昭和16年の12月のあの日、真珠湾の奇襲攻撃でアメリカの空母を2隻だか沈めて、日本は開戦した。その日が冬晴れだったは有名なことで、その抜けるような青空を見上げて、ガチャガチャうるさい米国を一撃して、日本人の8割は、すっきりした気分に浸ったと当時の記録にある。それまでは陸軍が開戦するというのに、昭和天皇ヒロヒトはそれを了解せず、国民の多数派は軍部の言うようにしろという時代だった。烏合の衆とはそんなものだろう。
そしてよかったのは半年だけで、ミッドウェーの頃から、もう落ち目になる。国力が断然ちがうのだ。それから3年間は徹底的に攻められて、広島長崎のころまでに、310万人が戦死したといわれ、ついに無条件降伏になる。そうすると、ついに天皇陛下の首も飛ぶのかと平気で言われて、焼け野原で腹を減らした生活を強いられ、それは仕方がないの、またもや従順な烏合の衆になっていく。
何がよくないのか。内務省の岸信介は絞首刑すら免れたが、立派A級戦犯でありながら、戦後総理になったという、このでたらめさ加減。その孫も、つい先日まで総理になっていたという、政治的未熟な政権。亡くなったヒロヒトは遠い過去としても、その孫の徳仁は、未だに広島長崎の慰霊の日には怖くて参列できず、日本武道館だけで、偉そうに戦後慰問だという紙原稿を読むだけのおちゃらけ。さらに政権も文科省も、この近代史の定説を確定させずに、口先で「世界平和」を言うだけで、世間に笑われるその体たらく。広島長崎の平和教育とは、「世界平和」というだけで、んなこと「空気は大切だ」と同義語であって、「世界戦争」と唱えている国などはどこにもない。ロシアでさえ、世界平和をいうのだ。このしらばくれた二枚舌のバカさ加減が、アホウの根本にあると思っている。
敗戦したそのときから、山登りを再開したという豪気な人がいる。焼け跡闇市焼け野原でその日のメシ食うだけが精いっぱいなのに、なぜか遊びに精を出していた。寺田甲子男は大正13年生まれ(1924年)で敗戦は21歳だった。寺田も徴兵されて高田(新潟)の部隊から大陸に出兵していた。まもなく戻った九州から東京に戻ったが、山に登った。戦後すぐに、谷川岳で遊ぶのだから、そんな人は他にいなかった。しかも遊びがてらに、帰りにはヤミ米を買い込んで東京に担ぎ、ヤミ屋の真似事やっていたのだから、生活力がある。
飛んで戦後の一般登山とは昭和27年頃からだったというのは、マッカーサーの占領政策が終わって講和条約が結ばれたころに、ようやく国内は自由になったからとみられる。その頃の登山者とは、昭和5年くらいに生まれた大野栄三郎さんたちで、彼らにとっては22歳といういい年代だった。先人の昭和21年と、一般の27年に、6年の空白期間があるのはどうしてか。過去に聞いたことがある。
「甲子男さんのように、戦後すぐに山登りなんてできた人は、登山の面白さを、戦前の経歴の中で知っていた」
というわけである。なるほど戦争が開始しても、昭和18年ころは、まだのんびりしていて、その頃甲子男は19歳くらいであるが、すでにとぼける(登歩渓流会)連中と谷川岳やら一ノ倉沢に入っていた。当時京浜岳連が、巌剛新道にツルハシなどを運び上げて、道標などを立てていた。地元群馬県は何もやらないらしいから(金銭的にできない)、東京横浜から京浜岳連の連中が出て、山を整備したという時代である。
その間に「風雪のビバーク」なるベストセラーの山岳ノンフィクションが出版されたことがある。松波明という血気盛んな学生が冬の北鎌尾根で遭難して、その手記が単行本になったといういきさつだ。昭和24年のこと。裕福な学生だった彼は、その時代に冬の装備も実家の援助で揃えて、冬にバリエーションルートに入って、遭難する。よくぞ、その食えない時代に、贅沢三昧の行為ができたものだと、やっかまれた時代であった。彼はそのとぼける登歩渓流会の会員だった。元来そこには、杉本光作と山口清秀のボス二人がいたが、その山口にしても、実家のセメント稼業で食うだけの時代に、部員が遭難したと捜索に駆り出され、戦後山口が登山を再開したのも、この遭難出動などが理由でもあったという、レジャー不毛時代の出来事だった。
昭和27年頃の講和条約で日本はようやく歩み出して、上越線にスキー列車が走るようになり、世間の上流などは、スキーなど始められるようになった。寺田が結婚するのも、その列車で奥さんと出会ったからでもある。かくいう普通の会社勤めだった私の両親も、結婚する母と、その頃数回スキーに行っていたらしい。身長プラス40センチなんていう、おかしな長い木製の板で、普及し始めたレジャースキーをやったのだろう。私の生まれる昭和31年の、ちょっと前のことだ。
思うのは、こうした敗戦ニッポンの戦後の復興は、おそらく世界一の回復力だったように思われる。日本人がまあ優秀だったせいもあるが、戦勝国アメリカの占領政策が、これほど成功した例は他にないと、これは敗戦ニッポンの中では、あまり評価されなかった点だと思われる。例えていえば、A級戦犯は絞首刑にしたが、天皇はそのまま存続させた。ほんの数日で憲法改正をやった。財閥解体もスムーズだった。と、いくらか誉めると、必ず左巻きのアホウは、中ソ共産圏からの防波堤にさせられたというが、それの何が悪かったのかと思う。どうせ無条件降伏したアホウな国である。その対岸には、軍部専制で、1億玉砕が叫ばれた時代である。どういうことか。ヒトラーはユダヤをジェノサイドすると批判されるが、日本人は自らが自分たちで1億を玉砕して、日本人の全滅などは、欧米に負けるくらいなら、それがいいとほざいていた、きちがいである。自分たちで日本人種を絶滅させるとは、ドイツの10倍はきちがいだとは思わないか。せめて、それを広島長崎で救って、ヒロヒトに降伏宣言させたのだから、話はずっとましだと思うのだ。
その成功した占領政策の一因というのが、占領米君の日本語力だというのは、先に恩師から聞いた話である。こんにちは、の後に、「チョコレートあげますよ」と、彼らは言った。
もしかして女子は全員強姦されるかも知れないと、日本人は当初マッカーサー部隊を怖がった。男は全員奴隷扱いにされる。日本は青い目の国になってしまうと。ところがまったくそうではなかった。そのチョコレートあげますよに、どれだけの日本人子供は笑顔になったか。あの数年間で食うのには困ったが、外人を恐れていたなんていう話は実はないのである。せめてノムさん監督の妻サッチー辺りが、外人の二号さんで小遣い稼いでいたという笑い話が残るだけで、それはすでに平和の証じゃないかと思う。
幕末以来の尊王攘夷は、チョコあげるよの一言で、簡単に崩れ去ったというのは、烏合の衆のご都合主義というだけでは、済まされないように思う。
ミシガンから派遣された海兵隊は、20センテンスくらいの日本語を丸暗記させられて、それが占領政策をスムーズにしたのは、どうやら本当らしい。それを見ていた安田一郎という通訳者が、後に埼大の英語科教員になって、中学英語は、音読の繰り返しと自然暗記で、英語力は増すと勝手に解釈して実践した。それが私の中学時代の続基礎英語で、浦和市(さいたま市)などは、今でもその残骸の教えを実践して、中学生では日本一の英語習得率だと、今でも文部省でもこれを評価する(ただし、煩わしい程面倒くさいのだが)。
私はその安田一郎の弟子といわれた田口義豁先生が恩師にあたるが。あの英語授業を受けた理由が、敗戦ニッポンを占領したミシガン海兵隊の連中の行為がヒントにあるとするなら、戦後10年もしてから生まれたノンポリ世代としては、敗戦も悪くなかったんじゃないのかと、とんでも勘違いを思う。あのくらいのことがなかったら、この好戦国民の島国ニッポンは、ちっとも変わらなかったんじゃないか(今でもたいして変わっているとは思わないが)。