「バックギャモン」なんいうマイナーなゲームが、しかし私もこの30年の当事者の一人として、3人の世界チャンピオンが生まれて、AIが進化することでさらに普段のゲームも面白く、世界の国別では、ニッポンとデンマークが急速に力量を向上させてきたといわれ、その理由を探せば、作曲家すぎやまこういちからアマ将棋クラブの宮崎国夫へ、伝言ゲームのように流れたこと。それは団塊世代の宮崎が、昭和一桁のすぎやまの弟子ならば、孫弟子に当たるのが5,60年代の下平憲治や私たちで、ひ孫に当たるのは70年代以降のモッチーやアッコやタクミツが世界で優勝したことに、大きなストーリー性を感じる。
すぎやまと宮崎は共に3年前に亡くなったが、私もその時にコロナで死にそうになった。行きがかりの人生のなかで、楽しい出会いがあったあと、嬉しく思う日が続いている。
テンヨーという中堅玩具メーカーが創立100年にもなるのだが、天洋さんという手品師が、知的なグッズを販売した会社だったらしい。つい最近知ったのだが、小学生だったころに(60年代)プラパズルという子供相手の知的玩具が仲間でブームになった。その使用説明書にご丁寧にも「富士通の協力でコンピュータ解析したところ2千通り以上の組み合わせがある」など紹介されていた。「富士通りって、どこの道だ」と、子供にはもっと親切に教えろよ。
仲間は、一つの組み合わせが完成すると、専門のノートにそれに書き入れ、200通り、500通りまで増えたとか、いずれその遊びも遠のいた。今ネットの保存画像を見ると、確かに「天洋」。バンダイとかタカラとか玩具は大手のはずなのに、珍しさも偶然ということになろうか。そこはまもなくジグソーパズルなどを輸入販売制作するなかで、73年からバックギャモンの製作販売も開始したと社史に残る。
世界史の中では、ギャモンはメソポタミアが起源になるようだが、誰も知らないからこそ、どう普及させようと考えたのか。当時麻雀荘は都内で2千軒を超えているという時代に、月に1回八丁堀にあったホリデーインの会議室を2時間だけ借りて、東京中の20人程度の仲間を集めて例会をやっていたなんていう、およそ過疎ローカルもいい加減にしてくれ。
ただ妙なことに、これはサイコロ発祥と同時に伝播したゲームで、奈良時代に日本に伝わって、つまりこのバックギャモンも(盤双六)、後白河とか、一部貴族には理解されていたとは言われるが、世間では子供用の双六(絵双六)として、知られるようになった。そういう未熟な理解を一掃して、テンヨーは新たな開拓を始めた、手品の会社だった(初代の引田天功とか、ミスターマリックはこの手品会社の契約者)。
テンヨーは同じように六本木のオシャレなバーで、このサイコロゲームを流行らそうとしていた。プレイボーイクラブ主催では、優勝者に車がプレゼントされた。酔っぱらった拍子に「6」が出るだろうと振って、成功した、失敗したという偶然性に、酒との親和性がある。テンヨーのクリエイターと紹介される人たちは、手品のネタを考える珍しいエンジニアたちなのだが、その伝説の近藤博は、すでにタイガースの作曲家として多芸なすぎやまこういちにこのゲームを紹介して、彼はおよそ熱中した時期があったのだろうと思う。
同じ頃に、すぎやまは将棋も習得しようと、このアマ名人の宮崎国夫を自宅に師匠として通わせて、将棋のレッスンを受けていたらしい。私が宮崎と90年代に知り合うのだが、「すぎやまさんの家に将棋の稽古に行っているときに、逆にこのバックギャモンを教わって、それで覚えたんだけど、いや~面白くてはまってねえ」
こんな行きずりが、その後大変変革を起こすわけだから、もののブームというのは、計り知れないものだ。
テンヨーはゲーム発売と同時に、日本バックギャモン協会を設立し、74年から日本選手権という大会を主催するようになった。当時でも全国から80人ほどの参加者(上級クラス)はいたようだが、協会の過去歴を見ると、77年の大会の優勝者に、すぎやまこういちの名前が残っている。あの男は音楽家として芸大を目指していたが挫折して東大からフジテレビ入社し、音楽番組ディレクターをしながら退社して作曲家になり、タイガースの生みの親になった。「大阪から来たならタイガースでいいじゃないか」という彼の思い付きは大成功して、グループサウンズという日本の流行歌を一変させた。すでにザピーナツの「恋のフーガ」を作り「モナリザの微笑み」で歌謡界を自由に操った。しかも多芸で、酒は飲まないが喫煙趣味で長生きして、ゲームの熱中度も高かった。作家渡辺淳一もエロ作品の片手に将棋マニアだったというが、そう団鬼六も誰も彼も。すぎやまもそう。74年とは、タイガースも解散して、一段落したところだったろうか。
その頃の優勝準優勝リストには、島田誠が3回も登場し、彼は奨励会メンバーだったし、加藤英夫は、近藤と同じテンヨーのクリエイターの一人でもあった。
70年代という高度成長は、麻雀の第二期ブームでもあって、当時の学生(私も)は、酒タバコと同じように誰もが麻雀をやった。高度成長の企業人も、勤務や勤勉の後のくつろぎに、あの偶然性が面白い麻雀というゲームは、日本を席巻した。
まったく似たような感覚で、先の師匠の宮崎は、81年に新宿で三桂クラブという将棋道場を開設したのだが、その時に大判のバックギャモンボードをそこに一台常設して、将棋ファンにもチャンスがあればバックギャモンを教えようと、妙なアイデアを発揮した。あんな将棋盤が10台(20人)も入れば満員ビルの一室。喫煙モクモクのクラブの片隅にそれがあり、その10年後に私も常連になるのだが、「誰でも座れば1p200円のギャモンシュエット」と楽しく誘われ、(そのゲームは1対1で対局するのがヘッドといわれるが、3,4,5人と参加者が増えても、親対子供たちの組み合わせで、対局ができる)。200円というレートは、親で勝てば子供の数だけ2倍、3倍層。負けると逆層。公然とマネーが店内で動いた。
宮崎はその適正レートについて「例えばね、100点負けることないけれど、仮に負けても2万円ならば、「しかたがねえ」と諦めもつくからねえ」。多分にそれは、テンヨーからすぎやまに、さらに宮崎にと伝わっていったものと理解する。大人がタダでゲームなどやるか。あの将棋の真剣師の小池重明もこのクラブの常連で、宮崎にギャモンを教わって、初級者大会で優勝した過去がある。
他方そこのクラブは、宮崎の人柄で大勢のプロ棋士も集まった。当時将棋のNHK杯で優勝(89年度)した櫛田陽一が専属であり、名人戦の挑戦者にもなったA級の森鷄二(通算2期タイトル)も契約プロであり、この二人にしても、明らかに宮崎にギャモンを教わった。その森の人脈として、先の連盟会長の佐藤康光も、今の羽生も、永世の名人の森内も、私も対戦した過去がある郷田も、先崎も、新宿の場所柄もあったが、錚々たるメンバーが出入りしていた。囲碁の武宮正樹も、亡くなった上村邦夫も、森鷄二の人脈からギャモンに流れた。永世名人の森内俊之は、モナコの大会でベスト4まで勝ち上がったが、対戦の3時間程度は「まったく姿勢を崩さないジャパン将棋のチャンピオンに驚く」と現地でも評価されたように、プロ棋士のそのゲーム脳と集中力は、世界を凌駕させた。
さらにそこに学生アマ将棋で上京して歯科医となった下平憲治も、バックギャモンを知るようになった。しかも大ハマりして、ついにテンヨーから「協会」の名義を譲り受ける。その頃から私も参加するようになったが、以降は自分史と同じことになる。バックギャモンの月例会を手伝って、この公式戦はマネーゲームはやらずに「レーティング」で成績を管理した。パソコン時代に入って世界のゲーム組織が取り入れたレーティング方式で、AIの普及も拍車をかけた。例会の上位者は国内にとどまらずに、海外に出るようになった。私も香港、ラスベガスに何度も通った。
振り返ってよかったのは、ゲーム感のいい人というのは、社会のどこにでも存在するのだが、プロ棋士というのはその最たるもので、連中が1ミリの誤差も許容できない将棋対局の後に、酒を飲みながら麻雀やるように、1メートルくらい誤差があっても許容するよという、サイコロ使ったギャンブル偶然性の高いバックギャモンが実は一番ハマった。それはよく野球に例えられ、いくら大谷翔平が投げても、「ホームラン打たれて負けることがある」の比喩になる。それは強いという人でも勝率は6割が限度で、ヘボと言われても、4割は確保できる(ある程度ゲームをできるレベルでは)。しかしその直接対戦でも、強者の勝率は2対1程度。逆にヘボでも3割は勝てるという、麻雀と似たような偶然性、ギャンブル性、「打撃は水物だ」として、偶然性がスポーツに存在するように、ゲームの中にもそれがあった方がむしろ楽しいと解釈できる
その比較を宮崎は、
「ギャモンは出目の通りにゲームを進めるから、出目が大事になるけど、将棋は自分で出目を探さないといけないから、ギャモンよりもちょっと難しい」
というのが持論で、分かり易かった。これが1ミリと1メートルの違いになった。いやむしろ、その1メートルの誤差があったとしても、ゲームとして成り立つことに、このギャモンの不思議さを感じていた、今でも。
将棋81マスにくらべれば、ギャモン24マスしかない。駒は似たように将棋20に対して、こちら15。ただ将棋は各こまに大きな個性があるのに、こちらは何の意思もない、ただの石ころ。それを出目に従って動かすだけなのに、なぜか戦略は将棋同等。しかもこちらは1勝負3分~5分がいいところで、それで1アウト程度。27アウトして、9回終わる野球と同様に、2,3時間やって、ようやくトータルで、少し勝った、負けたの勝負になる。やっぱり1対局に、8時間、16時間も、いやせめて2時間かける将棋に比べれば、呑気でしかし気楽で楽しい。
宮崎は93年頃から、月に2回の例会を始めた。当日は2千円の席料を徴収して、6時間継続した。参加は100人を超えるメンバーはいたが、常連は20人ほど。成績とレーディング表がまもなく郵送されてきて、参加者を管理した。そのランキングのトップに自分の名前が掲載されると、それは生涯の宝とは大げさだが、切り抜いて、いやそのまま保存して30年経った今でも手元に残る。参加者の興味を継続させた。その後現在までの30年の中で、レーティングは計算方法の修正はあったものの、今でも継続する。私などは、その後20年ブランクがありながら、再度また参加してもレーティングは継続した。これは間違いなく下平が欧米のギャモンクラブ例会方法を採用して、それを宮崎が実践させてきたと、記憶がよみがえる。
例会の他に、棋戦のように「ギャモン王位戦」も始めた。(後にジャパンオープンとか、最上カップもスタートした。私唯一ジャパンの99年タイトルだけ)。初回は16人だか32人限定だと思ったが、過去タイトル経験者必須だったために、私はダメ。優勝は先の櫛田陽一だったが「お~い、櫛田」と揶揄されて、彼もニコニコしていた。この時の参加費2万円から、16人として優勝賞金20万円(他は開催費用)。こういう分配を仲間内だから平気でやった。
「プロ棋士は恵まれていますよ。対戦の給料は連盟から出るし、勝てばさらに賞金。負けても持ち出しはない。そういうの、片懸賞といって、棋士だけ。ギャモンなどギャンブラーはそれが辛いですよ」。とも。
宮崎は風貌にも愛嬌があった。小太り格好。ちょび髭をはやしていて、ちょっとマリオに似ていた。故武者野もそういわれたらしいが、そう言えば二人は似ていた。生涯独身で、酒タバコが大好きで、それでいて例会はワンドリンク付きというと、200円のドリップコーヒーを丁寧に入れていた。それに宮崎にとっても、ギャモンの相手が大勢増えたことが、プレーヤーとしても、楽しかったことのようだった。
私のような新参者にとって、ギャモンというゲームの異様姓は驚くことばっかりだったが、それは対戦回数が増えた宮崎にとっても、同じだったのだろう。
――どうしてギャモンのチェッカーは15個なんですかね。
「1~6までクローズアウトするには12枚で足りるのに、残り3枚あるというのは、不思議だよねえ」と同意してくる。
将棋の主催者にとって、「どうして飛車と角があるのに、「潜」なんて言う駒はないの」と聞いたとしたら「キミは馬鹿じゃないのか」と言われる。数千年のゲームの仕組みに疑問を挟むなというわけだ。しかし彼は、ギャモンのその定理にたいしても「不思議だよねえ」と応じた。
「最初は20枚くらいあったんじゃないの。そのうちに多すぎるとだんだん減って、きっと12枚まで減らしたこともあるけど、それじゃ足りないとまた増やして、15枚が適正になったんだよきっと」と答えた。ああ、私の10年先輩のプレーヤーにそういわれたら、きっと正解だよなあとも思う。素人を納得させることができた。共感がある。
――残り2枚になってからも勝てるよねえ。
「だからねえ、不思議ですよ」
15枚のチェッカーのうち、相手に13枚上がられても、そこから逆転できることもあった。残り2枚をヒットしてクローズアウトすれば、それだけで逆転になった。
「2枚ヒットのクローズアウトから、6ポイントが空いた瞬間に66を振って、(1枚もあがっていない状態)それから逆転するのも、年に1回くらいは見るよね」
そういう普通の会話が楽しかった。将棋ですら、囲碁に比べれば逆転のゲームと言われるが、ギャモンはさらに、不運も含めて逆転が多い。
――負けて怒り出した人が、窓ガラス割って、ボードを外に投げたらどうするの
と聞く。かつて絶望的な状況に追い込まれた男が、試合中に泣き出したことがあった。子供じゃない立派な大人である。その状況からでも、ある場合は逆転した。
「面白いよ。窓ガラスが割られて、物が下の通行人に当たって、警察がきても、その男が補償するだけのことで、こっちに責任こないからねえ。それが暴力人だったら出禁にするだけで。でも将棋指しにそんな勇気がある者見たことないよ、ハハハ」
彼は例会には参加しないが、普段のシュエットやタイトルリーグには出た。あの頃は他人のプレーに講釈する者がいたが、同意すれば「ああそうか」。
「一日一つずつ利口になればそれでいいんだよ。一気にいくつも思えられない」
ギャモンを20年やっている人にしても、そんなことを言いう。それこそゲーム性の高さというものだ。
道場の席主というのは、達観していた。かつて高校野球でも、池田高校の蔦とか、常総学院の木内とか、悪役明徳の馬淵など面白い監督がいたが、後の時代にはもういない。同じことだ。
参加者たちは、六本木のオシャレなカフェバーや、プレーボーイクラブ出身の異色で理系の学生たちもいるし、海外ヒッピー欧米系ではストリート賭けギャモンから勝ち残った者もいるのだが、やはり太いのは将棋関係者、プロ棋士の知り合いや友人たちもあり、アマ将棋連中もギャモンにスライドしてきた、麻布中高の将棋部活にギャモン部が公式に派生して、異色な者たちが今でも多い(世界のモッチーがその一人)。
まあそうだろう。ゲームとしての将棋は、藤井聡太の大人気でさらに見直されてきたが、チェスの100倍難しいといわれ、囲碁将棋は華道や茶道のように、日本の文化になった。さすがにAIで解析されるようにはなったが、将棋の複雑で難しい戦略(といっても、ルールは小学生でも理解するが)で鍛えられた日本人特有の頭脳は、世界一難しいゲームができるという、自分たちの誇りにまで思う。例え勘違いがそこにあったとしても、ゲーム脳の高いところにたまたまターゲットにした宮崎の普及作戦が、こうして大成功したと思える。ゲームの認知度としては、麻雀やトランプの足元にも及ばないが、しかしこのゲーム性の高さを理解して楽しめる一人として、テンヨー~すぎやまこういち~宮崎国夫~下平憲治~モッチーの輝くようなラインが、歴史を作ってきたことに、それを継続させていく必要性も感じながら、感慨にひたっている。