つで優勝目指します宣言は、名将木内などに言わせれば、若気の至りで噴き出すが、しかし肩組んで3000人が、旗立てるのアホウ音頭を本気になってみれば、ああ30年代の軍国国家丸出しで、好戦国民だったなあ、どこまでも島国部落は治らないと、笑い出す。こんなアホウたちが、時代の象徴であるわけがない。こんなのがいいというなら、原爆のきのこ雲のTシャツでも着ていろよ。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

もしか三回忌だったか 2年前のコロナ病床へのレクイエム

2023-08-08 11:42:42 | ブツブツ日記

最近コロナに掛かったという友人がいて、どうして治ったかと聞けば、飲み薬でよくなったと、「ああ、インチキコロナか」と言っておいた。
 2年前の夏、ちょうど今週だった。いつもの一週早い夏休み。実は先週から東京五輪なる腐れイベントが始まっていた。有明テニスの森で、当時人気絶頂だった大坂なおみのテニス一回戦、二回戦敗退などをやっていて、その周辺うろついていたが、夏風邪の気分でだるかった。背中の節々が痛いというやつである。それでも今週に旅行の予定を組んでいて、実行できるかキャンセルしたくないと、まだ余裕かましだったのだ。
 ところが週明けて、相当悪化して、ついに予定はキャンセル。昨日の月曜日に、よたよたと最寄り診療所にいって、綿棒鼻に突っ込まれて、今日火曜日に電話したら「コロナ陽性です」。やはりねえ。どうしたらと聞けば保健所から連絡ありますから、指示に従って。
 すでに相当気分が悪い。なのだが、平熱と、酸素濃度は99%で健康。朝の8時、起き上がれなくて、悪寒、気分最悪、トイレまで這って行くほどじゃないにしても、壁伝いによたよたで到達、またベッドに帰着して、ダウン。
 その頃に、携帯電話で「どうですか?」と間抜けな保健所の声。「どうじゃねえよ、気分最悪で、入院したいほど」というが、平熱理由に「自宅待機ですね」。それは「家で死ね」と同義語だった。「幸せで笑顔なコロナ自宅死」と報道された。あのガス野郎というバカ政権はコロナ対策何もできなくて、その頃ようやく「ワクチン届きました」。半年遅いよ。その後の政権も、公務員優遇の北朝鮮のような官僚国家にし、岸田政権は今にいたる。増税は江戸の百姓越えて、五公五民になった。
 週末頃に、私は夢遊病のように、風呂が嫌だと椅子通販で買ったり、バスタブから立ち上がができないと、手すり付けようと、風呂の壁にドリルで穴開けようとして、止められた。ベッドマットが気に入らないと玄関まで引っ張り出して、捨てるように妻に言うが、妻も感染して寝たきりになった。(妻も呼吸困難で入院した)。一家二人が自宅で変死になりそう。
 死ぬ寸前の自己免疫だったのか、2年前にも書いたが私がマイカーで記憶喪失だったが出かけて、2時間徘徊して戻ってくるときにタクシー追突で人身事故起こした。思い出せば、その時も二重駐車していた個人タクシーに、こんなのぶつかってもいいやと瞬時思って、ブレーキも甘い。
 その後は救急がきて、運よく陸軍毒ガス病院だった、新宿戸山の国際医療センターへ。毒ガス転じて、今は感染症国家機関になった。そこで院長はこの患者は死んでもいいと、ステロイドの強度免疫療法の点滴を三日間やる。
 私は昼寝をしている気分なのだが、葬式やっている寺の裏側に忍び込んだり、通夜後の遺体保存の後ろに寝て、夜中にトイレに起きて看護婦ともめる。いやトイレには行けないように、固定され、おむつしているはずなのに、知らない町徘徊するなど、短時間に相当な悪夢。事前に会社に連絡入れておいたが、携帯取り上げられて入院10日。世間に行方不明と思われた。
 三日後担当医は「すごい回復の数値がありますよ」。こちら「だからどうした、何故入院させなかった」と毒づいて、以降相手にされない。医師は長男と死亡後の談合していた。
 普段から薬は飲まねえよ、治療薬は相当な効果があることくらいは、自慢の種だ。それを安楽死寸前まで維持した政権はなにしていた。ああ、私は志村けんや岡江久美子になるところだった。相撲部屋の若手死亡も同じだ。
ただちょっと悪知恵が働いて事故を起こした。ヤンママがよくいう、診療たらいまわしになるくらいなら、路上で危篤して救急車に乗れば、大病院に紹介手数料なくして、入院できると。私は無意識で同じことをしていた。しかし今の政権と医療体制では、こんな原始的な悪だくみが、やはり一番効果があることになる、呆れてものが言えない。今の政権とはその程度だ。
 私は重症患者で、およそ半分は死亡に至るはずが、三日で治った。ステロイド療法が大いに効果的だったらしい。資料渡されて、かかりつけ医師に持っていくと、「こんな治療しましたか」と呆れられたほど。こんな危なっかしく副作用の強い治療は、このくらいの大病院じゃないとできないらしくて、その辺に入院した人はみんな死んだ。あの年日本人の平均寿命が有史以来初めて低下したらしいが、原因はコロナのこれだった。
 体重が10キロ減って、退院できた。自宅からコンビニ行くにも、桃色吐息のハアハアが、2か月で治って、その冬もスキー三昧になった。2年前のあの人身は、検察阿呆からの電話もあったが、刑事処分はまだ来てないとは、なかったことになったのだろう。「脳障害だった」のごり押しが通った。医療費は無料だったが、後に嫌がらせのように明細が送られて、実質は治療費180万円だと書いてあった。
 死んでもよかったものが生きている。悪運が強かったと思う。アホな政権と厚生行政ごときの、餌食になってたまるかとも思う。通常なら三回忌だ。何も心配はいらない。気持ちいい昼寝していると思ったことが、危篤だといわれ、そのまま起きなかったらそれは臨終であり、本人は安らかな気持ちのままだから。それは一度死んだ経験とも思う。臨終への不安などはどこにもない。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

台湾の大家族拉致された福原愛、離婚で男児連れ去りの合法処理

2023-08-02 21:02:28 | ブツブツ日記

 共同親権なのに、ハーグ条約違反だと、そこ台湾は元ニッポンであり、未だに男尊女卑の大家族主義の、大姑、小姑三昧の女系社会で、ひ弱な元亭主が「息子返せ」といっても、ちょうど一男一女いるなら、一人母親が連れ去って、ちょうどいいじゃないかと普通は思うけれどね。それが毎度の旧日本の人質裁判のようでは、カルロスゴーンのように、強制連れ去りでも、仕方なかったと思えるようなね。
 そもそも共同親権で育てろというのも、意味不明なご都合主義の裁判用語でね。通常どこに子供を置くのかという疑問にちっとも答えていないわけで。まあ旧来のように、台湾の大家族の中に子供を置いて、離婚しても会うくらいならいいよ。それじゃ、親権とはいわないわけで、ちっとも共同になっていないよと。じゃ、一年ずつ日本と台湾で子供交流させろというなら、パラノイアになるけどね。結果、元妻は嫌なら出ていけという、旧来からの離婚判決とまったく同じでね。
 そもそも離婚したのに、男側が子供と欲しいというのは、その理屈が如何わしいわけでさ。先のキャンドルジュンにしても、離婚しそうな料理人鳥羽にしても、普通の男は、女房と別れるなら、子供などはいらないよ。
 なのに子供を置いていけというのは、元亭主じゃなくて、その親たち、爺たちのへ理屈でね。元総理の小泉純一郎も、同じ理屈で、タレントの長男と、政治家の次男を置いていけと、有名な女子大生妻をおっぽり出して、三男の佳長だけは分かれた妻の元で育ったね。妻がわ姑は「貸し腹に過ぎなかった」と小泉をバカにしていたけれど。
 歌手の岩崎宏美がいい失敗例で、三井財閥だかのバカ息子と離婚した時に、長男次男をまとめて取られたね。愛ちゃんと同例だ。財閥の財力に比べて河原芸能人ごときの不安定に、離婚子供の親権などは与えられないという、東大卒の裁判官は決して離婚しないわけで、世間の離婚の理屈が全く無能で分からんピーが、そう判決して、あれは典型的な妻側の失敗例になる。当時からおかしいと思っていたよ。かわいい盛りの幼稚園生から10年間も失われて、成人してからママに愛にきても、いくら自分が生んだとはいえ、他人だよねこれじゃ。
 台湾のバカ裁判は同例で、だから愛ちゃんは1年前に男児を連れてきて今に至るね。いいじゃないか、都合よく少子化の時代に二人産んだのだから、離婚でそれ半分に分ければ。元亭主じゃなくて、その大家族の言い分などは、当人同士の離婚の中に入ってくるなと思うけれどね。日本の家裁の命令がどうしたなんて、あんな調停員というその辺のおばさんが適当に命令するような、アホらして、じゃ最高裁まで争って見ましょうとね。離婚するなら、子供は母親の元に、父親じゃ母乳も出なくて、アホ裁判など当てにするなと思うけれど。
 ハーグ条約という前に、あの大家族の余計な親族のバカ騒ぎを、排除してからじゃないと、離婚裁判などは進まないね。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする