sptakaのブツブツDiary

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作曲家すぎやまこういちから、宮崎国夫へと、バックギャモンが将棋ルートへ浸透して、急速に普及してきた30年史

2024-01-26 16:00:41 | ブツブツ日記
「バックギャモン」なんいうマイナーなゲームが、しかし私もこの30年の当事者の一人として、3人の世界チャンピオンが生まれて、AIが進化することでさらに普段のゲームも面白く、世界の国別では、ニッポンとデンマークが急速に力量を向上させてきたといわれ、その理由を探せば、作曲家すぎやまこういちからアマ将棋クラブの宮崎国夫へ、伝言ゲームのように流れたこと。それは団塊世代の宮崎が、昭和一桁のすぎやまの弟子ならば、孫弟子に当たるのが5,60年代の下平憲治や私たちで、ひ孫に当たるのは70年代以降のモッチーやアッコやタクミツが世界で優勝したことに、大きなストーリー性を感じる。
すぎやまと宮崎は共に3年前に亡くなったが、私もその時にコロナで死にそうになった。行きがかりの人生のなかで、楽しい出会いがあったあと、嬉しく思う日が続いている。
テンヨーという中堅玩具メーカーが創立100年にもなるのだが、天洋さんという手品師が、知的なグッズを販売した会社だったらしい。つい最近知ったのだが、小学生だったころに(60年代)プラパズルという子供相手の知的玩具が仲間でブームになった。その使用説明書にご丁寧にも「富士通の協力でコンピュータ解析したところ2千通り以上の組み合わせがある」など紹介されていた。「富士通りって、どこの道だ」と、子供にはもっと親切に教えろよ。
仲間は、一つの組み合わせが完成すると、専門のノートにそれに書き入れ、200通り、500通りまで増えたとか、いずれその遊びも遠のいた。今ネットの保存画像を見ると、確かに「天洋」。バンダイとかタカラとか玩具は大手のはずなのに、珍しさも偶然ということになろうか。そこはまもなくジグソーパズルなどを輸入販売制作するなかで、73年からバックギャモンの製作販売も開始したと社史に残る。
世界史の中では、ギャモンはメソポタミアが起源になるようだが、誰も知らないからこそ、どう普及させようと考えたのか。当時麻雀荘は都内で2千軒を超えているという時代に、月に1回八丁堀にあったホリデーインの会議室を2時間だけ借りて、東京中の20人程度の仲間を集めて例会をやっていたなんていう、およそ過疎ローカルもいい加減にしてくれ。
ただ妙なことに、これはサイコロ発祥と同時に伝播したゲームで、奈良時代に日本に伝わって、つまりこのバックギャモンも(盤双六)、後白河とか、一部貴族には理解されていたとは言われるが、世間では子供用の双六(絵双六)として、知られるようになった。そういう未熟な理解を一掃して、テンヨーは新たな開拓を始めた、手品の会社だった(初代の引田天功とか、ミスターマリックはこの手品会社の契約者)。
 テンヨーは同じように六本木のオシャレなバーで、このサイコロゲームを流行らそうとしていた。プレイボーイクラブ主催では、優勝者に車がプレゼントされた。酔っぱらった拍子に「6」が出るだろうと振って、成功した、失敗したという偶然性に、酒との親和性がある。テンヨーのクリエイターと紹介される人たちは、手品のネタを考える珍しいエンジニアたちなのだが、その伝説の近藤博は、すでにタイガースの作曲家として多芸なすぎやまこういちにこのゲームを紹介して、彼はおよそ熱中した時期があったのだろうと思う。
 同じ頃に、すぎやまは将棋も習得しようと、このアマ名人の宮崎国夫を自宅に師匠として通わせて、将棋のレッスンを受けていたらしい。私が宮崎と90年代に知り合うのだが、「すぎやまさんの家に将棋の稽古に行っているときに、逆にこのバックギャモンを教わって、それで覚えたんだけど、いや~面白くてはまってねえ」
 こんな行きずりが、その後大変変革を起こすわけだから、もののブームというのは、計り知れないものだ。
 テンヨーはゲーム発売と同時に、日本バックギャモン協会を設立し、74年から日本選手権という大会を主催するようになった。当時でも全国から80人ほどの参加者(上級クラス)はいたようだが、協会の過去歴を見ると、77年の大会の優勝者に、すぎやまこういちの名前が残っている。あの男は音楽家として芸大を目指していたが挫折して東大からフジテレビ入社し、音楽番組ディレクターをしながら退社して作曲家になり、タイガースの生みの親になった。「大阪から来たならタイガースでいいじゃないか」という彼の思い付きは大成功して、グループサウンズという日本の流行歌を一変させた。すでにザピーナツの「恋のフーガ」を作り「モナリザの微笑み」で歌謡界を自由に操った。しかも多芸で、酒は飲まないが喫煙趣味で長生きして、ゲームの熱中度も高かった。作家渡辺淳一もエロ作品の片手に将棋マニアだったというが、そう団鬼六も誰も彼も。すぎやまもそう。74年とは、タイガースも解散して、一段落したところだったろうか。
 その頃の優勝準優勝リストには、島田誠が3回も登場し、彼は奨励会メンバーだったし、加藤英夫は、近藤と同じテンヨーのクリエイターの一人でもあった。
 70年代という高度成長は、麻雀の第二期ブームでもあって、当時の学生(私も)は、酒タバコと同じように誰もが麻雀をやった。高度成長の企業人も、勤務や勤勉の後のくつろぎに、あの偶然性が面白い麻雀というゲームは、日本を席巻した。
 まったく似たような感覚で、先の師匠の宮崎は、81年に新宿で三桂クラブという将棋道場を開設したのだが、その時に大判のバックギャモンボードをそこに一台常設して、将棋ファンにもチャンスがあればバックギャモンを教えようと、妙なアイデアを発揮した。あんな将棋盤が10台(20人)も入れば満員ビルの一室。喫煙モクモクのクラブの片隅にそれがあり、その10年後に私も常連になるのだが、「誰でも座れば1p200円のギャモンシュエット」と楽しく誘われ、(そのゲームは1対1で対局するのがヘッドといわれるが、3,4,5人と参加者が増えても、親対子供たちの組み合わせで、対局ができる)。200円というレートは、親で勝てば子供の数だけ2倍、3倍層。負けると逆層。公然とマネーが店内で動いた。
宮崎はその適正レートについて「例えばね、100点負けることないけれど、仮に負けても2万円ならば、「しかたがねえ」と諦めもつくからねえ」。多分にそれは、テンヨーからすぎやまに、さらに宮崎にと伝わっていったものと理解する。大人がタダでゲームなどやるか。あの将棋の真剣師の小池重明もこのクラブの常連で、宮崎にギャモンを教わって、初級者大会で優勝した過去がある。
 他方そこのクラブは、宮崎の人柄で大勢のプロ棋士も集まった。当時将棋のNHK杯で優勝(89年度)した櫛田陽一が専属であり、名人戦の挑戦者にもなったA級の森鷄二(通算2期タイトル)も契約プロであり、この二人にしても、明らかに宮崎にギャモンを教わった。その森の人脈として、先の連盟会長の佐藤康光も、今の羽生も、永世の名人の森内も、私も対戦した過去がある郷田も、先崎も、新宿の場所柄もあったが、錚々たるメンバーが出入りしていた。囲碁の武宮正樹も、亡くなった上村邦夫も、森鷄二の人脈からギャモンに流れた。永世名人の森内俊之は、モナコの大会でベスト4まで勝ち上がったが、対戦の3時間程度は「まったく姿勢を崩さないジャパン将棋のチャンピオンに驚く」と現地でも評価されたように、プロ棋士のそのゲーム脳と集中力は、世界を凌駕させた。
 さらにそこに学生アマ将棋で上京して歯科医となった下平憲治も、バックギャモンを知るようになった。しかも大ハマりして、ついにテンヨーから「協会」の名義を譲り受ける。その頃から私も参加するようになったが、以降は自分史と同じことになる。バックギャモンの月例会を手伝って、この公式戦はマネーゲームはやらずに「レーティング」で成績を管理した。パソコン時代に入って世界のゲーム組織が取り入れたレーティング方式で、AIの普及も拍車をかけた。例会の上位者は国内にとどまらずに、海外に出るようになった。私も香港、ラスベガスに何度も通った。
 振り返ってよかったのは、ゲーム感のいい人というのは、社会のどこにでも存在するのだが、プロ棋士というのはその最たるもので、連中が1ミリの誤差も許容できない将棋対局の後に、酒を飲みながら麻雀やるように、1メートルくらい誤差があっても許容するよという、サイコロ使ったギャンブル偶然性の高いバックギャモンが実は一番ハマった。それはよく野球に例えられ、いくら大谷翔平が投げても、「ホームラン打たれて負けることがある」の比喩になる。それは強いという人でも勝率は6割が限度で、ヘボと言われても、4割は確保できる(ある程度ゲームをできるレベルでは)。しかしその直接対戦でも、強者の勝率は2対1程度。逆にヘボでも3割は勝てるという、麻雀と似たような偶然性、ギャンブル性、「打撃は水物だ」として、偶然性がスポーツに存在するように、ゲームの中にもそれがあった方がむしろ楽しいと解釈できる
 その比較を宮崎は、
「ギャモンは出目の通りにゲームを進めるから、出目が大事になるけど、将棋は自分で出目を探さないといけないから、ギャモンよりもちょっと難しい」
 というのが持論で、分かり易かった。これが1ミリと1メートルの違いになった。いやむしろ、その1メートルの誤差があったとしても、ゲームとして成り立つことに、このギャモンの不思議さを感じていた、今でも。
 将棋81マスにくらべれば、ギャモン24マスしかない。駒は似たように将棋20に対して、こちら15。ただ将棋は各こまに大きな個性があるのに、こちらは何の意思もない、ただの石ころ。それを出目に従って動かすだけなのに、なぜか戦略は将棋同等。しかもこちらは1勝負3分~5分がいいところで、それで1アウト程度。27アウトして、9回終わる野球と同様に、2,3時間やって、ようやくトータルで、少し勝った、負けたの勝負になる。やっぱり1対局に、8時間、16時間も、いやせめて2時間かける将棋に比べれば、呑気でしかし気楽で楽しい。
 宮崎は93年頃から、月に2回の例会を始めた。当日は2千円の席料を徴収して、6時間継続した。参加は100人を超えるメンバーはいたが、常連は20人ほど。成績とレーディング表がまもなく郵送されてきて、参加者を管理した。そのランキングのトップに自分の名前が掲載されると、それは生涯の宝とは大げさだが、切り抜いて、いやそのまま保存して30年経った今でも手元に残る。参加者の興味を継続させた。その後現在までの30年の中で、レーティングは計算方法の修正はあったものの、今でも継続する。私などは、その後20年ブランクがありながら、再度また参加してもレーティングは継続した。これは間違いなく下平が欧米のギャモンクラブ例会方法を採用して、それを宮崎が実践させてきたと、記憶がよみがえる。
 例会の他に、棋戦のように「ギャモン王位戦」も始めた。(後にジャパンオープンとか、最上カップもスタートした。私唯一ジャパンの99年タイトルだけ)。初回は16人だか32人限定だと思ったが、過去タイトル経験者必須だったために、私はダメ。優勝は先の櫛田陽一だったが「お~い、櫛田」と揶揄されて、彼もニコニコしていた。この時の参加費2万円から、16人として優勝賞金20万円(他は開催費用)。こういう分配を仲間内だから平気でやった。
「プロ棋士は恵まれていますよ。対戦の給料は連盟から出るし、勝てばさらに賞金。負けても持ち出しはない。そういうの、片懸賞といって、棋士だけ。ギャモンなどギャンブラーはそれが辛いですよ」。とも。
 宮崎は風貌にも愛嬌があった。小太り格好。ちょび髭をはやしていて、ちょっとマリオに似ていた。故武者野もそういわれたらしいが、そう言えば二人は似ていた。生涯独身で、酒タバコが大好きで、それでいて例会はワンドリンク付きというと、200円のドリップコーヒーを丁寧に入れていた。それに宮崎にとっても、ギャモンの相手が大勢増えたことが、プレーヤーとしても、楽しかったことのようだった。
 私のような新参者にとって、ギャモンというゲームの異様姓は驚くことばっかりだったが、それは対戦回数が増えた宮崎にとっても、同じだったのだろう。
――どうしてギャモンのチェッカーは15個なんですかね。
「1~6までクローズアウトするには12枚で足りるのに、残り3枚あるというのは、不思議だよねえ」と同意してくる。
 将棋の主催者にとって、「どうして飛車と角があるのに、「潜」なんて言う駒はないの」と聞いたとしたら「キミは馬鹿じゃないのか」と言われる。数千年のゲームの仕組みに疑問を挟むなというわけだ。しかし彼は、ギャモンのその定理にたいしても「不思議だよねえ」と応じた。
「最初は20枚くらいあったんじゃないの。そのうちに多すぎるとだんだん減って、きっと12枚まで減らしたこともあるけど、それじゃ足りないとまた増やして、15枚が適正になったんだよきっと」と答えた。ああ、私の10年先輩のプレーヤーにそういわれたら、きっと正解だよなあとも思う。素人を納得させることができた。共感がある。
――残り2枚になってからも勝てるよねえ。
「だからねえ、不思議ですよ」
 15枚のチェッカーのうち、相手に13枚上がられても、そこから逆転できることもあった。残り2枚をヒットしてクローズアウトすれば、それだけで逆転になった。
「2枚ヒットのクローズアウトから、6ポイントが空いた瞬間に66を振って、(1枚もあがっていない状態)それから逆転するのも、年に1回くらいは見るよね」
 そういう普通の会話が楽しかった。将棋ですら、囲碁に比べれば逆転のゲームと言われるが、ギャモンはさらに、不運も含めて逆転が多い。
――負けて怒り出した人が、窓ガラス割って、ボードを外に投げたらどうするの
 と聞く。かつて絶望的な状況に追い込まれた男が、試合中に泣き出したことがあった。子供じゃない立派な大人である。その状況からでも、ある場合は逆転した。
「面白いよ。窓ガラスが割られて、物が下の通行人に当たって、警察がきても、その男が補償するだけのことで、こっちに責任こないからねえ。それが暴力人だったら出禁にするだけで。でも将棋指しにそんな勇気がある者見たことないよ、ハハハ」
 彼は例会には参加しないが、普段のシュエットやタイトルリーグには出た。あの頃は他人のプレーに講釈する者がいたが、同意すれば「ああそうか」。
「一日一つずつ利口になればそれでいいんだよ。一気にいくつも思えられない」
 ギャモンを20年やっている人にしても、そんなことを言いう。それこそゲーム性の高さというものだ。
 道場の席主というのは、達観していた。かつて高校野球でも、池田高校の蔦とか、常総学院の木内とか、悪役明徳の馬淵など面白い監督がいたが、後の時代にはもういない。同じことだ。
 参加者たちは、六本木のオシャレなカフェバーや、プレーボーイクラブ出身の異色で理系の学生たちもいるし、海外ヒッピー欧米系ではストリート賭けギャモンから勝ち残った者もいるのだが、やはり太いのは将棋関係者、プロ棋士の知り合いや友人たちもあり、アマ将棋連中もギャモンにスライドしてきた、麻布中高の将棋部活にギャモン部が公式に派生して、異色な者たちが今でも多い(世界のモッチーがその一人)。
まあそうだろう。ゲームとしての将棋は、藤井聡太の大人気でさらに見直されてきたが、チェスの100倍難しいといわれ、囲碁将棋は華道や茶道のように、日本の文化になった。さすがにAIで解析されるようにはなったが、将棋の複雑で難しい戦略(といっても、ルールは小学生でも理解するが)で鍛えられた日本人特有の頭脳は、世界一難しいゲームができるという、自分たちの誇りにまで思う。例え勘違いがそこにあったとしても、ゲーム脳の高いところにたまたまターゲットにした宮崎の普及作戦が、こうして大成功したと思える。ゲームの認知度としては、麻雀やトランプの足元にも及ばないが、しかしこのゲーム性の高さを理解して楽しめる一人として、テンヨー~すぎやまこういち~宮崎国夫~下平憲治~モッチーの輝くようなラインが、歴史を作ってきたことに、それを継続させていく必要性も感じながら、感慨にひたっている。

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「千石自慢ラーメン」の空箱廃業夜逃げ跡

2024-01-24 18:48:12 | ブツブツ日記
 巣鴨から徒歩5分程度のところに、30年以上も人気営業していたラーメン屋が、2年ほど前に廃業したのだが、今でもその4階建て建物はそのままに、空箱で廃材のような(建て直しするのか)、残骸が残って、その「ラーメン」表示も風雪に叩かれたまま、ああ情けない。だらしない廃業だ。
さほどラーメン好きでもないが、このとんこつは名物だったし、モヤシラーメンが600円くらいだったか安くて、90年代には、真夜中でも3回転待ちでもしょうがねえなあと、並んだものだったけど。
あの頃汚い立ち食いで、20時間くらい営業していたような、カウンター12人分くらいしかなかった。キッチンでは、1回で8人分のラーメン作っていた。食券買って並んで、(その3回先までの食券受け取って、定規のようなものに、24人分を順よく並べて、よく間違えねえなあと感心した)。つまり店を取り囲むと24人くらいが限度で、後は帰ってしまう。それがよかった。
クッキングは8分程度。そこでラーメン出すのだが、前の8分から食い終わっている人4人。残りはまだ食っていて、だから12人分のカウンターで、常に満席回転していた。
1時間に7回転の8人で、600円だと3万3千円。20時間で67万円、年間2億円を超えるの売り上げ。荻窪の丸福だったか隣が、脱税であげられたときに「こんな店で2億円も売り上げるのか」と税務も呆れたらしいが、この千石も同じような人気店だった。1時間くらい経過すると、その鍋を目の前で洗うのも職人芸のようだった。
ところが2000年の頃だったが、経営が変わったらしくて、汚い立ち食いを改装して(その間1か月くらいの休業あって)今度はオシャレ風なカウンターに座って、座席数も減った。汚いラーメン屋が見え張ったと思ったように、客も何となく減っていた。あんなラーメンは座って食うもんじゃない。その後20時間営業が12時間営業くらいに短くなって、何だかつまらなくなった。ある時は、家族4人で立ち食いいったものだが、後に爺になって、それほどいかなくなった。でも通るたびに気になって、ガラーンとしたのも見たが、ついに閉店していた。そういえば当初はトイレなども「そんなのないよ」と言っていたのに、途中から二階に上がるとトイレがあるようになった。
立ち食いは汚いままでよいのだ、それで人気があれば。それを二代目だか、誰かがつまらないいたずらすると、客が減る。従業員だって、寝ないで儲かるから元気に職人やっていたのに、(いつも5人くらいそこにいた)、ラーメン屋もゆとり教育でダメになったんだろうなあと思う。あのとんこつ味よかったのになあと、懐かしい。
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松本人志なんて、裁判に負けるに決まっているでしょ(もしかして5億円のうち、100万円くらいは勝てるのかも)

2024-01-24 17:33:53 | ブツブツ日記
 芸能人の名誉棄損は過去にいくらでもあったが、メディア側にすれば「事実関係で争うだけでいいんですか」と笑い声が聞こえてくるのだ。名誉棄損とは「デタラメ書いたな」ということで、女と合コンしているときに、実は海外にいたとか、収録していたとか、そういうアリバイがおかしいという主張になる。
事実関係の争いとは、女を強姦したとか、和かんであるという主張だろうが、女が「こういう経過がありました」とメディアに話すのは、そこに怒りがあって、タレントからバカにされているわけで(お車代の10万円でももらえば)まあいいかと納得するのだが、それもないから、ケチやろ~とか、強姦野郎と怒り出すわけである。それがネタ元であるから、メディアのこの手の記事に間違いはない。どうせスマホ写真他の証拠も残っているはず。
さて問題はここに「プライバシーの侵害だ」という屁理屈が入り込むときがあって、それは平たく言えば、「風呂ののぞき見か」、「夫婦の寝室か」という例えで、たとえ夫婦の寝室の様子が「変態」の事実があっても、「それを表記する必要にない」というのが、プライバシーの侵害というやつだ。ある場合は「舐めろや」とか「オレの子を産め」が、これに該当するかも知れないと問われることがあって(本来は問われるわけがないが)、こうなると、事実であっても、少々困るわけで、しかし今回はこれがないことから、メディアは笑ってあしらえるという話だ。
そもそも合コンでホテルのスウィートを使うことは、逆にホテルから訴えられるんじゃないのかと思うほどで。女に刺されたらいけないとは、吉行淳之介も、松本清張も心掛けていたことで、女が色恋で訴えてくるのは、誠意がない(金払いが悪い)ためがほとんどで、たまに約束破りとか、裏切ったなどもある。連中はそれを「銀座の学校」と屁理屈を言って、一人前の男に育つには、女を怒らせたらいけないともいう。松本人志なんて、その足元にも及ばない、ガラクタ芸人だったということだった。金を出さないのもいけないば、カネで横っ面をひっぱたくのも、また刺される理由にもなる。
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天皇家愛子の日赤就職に大喜びする間抜けな皇室崇拝

2024-01-24 16:36:00 | ブツブツ日記
 女性皇室は処女時代(独身)だけは、妃としてもてあそばれるが、結婚すると、もう人格用済みで、切り捨てられる。それは歴代の処女崇拝っていうだけのことで、御手付き(妊娠)すると世間から用済みと言われることだ。
 雅子さんだって、女性を産んでもいいけど、ちょっと前なら「男が生まれるまでどんどん妊娠しろ」。だって女じゃしょうがない。女が天皇家継げないなら、継げるように男を産め。でも今は言わなくなったよね。
 でも娘が結婚したら皇室辞めるのは、母親にしたって残念でつまらない。そんな制度でいいのかね。
 政府が少子化対策するのは、女性も仕事して結婚して、そこに手当他余裕を作ることで、出産子育てが楽しいことだという認識で、人生観の再構築しようという話である。
ならば手っ取り早いのは、女性皇室は妊娠してこそ一人前で、女性天皇家を相続させるように、第一子が天皇家を継げるように。仮に天皇継げなくても、皇室に残って、公務いつまでもやれる様に。そんな分かりきったことが、できないという、失われた30年。
 女に生まれた皇室は、時限爆弾抱えて生活しているようなもので。本来男を好きになったらダメか、妊娠してもダメか。戦国時代に、城の石垣に、生きた女が生き埋めされて、それが天下泰平への捧げものだったとか。アホウと唸りたいよね。
 馬鹿でも分かる理屈なのに、政府も国民もバカ以下だから何も分からない。
皇室女性は、結婚すると下野に降りて、生活が苦しくなる。ならば全員行かず後家で、独身生活を謳歌するといい。三笠家などはその通りだ。どうやら二枚舌の政府はそれを望み、他方で結婚出産を国民に強いても、それは無理ってもので。秋篠の眞子が全く歓迎されないのに、佳子はいつまでも行かず後家でいたいだろう、歓迎される人生を継続させたく、結婚したらそれは地に落ちる。
派閥のキックバックが賄賂だと分かっていたのに、平然と今日まで来て、女性皇室の理想形はどこにもモデルがありもしないのに、なんだかいい話としてつたわっているなどは、バカ。愛子だって、22歳はちょっと前なら婆あ扱いされるし、皇室女性の立場も困るよね。
 こういう馬鹿げたことが、笑い話のように、国民の黙認の中で、平然と存在していることに、島国部落国の後進性がよく分かる。

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いい加減に政府は博打(賭け金)解禁にしないのか

2024-01-12 23:54:25 | ブツブツ日記
 10円掛けても取り締まるという、建て前国家。安倍政権の高検だった茶坊主の黒川は、賭け麻雀やったと批判されたが、裁判では「千点100円(ピン)だった」と、こんなの多分ウソなのだが、罰金20万円の略式で人生消えた。ホントはその5倍10倍の掛け金だった。東尾とかパクられた時も、高額であり、それが表に出るのは、カネのないやつに貸し付けて、それで負け分支払わせて、後で回収できないから、ポリに駆けこむという構図がある。いつもニコニコ現金払いとは、正しい屁理屈なのだ。
 ところがいま麻雀ZOOへ行くと、千点50円の掛け金だと公言して、店内で現金のやり取りしている。それは平気なのだと。(馬なし箱てんで終了)。それはつまり3万点持ち、同額返しで、なくなると1500円の負けになる。それだけ。なんだか勝った人でも時給千円程度であり、負けても同じこと。このヤミレートが実は合法っぽいと店でいっているというのは、ZOOならば、信用店舗として、ポリが暗黙していると思われる。ならば、これを公開して、解禁しないのか。
 知り合いのポーカーカジノは、合法の健全店だが、ポリは目を光らせている。なのだが、3000円でチップ買って、テキサスを10人で囲んで、普通は飛んでおしまいになるのだが、勝って残ると、それを預ける。次に来た時に、半額の1500円をチャージ風に支払って、先の勝ち分を引き出して続きで遊ぶ。つまり勝つと次が半額になるというサービスなのだが、いくら勝ってもゼニにはならない。なった瞬間にパクられるという構図であり、夜も11時半以降営業していてもパクられると、店はポリと仲良くするが、やっていることは小学生のダイヤモンドゲームと一緒で、掛け金ゼロの大人のママゴト。それで面白いのかといえば、つまらないが国内の場合は仕方がない。儲けたいなら、近場で済州島、いやマカオ、香港、ラスベガスで賭けてくれと、そういうツアーも組んでいるが、これで大人の国か、呆れる。
 ギャモンにしてもゼロ。ゴルフで握るとバレたらパクられる。だから勝っても時給千円程度の金額を政府上が決めて、このゲームでいくら、このゲームでいくらとして、公開する。じゃないと横浜大阪でカジノ始めたいといっても、それはつじつまが合わない。
 政府だけが、パチンコ、ボート、馬、クジその他で寺銭儲けようと、それはいい加減に辞めろと思う。300円のクジの積み重ねで、3億円当たるなどは、気違い風だとは誰も思わないのか。
 例えば、忘年会新年会で、じゃんけんカジノをやると、これは多分合法だという屁理屈がある。一人500円を主催者が用意する。会合に会社50人が集まって、じゃんけんやって最後まで勝った一人が総額25000円をゲットする。
 それが賞金金額を、会社が社員に提供したという屁理屈が付くから合法になる。ところが、その場で一人500円続集めて、同じことをやるとパクられる。こんなのただのトンネル会社が合法で、直が違法という二枚舌。
 なぜなら、この新年会に会社は一人千円の会費だと集めた。食事は1万円ほど出ているが、9千円は会社の負担という。ところが、実は9500円でていて、残り500円は、先のじゃんけんカジノの掛け金にスルーしているだけなのだが、それを言わなければ、大丈夫というバカへ理屈をポリは信じる。
 こんなことで、1円でも賭けたらパクられるというバカ社会なのだから、いい加減に大人になれと大いに思う。
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