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NHK「続基礎英語」の安田一郎に学んだ弟子、田口義豁先生(埼玉大学附属中)享年86歳の昨年8月訃報

2022-01-13 13:19:06 | ブツブツ日記

 同級女子が昨年来から恩師の田口先生にメールしていたが返信来ず、正月の賀状に消息お尋ねを実家に送付すると、しばらくして喪主の奥様から、昨年8月に亡くなったとの連絡が昨日きた。ああ~お気の毒だったが、一昨年とその前に、訪問して50年ぶりに面会した数時間の思い出と、その時も最後かもしれないかあと危惧しながらも、数時間は濃密だったことと、半世紀も前の中学時代に、恩師の英語授業を3年間受けたあの痛烈な記憶体験が、取返しもつかないほどの有意義なことだった追悼など。サッカーに例えて国見高の小峰忠敏であり、野球ならノムさんだった。

 封筒で返信された日付が平成30年とあるから、4年前にことだ。若いころはすべての手紙を読み終えると捨てていたが、今はそうでもない。
「先日は埼玉のチベットまで遠路はるばる~~」と書き出していた。羽生市なのだ。恩師のもう一つの趣味がスキーであり、どうも昭和30年代の初期のスキーヤーだった。今では恐れ多いことに私の経験がそれを勝ったが、
「大雪山、鳥海山、立山など、しかも麓のほうで滑ったことがあるくらいですから、この本(夏でも冬でも百名山)で新しい旅をさせてもらって~~」と続く。後年恩師とは、スキーの縁に巡り合った。そして「先日の面会は心から感謝しています」と、お褒めだとはいえ、本当にそう思ってくれているなら、私の面目もたつ。

 その4年前の中学同窓会のことだ。あのときさいたま市は浦和西高OBの西野が代表サッカーチームを率いて、Wカップ快進撃をしていた。西野はガンバでも監督をしていたが、実は私の1年先輩だけの同世代で、浦和西とは地元でもあって、その同窓会でもこの話題で盛り上がっていた。何しろ中学では、埼玉サッカーの松本暁などは、浦和南の前には母校中学の監督だったというし、教え子たちは児玉にも散らばって、こちからも総体で優勝して、サッカーを町技にもしているという気の狂い振りでもあるわけだ。
 そういえば、恩師の田口先生だけは、この50年間一切あったことがないのはどうしてだろうか。同窓会を案内しても出席されない。すでに自分も含めて人生の最終ラップに入っているわけだから、意を決して、しかし羽生などは、東北道の加須インターであって、スキー行に比べれば恐ろしく近距離で拒否するには値しないのも知っている。せめてその消息だけでも、すでに亡くなっているのかもしれないと。

 50年前の名簿の住所が今でも健在であった。いや今はフルネームと町名が分かれば、ネットの住所検索もおおよそできる。少したたずんでから声掛けすると、庭先にすでに高齢となっている恩師が散歩姿で顔を出して、教え子の旨を告げると、驚きながらも半喜びで「じゃ、ちょっと上がっていきなさいよ」と、それが数時間にも及んだわけだ。ああ健在でおられた。話もできる。
 しかし実は、当時の英語の授業では、日本語はご法度だった。一対一のスピーキングのテストでも、どこに住んでいるの。「埼玉県の大宮市」。家族は「両親と妹」など、英語の授業とはテストも含めてすべて英語だけ。「え~と」とどもっていると、eight? と聞き返しが来るようなある意味プレッシャー付の強力な授業で。その3年間に恩師とは日本語で会話したことがなく(テニス部の顧問で少しだけ指導は受けたが)、こうして、応接に対面して「今日は日本語でいいんだよねえ」と自分に言い聞かせ不思議な気分になって、「貴方はどの学年でしたっけ」と記憶を呼び戻しながら「ああ、思いしましたよ、荒井君の学年だったね」と。荒井とは英語の優秀エリートで、中3で英検2級に合格して、授業に出なくても「5」の評価。高校時代は留学して、英語圏弁護士、そう小室圭の50年先輩を悠々と走る奴だった。そして来てくれた感謝が本当なら、恩師はこの50年の不通を丁寧に説明しだしたのだ。

 実は中3の三学期とは、高校受験を控えて、学年担任や主任にとっては、中学教職の中でも、最重要時期に当たるという。教え子は第一志望の国立や私学、せめて県立に合格できるのか、落ちた生徒は滑り止めにどこに入れるのかなど、子供の将来が関わる。その英語科の恩師は、実はこの時期に学校に不在だった。どうやら都内の英語科教師のシンポジウムかなにか、連日の講習、もちろん校長の承諾は得たのちに関わって、これに参加していたというわけだ。つまり当時37歳だった恩師は、ただの埼大の中学の教師にとどまらずに、上はどこまでも見続けていて、それは恩師の恩師がNHKの安田一郎だったのと同じように、それは文科省の英語教育の将来まで見据えた発展途上にあったのだと思えるわけだ。ところがこれが、現場の教師間では身勝手すぎると風当たりが強い。受験学年末の子供を抱える教師たちは、上への提出書類が山積みの時期であり、その時に好き勝手していた教師に「ああ、あの人はね、特別だから」と、これまで50年会っていなかった私たちと同様に、同僚教師間でも同じ思い以上に、無関心でもあったらしい。
 ところがそのころに膵臓の持病が悪化して、教員生活そのものを左右するドクターストップがかかってしまったというのだ。そういう悪化を押してまで英語教育にかけていたとも言えた。当時結婚して7年、子供は小学生に上がるかという長男と、下に幼稚園生。二人を残して死ぬかもしれない。恩師の実父も若くして亡くなっていたらしい。苦渋だったとはいえ、その現役教員生活が37歳の若さで止まって、余生に入る。実家に戻って療養。幸いに数年の闘病でかなり回復してきたというのだから、幸いだった。ただ埼玉のチベット地方から、のうのうと浦和市などには顔を出せない。あれだけ好き放題の教職生活でいきなり辞職して、顔向けができないという謹慎生活を以降は余儀なくされていた。

 そもそもの恩師の英語教育とは、埼玉大学教育学部学生時代の英語科の教育実習の5週間で、当時安田一郎さんが、その付属中学で教鞭とっていた時に、そこで出会って、その華麗なる指導に面食らってすべてを受け入れて、これが英語科の将来像だと弟子入りしたようなことになったらしかった。
 その安田一郎という人も特異な人で、敗戦時期に外語大を卒業して、どういう理由か埼玉県の地方公務員の嘱託になって、どうも進駐軍との折衝などの仕事に就いた経験があったらしい。そこから講和条約までの数年間、安田が田口に語ったことによれば、進駐軍の日本占領政策は全くの大成功だったという評価なのである。ああ、確かにそういう見方もできるだろうとは思う。マッカーサーの来日当初だけは、日本国民が虐殺されるだろうとか、天皇陛下の地位も危ないとかはあったのだろうが、ところが翌日からは女性子供は「ギブミー・チョコレート」だと、進駐兵隊とお友達になったわけだ。思えば弘田三枝子も黛ジュンたちのアイドルも、ほとんど進駐軍キャンプ回りから本物の歌手に育っていた。思えばあのノムさんの奥さんサッチーにしても、米軍がボーイフレンドのぶっ飛んだ女性だった。
 なぜなら、来日した海兵隊は大半がミシガン出身で、そのミシガン大学の語学習得の「ミシガン・メソッド」によって、一夜漬けでも日本語を駆使していたからだという。それはつまり、今日はさようならの他に「きれいなお洋服だね」「チョコレート食べてみる」なと、ちょっと進んだワンセンテンスまで50フレーズくらいを、とにかく「丸暗記」。ワンフレーズを一日10回、5日間で50回発音して、覚えろ。ということだけらしい。要求は厳しいようだが、いやその程度の繰り返しだけでいいのかという、安心間もある。
 進駐軍は、半信半疑ながら、日本人の前で、その覚えてたての「チョコレート食べてみる」を言い出す。すると予想以上に島国の後進国民の女性子供は男もね、ニコッと笑って、自分たちに親近感を持つ。連中も驚く交歓振り。安田は目の前でその体験をした。語学はこれだ。
 ああ国見高の小峰忠敏のサッカーを思い出した。ただ走るだけの、バカでもできるつまらないサッカー。だけど6度の日本一に輝いた。ということは何か。サッカーは馬鹿でもできる。同じだ。英語は馬鹿でもできる。そう恩師は「英語は勉強ではなくて、慣れだ」と当時から公言して実践した。のちには自動車教習所のレッスンと同じじゃないか。入学したものは、誰もがいずれ免許取得ができる。そうだ。子供のころに聞いたことがある。中学3年間でもれなく日本人は英語が習得できる。それでのちに九州から韓国まで橋を架けるから、歩いて外国に行けるようになる。中卒したなら、歩いて世界に出て、そこで大いに学んで働け。資源がないからと戦争したが大敗無条件降伏したなら、これからは海外にでて、そこの人になってしまえばよいのだと。のちにトヨタ、ホンダが現地生産現地消費始めて、ああそういうことか。だがしかし、文科省の英語教育とは、中学高校大学と10年たっても、何の役にも立たない。文科省はわざと英語を喋れないようにしているとしか思えない。それは日本が空っぽになってしまうから、政治屋と官僚にとって困ることになる。
 その理想と実情の間で、しかし恩師は前者の方法を選んだ。つまり安田一郎は、そのミシガンメソッドこそが語学習得の馬鹿でもできる最も安易で確実な方法。ときに英語などは、アメリカの乞食でもしゃべると馬鹿にするフレーズもあるが、そう、アメリカの乞食になることがまず第一と恩師たちは平然と答える。そしてそこから、戦勝国目線からの社会の構成員になろうと、ああ明治の元勲は西郷隆盛以外のすべての者は、咸臨丸その他の使節団として海外視察から学んできた。60年代は小田実の「何でもみてやろう」。方法はまずこれだったのだ。

 実際の授業とは、演技する劇団の楽屋みたいなものだった。教室を20人ずつ左右にわけで、会話する。ハイ右、ハイ左、ハイ右、ハイ左。発音にはうるさく、r,l.th,Fなどは、慣れれば何ともないが、それまではしつこい様に修正させられる。小学校のことは、プライマリースクールと英語表記なのに、発音は全くの米語。それでいいのだと押し通す。あああの時代はグレイトブリテンなどは、ドーバーの岬に、for saleとバッタ屋のごとく売り出し中とあったくらいに、相手にされない老人国家だった。それでもせめて英語圏の目線も身に付けろ。教師とは、楽屋のレッスンのコンダクター。文法などは後からでいいから、丸暗記。ああ、これは島国部落の国民にとって、3歳までに日本語習得したことは記憶の彼方に飛んで、物心つくと、紙とペンで文法に寄り添うまったくの無意味と悪用に脱皮してしまう。

 その後を思えば、恩師の英語科で育った者の一人としては、感激の時代だった。ほかの国語も理科も数学も社会もなんでもないし、誰でもよかったが、英語科だけは以降の県立高校以下は、ばかばかしくてお話にならない。何も習得されていない。あの時代に夏休み2週間の海外留学なんてものがあったら、間違いなくみんなアメリカにでて、帰ってこなかったんじゃないかと思う。今はあれから怖くなるほど時代は後退した。元凶は多分20年前にフリーズを笑った高校生がアメリカで射殺された事件に思う。3億人も住んでいれば、気の狂った一人二人の残念な事故はどこでも起きる。秋葉原よりはましな事件なのだが、しかしアメリカは鉄砲を持っている国だから、ああいうことが起きる。アメリカやめてイギリスにしよう。いやオーストラリア、ニュージーランドにまで手を出す。島国があんな南方の羊の島国にいってどうするのかと、地震があったときに、日本人だけ百人が死んだときき、理由がわからなかった。
 いやつまり、対白人は170年前の黒船の恐怖いらい、今でも島国部落民にとっては、恐怖の対象でしかなく、一歩も進んでいないと理解できる。政治や官僚でさえそうだ。私たちのような経験を持たなければ、それは松田聖子のように第一歩は外人青年と同棲してもいいから、語学習得しよう。ノーベルの小柴にしても留学先でガールフレンドとの同棲からあっという間に語学習得した。同じだ。埼玉の片田舎の中学生には、丸暗記がそれと同様のメソッドになる。

 恩師としては、英語授業で、あのラジオの中の安田一郎と同じ授業をした。私たちには大恩師の刻み込まれた思いがあり、によって豊かな時間が過ごせた一人として、せめてバックギャモンで何度も欧米を相手にし、週末旅行だよとはいえ、30回も放浪して、50州は大体いったよ。その程度の趣味でも、今となっては、何事にも代えがたい記憶として残る。そのすべてが、あの英語科の授業のお陰だった。ありがとう、安らかにと追悼の気持ちになっている。
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