sptakaのブツブツDiary

sptakaさんは、毎日ブツブツ発言しています。

W杯代表なんてもんは、サッカー協会の職域部活メンバーだろって、いつも思う。

2022-12-08 10:07:26 | ブツブツ日記

 不毛だった日本サッカーを目覚めさせたのは、間違いなく川渕三郎だったね。そのバブル勢いが凄すぎて、彼はいきなり協会幹部になり、オフトを招聘して、昼寝から目覚めさせたね。
 するとその後は、田中幸三だとか、反町だとか、たいして名も売れてないのが政治色でのさばりだして、彼らの未熟な知恵で、つまらない人事をやっていると、いつも嘆くよ。
 スポーツなんて人気商売なんだから、せめて野球を見習えよとも思う。野球の代表チーム編成は、間違いなくプロ野球機構のその意志が相当入っているわけだ。日本に野球協会なるものがあるかどうか、しかし体協事務局の中に野球協会らしきはあるが、しかし通信事務だけで、主力はプロ野球機構になっている。
 ところがサッカーは立ち上がったその時は川渕とJリーグが主導したけれど、彼も潔い男であっさり後進に譲れば、熊本から浦和に留学したというおかしな田中だとか(彼などは、西野辺りでは、バカにされているほど)、全日空にいたからと、奇妙な反町がしゃしゃり出て、当初は奇妙な外人監督を羅列して、ダメになると西野がリリーフして、後はポイチにやらせるという、こんな人事はJリーグ構成員で決めればいいのだが、協会なる政治の顔色伺うような臆病な連中ばかりの部活に成り下がる。ああ、そういうのが本当にダメだ。
 
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サッカーW杯の大失敗、森保一監督という、貧相な顔つきの田舎者

2022-12-07 16:29:48 | ブツブツ日記

 負けた腹いせは、森保のポイチの責任だと決めつける。大体あの顔つきが嫌いだ。顔つきで他人を判断するよ、せめて40歳を過ぎたら顔に責任持てといった先人がいたからね。なんだか眉も目つきも、への字に見える。すぐに泣きそう。話にえ~~が長い、若造のくせにボキャブラが少ないか。だから嫌いだ。むしろ慎太郎のように、恐持てになったらいい。
 代表メンバーは、あまり指摘されなかったが、半分は川崎フロンターレだ。20~21年とJリーグ連覇して、今年は惜しくも2位。その2年で、チームからこれだけのベストメンバーが出たのだから、かつての読売クラブ(ヴェルディ)並みになっている。

2020:三笘薫, 家長昭博, 守田英正, 田中碧, 谷口彰悟, 山根視来, ジェジエウ, 登里享平, チョン・ソンリョン
2021 : ジェジエウ,谷口彰悟,脇坂泰斗,レアンドロ・ダミアン,山根視来,家長昭博,旗手怜央

 中でも21年のフロンターレは、28勝2敗8分け。一体どんな事したらこれだけ勝てるか。三苫なんだね。これがゲームメイクしていた。
だったら、代表もフロンターレに任せればいいのに、田舎者は、鎌田だかどこから拾ってきた者にやらせようとした。みんな鷺沼(川崎市)出身の都会っ子なのに、長崎育ちの広島サッカーの田舎者が、好き嫌い丸出し人事で、どうして勝てるメンバーを先発にしなくて、後半途中からにするんだ。そんなやり方、これまで聞いたことがない。
 読売クラブのダメオヤジのナベツネという巨人狂いが、川崎を撤退して、サッカーを投げ出した。あの時代は代表オフトのサッカーで、彼はクライフの友人で、たまたま広島を見て、その40年前でも今と同じサッカーやっていた。そのイレブンのうち、最後に滑り込んだような者が森保で、MFのディフェンシブ。同じ広島にいたから、知り合いのよしみで、オフトが使っただけの人に思う。上は、カズがいて、ラモスも、武田も。北沢豪に代わって吉田、都並に代わって三浦の兄が入ったけれど。あのイレブンで最小に目立たなくて、活躍なかったのが森保だった。
 ナベツネが川渕三郎と大喧嘩してサッカー撤退したあとに、その等々力に入ってきたのが、富士通のフロンターレだった。鷺沼周辺は、東名川崎が交通の最寄りで、郊外ハイソとなっている。駅前にフットサル6面を作った。それがフロンタウンというそのフロンターレの周辺設備。夜の10時まで営業して、なんと小学1年からその時間まで大賑わいは、親の子供虐待とは言われても、サッカー大好きらしいのだ。そこに三苫も田中碧も育ってきた。そしフロンターレは、当時は小3でU9歳を組織して(今はU10)のようだが、下部組織からピラミッド積み上げた。だから彼らは小学3年で、すでにプロの予備軍。
 何が言いたいのかといえば、40年前のオフトの時代から、サッカーはポジションがなくて、選手はキーパー除いて、10ポジションを全部やれ。併しまさか、FWにストッパーやスイーパーやらせるわけにはいかないから、平たくMFなら誰でもやれ。せめて攻撃選手は、DF4人のラインには参加しない代わり、残り6ポジションはすべてできる、そういう選手がこの40年間でどんどん育っているはずだった。
 ところがW杯のゲームは、三苫か、伊藤にパス出して、後は「頼んだよ」で、他の足はストップ。それでも三苫から田中碧で得点。浅野は一人で得点。堂安はゴール前の密集パチンコ状態から、運よく2得点挙げただけ。せめてオフトでさえも、「トライアングル作れ」とは、今の小学生でも教えられる基本なのに、それができない。ならばどんどん変えればいいのに、好きな人だけを使う。ダメだ、こんな田舎者サッカーやっていては。目標達成しなかったんだから、辞めてくれ。これ以上あの貧相な顔は見たくもない。
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東北道の岩槻~佐野の夜間も雨も120キロOKのあ~そうですか

2022-10-17 15:35:30 | ブツブツ日記

夜間などは80キロで流れているトラック走行の脇を120キロはちょっと無理でした。クルーズ110キロに設定して15分くらい走行しましたが、これでもほとんど抜かれない。しかし前方に、犬の死骸とか、破損タイヤなどが残っていたら、回避できない気もする。ビームはロウでは、60mくらいしか見えないし、オートではしれば、足はブレーキから離れるという、ちんたら姿勢にもなるしね。
90との違いは速度20キロとはいうが、危険率衝撃は2乗比較であって、81と121では、1・5倍。90に落ちるだけで、ホットするほど安心なのは、これが理由でね。疲労度なんて3分の1くらいじゃないのか。
 こんなことしていたら、リッター走行21キロくらいになってしまった。あたしのHONDAハイブリッドは、高速で25~26キロくらいになるのが案外楽しくて、それは90キロ走行の時で、20upの風圧だけで、これだけ燃費悪くなるなら、それは大いにつまらない話だったよ。もっと上げたらさらにひどい。
 東北道なんて、以前と同じ道をいきなり+20キロ走行可能にする理由は一体なんだ。ドイツは300キロで走っていい理屈いうなら、混浴に男集団20人が入り込んで、「女子の前で男根比較できる国ですか?」とドイツ人に聞かれ、「違法ではない」と答えたことが、先のドイツ300キロ走行と同義語で、アホな日本人はいつもこれをたとえ話に出すが、逆に言えばこの通り。やはり双方とも死に損ないのアホなのです。
たまにちょっと工事があるというだけで、その10キロも前から「50キロ」走行を指示するのだが、誰も従わないときに、いきなり出てきたポリが「50キロオーバーで免許停止」とは言うのかなあ。ポリの反則金にはノルマがあるという話を、OBが本にしたと近直に話題になったが、らしいなあ。
夜間の80と120を比較すると、64と144は、2・5倍の危険度、これって、あんな粗末な東北道で大丈夫かと思うけどねえ。ポリは今でも1・5倍の速度比較しかしないんだろうか、多分そうだ。走行実験何もしないで目クラの感覚で、下請けのおっさんが表示付け替えで、これ実行したわけで、ああ。雨が降るだけで首都高は事故だらけになるわけで、自動車行政どうしようもなし。
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大竹しのぶにも笑われる、三浦春馬の鬼母の仕打ち、納骨堂への隠し収納というウソ

2022-07-23 14:06:45 | ブツブツ日記

終活不景気が理由か、少子化か、お墓というものを作らずに、納骨堂という簡易コインロッカーに遺骨を収納して、これを臨終と言い換える不景気風潮がある。地べたにお墓を作る余裕がないし必要がない。そもそも一旦納骨したら、廃棄(合同墓地へ移送)するまでの33年間に一度も墓参りに行きたくない。ましてや、他人が墓参りに来るはずがないという故人用に、多分こういうのが流行っている。
築地本願寺という日本一地の利がいい寺に、これがあるのを、利用したのが三浦春馬の三回忌に合わせてのことで、この夏に顛末が所属事務所から通知があったが、その鬼母といわれる実母にまた、「お前は一体何をやっているのだ」。
鬼母は幼稚園年代に、一人っ子の晴馬を塾代わりに近所の子供劇団(土浦市)に預けた。ところがみるみる晴馬は成長。小学生年代になると、月謝もいらないから。鬼母はその頃離婚して困窮していた。月謝も払えない。水商売始めて、知り合った男と再婚しそうになる。子供のことなどはかまっていられない。
劇団の加藤女史は晴馬に惚れ込んで、家に帰ってもつまらないという彼を、じゃ私の家に泊まりに来ないと、何度も誘う。言い換えれば加藤は晴馬の育ての母になった。
高校に進学するころになると、劇団を卒業して東京のアミューズに所属変更。彼にとっても、都合のいい家出もできた。
それ以降はあっという間にスターダムに登り詰めて知られるとおり。ところが2年前に、コロナ禍で何を勘違いしたのか自害する。スキャンダルはここからスタートした。理由は未だに不明で、ノイローゼか障害か。
取りざたされたのは、鬼母が借金の申し入れを頻繁に息子にして、そこから縁切りしたいために、携帯の番号さえ変えて、母親を遠ざけたという寸前の過去が、間もなく発覚していた。輪をかけて、独身で通した彼にとっては、相続人とは、その嫌な鬼母へ自動的に決まっていたことも、スキャンダルに輪をかけた。
事故後には、棺をほんの数人には焼香させたとはいうが、先の加藤女史ももちろん立ち会ったが、泣きっぱなしで、きれいな顔の彼が棺の中に動かずにいるだけで、錯乱状態になった。まもなく事務的に葬式火葬が行われ、遺骨は相続の鬼母が一人で保管するようになった。 
この2年間、せめてどこかに墓を作って、ファンへの慰めくらいは相続人としてやってくれの嘆願はいくらでもあったのだが、適度に遅れていた。鬼は再婚も破綻して、都合よく一人で息子の全財産を相続した。
むしろ、生前は実父との交流の方が多かったという証言もまた出た。結婚当初は夫婦で飲食をやっていて、大型犬を飼い、晴馬と両親と犬の4ショット写真も出回って、景気のいい時代も過ごしたようだったが、離婚後は大病して、生活保護になった。息子の事故に意気消沈していた。ただ晴馬は明らかに顔立ちも、身長も父親似であった。悲しいのは、その実父と、鬼母の生活格差が不条理だった。父は三回忌を前に、ひっそり亡くなっていた。
その発表されたその納骨堂というのは、あれはいったい墓なのかと懐疑する。周囲を圧倒する大伽藍の地下に、2000個ものコインが並んでいるのかと思うと、ちょっと異様だ。サイズもほんの小さくて、骨壺一体を入れるとそれでいっぱい。そこに墓石はなく、位牌はあるかどうか。焼香も不能で、300万円でこれを購入。後は入れっぱなし。自宅保管と何が違う。そう、子供がいない老夫婦の爺さんが死んだときに、婆さんがこれを利用して、自分も死んだらそこに入れてくれの契約をし(その時には骨壺から出して、二人分を入れる)ようだが、33年後にはそこから合同墓に移して、コインはまた別の客が購入する。
世間にはそういう需要が多くなった。地べたの墓などは、他人に見られるし、プライバシーの介入だと、そういう左巻きの連中からも支持がある。
以降は生き方の問題になるのだが、墓とは、せめて芸能人ならば、その墓前に進み出て、花を飾って焼香し、お祈りして、それが残された人のせめて慰安であり、故人への追悼になる。それに賛同しなかったのが鬼である。納骨堂とは本来後の墓参りは必要としないから、これがない。仮に特定個人(つまりその鬼)が墓参りの気持ちになったのならば、予約して、その個人のみが、ロッカー街に入り込んで、該当物件の前まで歩み出ることは可能だとはいうが、開けてもそこに刻まれた石はないし、味もそっけもない壺が目に入るだけで、それが墓参りと言うが、大いに違和感がある。
いや問題は、ファンという熱列な第三者がそこに行きたくても、あの化け物屋敷のような大伽藍の本堂に歩み出て、そこで焼香してくださいというだけじゃ、正月に浅草寺で賽銭投げて手を合わせるのと何が違うのだ。故人はこの中の堂に入っていますといわれても、疑えばその証拠はどこだ。ブツを見ることは出ないわけで。ならば海外にファンがいたとしたら、羽田成田に着いて、そこで焼香してください。「故人はこの国のどこかに納骨されています」で、これが理屈足りえるわけがない。
鬼にとっては、晴馬の事故でさえ、プライバシーなのであるから、それ以降は一切を極秘にしたい。そうしたいなら、「相続した金品全部返せ」と言いがかりしてやりたい。ただの下品なご都合主義という、女鬼がその正体、いや彼の生みの母というだけの特権。
これじゃ、疑惑を上塗りさせただけで、三回忌を過ぎても何の解決にもなっていないと、落胆する。本人が自害したその一瞬で、すべては消えてしまったと解釈する。
ただ問題は、こんな鬼の後始末が正しかったとか、ましてや個人の自由だからと、認知されてしまうことがあったとしたら、それは間違いだ。だからこの項を筆記するわけになったのだ。
大竹しのぶとは、大いなる出しゃばり女優なのは知られているが、これがまたこの数日に、かつて共演したその晴馬とおそろいのドレスを当時作ったとかで、それを娘のいまるが、クローゼットから見つけて、彼女が着て、母の思い出のドレスを「娘も着た」と涙してブログにupするという、こざかしい自己顕示欲をみせた。実に憤りを感じるのだが、この大竹というのは、勘九郎が死んでも、高倉健でも、もちろん晴馬でも、誰の訃報があっても自身がそれに飛び出して、何かいちゃもん付けてブログにupする。なぜか生前にそれと共演が必ずあるわけで、自分の過去暦の二次使用にたけた女に腹が立つ。
ちょっと離れるが、その大竹の初婚とは、「服部しのぶ」とうい名の時代に、二千翔君を出産して、間もなく亭主のTBSの大いなる遊び人の「服部晴治」はガンで亡くなる。服部は生家の次男坊でその墓は、大竹が物故後に川崎市内で用意した。大きな墓を。いやまさか、ただのテレビ局のサラマンの墓なのに、その大振り加減は、後に自分もそこに入っていく覚悟は、多分なかったのだが、女優の見栄だった。まさか中村晃子がそこに駆け付けるはずはなく、今でもそこに燦然とデザイナーズ墓石でオシャレ様相だろうと思う。
その一過性の理由とは、数年後に彼女は杉本姓になった、さんまと再婚した。それも後に破綻して、最後は大竹姓に戻った。ということは今になると、その服部の墓というのは、継承はどうなるのか。二千翔という名は、キラキラネームの走りとは言われるが、彼女の長男で、出生時は「服部二千翔」。大竹姓に戻ったとしても、彼自身の固有のものだと今でも思う。母のしのぶは、もう服部家とは離れたが、二千翔はそれではない。女優の子として慶応大卒とは、大いにインテリの様相したが、今ではデブになって、母のマネジャーとは、予測とは違ってしまったが、しかし独身であり円満なのだ。いや墓の話なのだから、継承はその二千翔になっている。
とは別に、数年前に99歳で大往生したしのぶの母のエステルなど本家は、その墓の建立は、これもしのぶであって、最初の故人は教師だった父親だった。実の両親は貧しく、しのぶも貧しく育ったが、墓を末娘のしのぶが建てたのだから、いくら売れっ子女優で、稼ぎは多かったとしても、その顛末は如才なくしっかり女だった。これじゃ服部も、さんまも、尻に敷かれただろうと、御寮人とも結婚して気づいて「失敗した」のが、破綻の理由数々だっただろうとは、容易に想像がつく。しかし先の鬼に比べれば、大した女だ。
そうなのだ、あの尾崎豊の鬼嫁でさえ、所沢にブランド墓を建てた。高倉健の鬼養女であっても、鎌倉に建立している。ともにモニュメントであっても立派だ。死後に乗っ取られたといわれる青江三奈でさえ、鎌倉の鈴木家の墓の中に明記がある。ああ尾崎紀世彦もその辺りだったか。死後というのは、そういうものだ。継承されるものがあり、ファンが追悼するものがあり。
に比べて、鬼は、金輪際納骨一切もプライバシーですという理由で、墓参りも無視し、参列も拒否し、死人が公開されないというのは、一般に仏教経典に違反するわけで、それをプライバシーを理由に押し通す。そしてゼニだけは全額受け取った。ああ鬼というのは、どこまでも始末が悪かった。
いや理想をいうなら、売れっ子役者が30歳過ぎまで一人モノだったことが、ことを荒立てた。一人前になったら、15歳であっても、さっさと結婚して、子供ができて、いつ討たれ死に、暗殺されても、一人前に供養継承できていますよの、大人の対応が必要で、それが一人前の証となる。それが時代とともに廃れて、鬼程度の分際に法的処理されることに、実は大半が気づいていないことが問題の発端だったか。割り切れなさは付きまとう。
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総理大臣とあろうものが、ゲリラ豪雨のように駅前で通勤買い物客相手に、演説ぶるなんて古い方法で選挙はやめてくれ

2022-07-08 17:44:40 | ブツブツ日記

どぶ板政治とはいうが、角栄でさえ、握手の数しか票は伸びないというなら、無防備で長靴履いて田んぼに入り込んで握手して一票、その程度がどぶ板の実態で。朝9時は、週末は寝ているのに、スピーカー住宅地でがなり立てて、乞食同然で「一票ください」の港区白金もスラムと同じかという公職選挙がまかり通って、ふざけても「撃ち殺してやりたい」くらい不愉快に思ったことはいくらでも。ウクライナが砲撃されているのに、無関心とは島国部落のことで、ロシアはこの程度のことは平気でやっているよ。
スラム選挙もいい加減にどうにかしてくれ。要人というなら、せめて区民会館に人集めて演説するとか。駅前で、駅の歩道でやりたいなら「政治家らしく撃たれて死んだ。俺はケネディか」くらいは言ってくれ。やっていることが、田んぼの農民相手に、騒音スピーカーか、どぶ板なのか、もう時代は変わっているよ。
ところで、今は投票の個人確認しなくなっていて、怪しい団体は、身代わり投票しているって、もっぱらの噂なのですが。投票率低い自公が、こうしているらしいとね。前は「生年月日は」くらいは聞いたが、今は聞かないよ。
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田口義豁大恩師への壮大な追悼

2022-06-24 16:33:14 | ブツブツ日記

4年前ほど前に田口先にお会いした時に、つい直前に定年退職したような、老いたが満願の笑みを感じたことが、突然に教え子の一人が、クラス会を伝えるために面会したのに「ああ、中にお入り下さいよ」と歓迎してもらったこと。あの時はそれだけでほっとしたものだった。しかも当時の3年間は、授業中には英語だけしか話すことができない縛りを、中学生に敷いて、受けていたこちらはその緊張感をずっと保っていたのに、50年後のその日は、縁台で日向ぼっこするような老いた先生に「どんな、御用時でしたか」と日本語で話しかけられたときに、どういう英語で答えたらいいのかえーっと、えーっとと戸惑いながらも、ああ今日は普通の人のように日本語を話して大丈夫なはずだという、緊張感が瞬時に解けたことに、ほっとするやら、違和感があるやらで、しかし大人になった自分、いやすでに定年退職もした教え子になるわけですが、その父親のような恩師と、ため口みたいに話しだせたことに、大先生と普通に話せる時期がきたと、そこに健在で、当時と変わらずも話ができているその再会が、とても嬉しく思ったわけでした。
とこころで、田口先のあのスピーキング力はどこでどうしてと、それをしっかり聞いたわけではないのですが、やはり続基礎英語の安田一郎をいう大先生は、進駐軍の時代には埼玉県職員として駐留米軍との間で戦後物資の片づけをした数年間があり、退職後は埼玉大学の英語科で教授職をした数年間があり、(その間に、同大の英語科中学教育課程では、あの特殊な指導法を確立したようなのだが)、その後わが付属中学の教師であり(その昭和31年頃に、田口先が同大学の教育学部の英語科教師として5週間の教育実習を行ったときに、面会して、その短期間でさらにあの指導方法をマスターしたというのだが)、田口先は、地元の羽生中学で7年間の教職を行った後に、30歳で付属に赴任し、ここで2期、7年間の教職をする頃には、大先生はすでになく、続基礎英語の教師として、ラジオの中に存在するようになったと。そして37歳のときに教職そのものも離れたのが、田口先のすべての教職生活、これだけしかないのだ、37歳だったから。長男は30歳のときに生まれ、次男が続き、こんな子供を残してまさか亡くなるのかと、それは先生の実父のその頃にやはり疾患で亡くなっていたらしいようで、あの女性に惚れっぽいというか、女性になつっこいような感じは、父親不在の中で育ったからなのかと、少し思ったくらいで。
私たちは異様にスピーキングの発音記号のことを、スペリング以上に神経質に習った記憶が強いのだが、どうやらそれは埼大の英語科のあの中学教育課程の安田ファミリー特有のことだったようで、田口先生もその頃になって、埼玉の羽生中学とか熊谷高校のどうせカタカナ英語のへぼ野郎と揶揄される一人だったはずなのに、それではいけないと、3歳児が母国語習うように大学年代で履修し直して、あれを獲得したのだろうと思うわけなのだ。たしかにその英語科中学教育課程は、他の英語科の中でもやはり異端的で、そんな指導法がいいわけないと、そこでも言われた中で特殊だったらしい。今でもそこには残っているだろうか、いやそうでもないかもしれない。
そしてその根底というのは、在日米軍や将校時代の日本占領時代は、実は米軍にとっても大成功した戦後処理の数年間だったと安田は感じ、それを田口先にも伝え、だからファミリーはこれを実践したようだった。彼らはミシガン大学のメソッドによって、ミシガン海兵隊は、およそ日本語の30センテンスくらいを、「あげるよ」「こんにちは」「元気かな」「こわくないよ」「大好きだよ」などを同じように事前に学んできて、そこにだからこそ言われるように「ギブミー・チョコレート」という英語もまた日本の子供たちは教えられて真似たということだったらしい。安田は日本人の英語習得しかも中学年代が学ぶのはこれなのだと、それは現地の「ミシガン・メソッド」を日本流のアレンジして、そこで実践して、その効果によって、ついに短期間に続基礎英語まで確立してしまったという、理屈があったらしい。戦後英語教育の革命児だったわけだ。あんなことは普通中学生には無理とされていたが、学ぶのはその年代とされ、普通は神田外語学院に行く年代にようやく同じことやらせていたのかもしれないが、それよりも6年早くそのカリキュラムをやらせ、しかも真似てしゃべるだけならば、実は中学生の方が適していたのかもしれないとも思ったりする。すごい経験をさせられたものだ。
過去分詞の継続の受け身とすごい屁理屈言う間に、「財布が盗まれた」はwas stolen. 時計が壊れたは was broken.どうせこの二つしかないから、100回リピートして覚えろとは、何でもないことなのだが、やはりすごいことしていた。
もう一つ田口先は実は高所恐怖症らしく、飛行機に乗ったのは人生たった一度しかないと聞いたのは、その日ビックリしたことの一つで。それは昭和40年の冬に、羽田~札幌だけで、どうせプロペラ機の時代だったのだろう。それが新婚旅行に片道のこと。たしか田口先の結婚は「大恋愛だったのよ」と、当時ませていた古野さんに聞かされての記憶と思うが、PTAの母親たちに若い田口先がからかわれて、ついその当時のことを喋ったことの、受け売りの発言だろうと思い返すが、その旅行の詳細にしても、札幌から列車で冬の北海道すべてを回り、帰りこそはもう飛行機はまっぴらだと青函連絡から太平洋側を列車旅行を楽しんで、ついに自分のスキー欲求(あの人は、大学年代から30歳までスキーきちがいだった)に耐えられずに、蔵王で下車して、スキー楽しんで、それが旅行の最後だったような話を。その旅費その他は、もしかして奥様の方からの援助でもあったのだろうの、想像がつく。「公務員の安月給で羽生から浦和の通勤に中古車買ってさあ」は、当時乗っていたあれはマツダのファミリアだったかの記憶が私にはあるが。
ということは、あの人は一度もアメリカ本土、いやハワイすら行ったこともなく、しかし英語研究室には時として外人教師が視察として授業参観きて、その後田口先とそこで和やかに話し、その後姿を遠目に見て、聞こえてくる英語のやり取りも、なのにそういうことだったかと、妙に違和感のまま理解した。私たちの授業や生徒の習得成果は、県内ではもちろん比較するところがなく、「配られた問題は見ずに、とりあえずリッスン」といわれると、用紙を裏返して聞き入っている中学生など「他の中学では絶対にありえない」と、参観教師は驚愕していたと、田口先は誇らしげに懐かしんでいだのだが。(そうだ、当たり前にやっていたなあ)。
最後に私個人的には、先生のスキー歴とは、大学~30歳までの10年間で、毎年20回で200回ほどの履歴らしかった。それでもこれもたまたまなのだが、私はのちに山岳部から、このほとんど同じことを今でも継続していたわけで、あの田口先と似たような趣味もって、その同調できた話もたくさんあったのだが。
志賀高原とか万座辺りによく通っていて、いや土樽の最奥の髭の親父のスキー場も知ってたとは、これは相当なマニアックだと私にもわかった。乗鞍で登った後に仲間と降りてきたときに根っこ踏み抜いて大転倒したとか。田口先もついに還暦過ぎ半ば、今の私たち年代くらいまでゲレンデには通っていたそうで、最後は群馬片品の日光白根の丸沼高原で、そこで転倒したときに、「大けがする前に辞めよう」と。なんだかまったく同じ時期に差し掛かって、自分はどうしたらと思った。
そういうスキー仲間とも、半ば以降の50年間にはいくらかの交流もあったのかなあと。若き退職後の数年間は安静にした成果か、運よく快方に向かって、するといくらでも教職の要望やらお願いやらもやってきたようだが、正式の教員はすべて辞退して、地元で塾を少しやっていた程度とは悔しい。あの付属退職前後とは、実は中三の3学期の受験期には、担任は誰もが教え子集大成の時期で必死だったのだが、担任外だった田口先は、(いや1年のときにはD組を担任していたのだが、中2から持病でこれを辞めた)いきさつで、矢部先がこの時から担任を持つようになったと記憶するのだが。なのに最後にも学校に来ていない。英語科教師のセミナーのようなものが、お茶の水辺りで長期開催されて、これにもちろん校長の許可の中で参加して、ステップアップしていたのは、知られていたらしいが。その挙句にいきなり退職。「議員にでもなるのか」というのが、もっぱらの噂だったらしい。ために、浦和地区にさえ戻ることもできずに、大半の時代を過ごしたらしい。
帰り際にメールのアドレス交換して、空メールといいながら通じなくて、どれどれと見たら「ちょっと違うよ」とパソコンに移動して入れ直したのには、ああLとRか、なんて、涙が出てきちゃうよ。
そうだよ、せめて海援隊の坂本龍馬はわずかに30代で殺害されてしまったが、もしかしてと、司馬遼太郎は「竜馬がゆく」を描いて、それは大作になり、大河にもなったが、しかしいくら何でも、坂本が西郷や大久保たちと同年代ではあったとしても、まさか生きながらえても、幕末や維新は変わらなかっただろうの想定の中で、竜馬がいたからこそ、西郷も大久保も、いや勝海舟も、明治の元勲たちも時代をスムーズに展開できたというのは、壮大なフィクションではあったが、しかし決してデタラメではなかったのだ。
今になって思うが、田口先も、坂本と同じように三十代半ばで志を閉ざされたが、その短期間だけでも、こうして実際を知っている私たちでさえ、その後の大きな予測くらいはできるとしたら、竜馬がゆくと同じ壮大なフィクションを私たちが追悼として思い描いても、それは決してデタラメではないと思えてくるのだ。ただ結果は、半世紀前より後退しているし、失われた30年も情けないほどだ。すごい経験をさせてもらった――と思わずにはいられない。
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髭の殿下三笠宮寛仁のベランメエ人生

2022-06-07 17:26:49 | ブツブツ日記

宮様スキーという北海道のイベントは、山の神様といわれた秩父宮主催のスキー大会のことだ。秩父宮を尊敬していたのは、大倉財閥創始者の喜八郎で、ホテルオークラの主でもある。その息子の喜七郎なども、秩父宮のスポンサー筋でもあって、大倉山ジャンプ台の資金提供して、そこに名を遺す。
秩父宮亡き後の、札幌五輪の頃には、このイベントを三笠宮が継ぐことになった。殿下は金太郎体形だがやんちゃ、ベランメエでスポーツ大好きで、70年代後半頃からは、冬の美瑛で歩くスキー、スキーマラソン42キロなどの大会イベントを主催して、本人も出場するという元気殿下でもあった。その前夜祭などでのこと。英国式のニッカーボッカースタイルだった。
お前らはさあ、俺のこと「殿下」って呼ぶしかないんだよ。いくらため口きいてもいいけど、呼称はちゃんと守ってくれよなあ、それは国の命令だからなあ、仕方ねえよ。
まあ俺なども、この大会なんかは、楽しみの一つでさあ、嫌だったら、こんなことしてないしさあ。札幌辺りの大会は、選手だけの大会で、こっちは市民レースだから、ホントはこっちの方が好きでなあ。こうして酒飲みながら話できるだろう。君らもこうして、気楽に話しかけれくれるしさあ。まあ42キロ走るっていっても、下りばっかりだから、楽なもんだよ、分かるだろ。それに君たちは、大会終わってさっさと帰るけど、俺はスケジュール空いてて、のんびりしながら戻るだけで、まあ皇室ってのは、そういうのが商売だから、従っているってわけでね。また毎年会おうよなあ、楽しみにしてるぜ。
って、今思い出せば麻生太郎のようだけど、楽しい人だった。宮内庁のあれだけの看護体制しても、ガンには勝てなかった。その後冬の美瑛いって、白金温泉に泊まるのも、この大会がきっかけになっているね。
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どうしても気になる堀江謙一のヨット冒険のインチキ性

2022-06-07 11:04:38 | ブツブツ日記

 今回の日本帰着もそうだった。沖の紀伊水道が彼の設定ゴールで、そこに来ると迎えの仲間や船がいて、後はけん引されて西宮港に入る。それが堀江のヨットの冒険とやらで、自力で港までほとんど戻らないのだ。それにケチをつけたのが、20年も前の東京新聞のコラム氏連載で名前は忘れたが言い得て妙なのだ。それはつまり、エベレストに登るといい、サウスコル辺りまでいって「登頂成功」というやつで、「目的地まで到達していないだろう」ということになる。今回の堀江もサンフランから出て、紀伊水道がゴールでは、最後の頂上に到達していないというのだ。
どうも日本近海は潮の流れが速くて、そこをうまく横切って、港に入るまでがヨットマンの航海、技術、仕事なのに、その最後をいつも省略するのだ。適当なのだ。頂上付近まで出れば、それで「登頂」という安易性が彼にある。あんなもので「太平洋横断」とはいうなというのが、そのコラム氏の主張で、今でも、……だよなあと思う。
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客席増やしただけの雨の国立競技場でブラジルとスリップ合戦のつまらん試合

2022-06-07 08:51:10 | ブツブツ日記

 野球見ただけでも、つゆ、長雨、秋雨でどこまでも雨国のニッポンなのだから、いい加減に3分で開閉式の競技場くらい、世界最先端で作れるはずなのに、まったく実現しないのはどうしてかと、ずっと悩ましい。
昨年の東京五輪の失敗した利権で、競技場を延々と再構築していたが、出来上がったものは、木造建築風の奇妙なもので、客席を1・5倍して6万人まで入れるものになったが、雨が降れば選手がずぶぬれで試合して、客は涼しい顔して雨避けできて、これって逆とはいわないが、どうにも違和感でこれが最新鋭の競技場だとは、ちょっと笑える。そこでブラジル相手に負けて、それの何がいいのか。
エンジェルスのカリフォルニアなどは、年間100ミリ程度で、ひと月に一日くらいしか雨が降らんのに、日本はその15倍くらい雨が降る。今でも泥んこサッカーやらせたいのかと、大笑い。
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エリザベス女王の人生などは、宝くじに当たったようなもの。おじさんウィンザー公の国王離脱で、彼女がラッキー人生。

2022-06-03 00:47:29 | ブツブツ日記
 エリザベス女王などは、普通は誕生しなかったとは、もう誰も言わなくなった。だがしかし。ウィンザー公という(エドワード8世)人は、エリザベスのおじさんで、そのおじさんが1936年に国王を継いだが、なんとビックリわずか11ヶ月で、それを投げ捨ててしまったのである。理由は不倫。ああつい先日のヘンリーも同じだった。眞子もそうだ。不倫は王位も皇位も投げ捨てる。ために、突然に王位継承になったのが、エリザベスの父親のジョージ6世だった。ウィンザー(エドワード)の弟だ。それが死んだのが1953年。このときに長女だったエリザベスが女王に即位。幸運婆さんだ。日本でいえば、愛子が長女。日英同盟のころから、日本の模範はイギリスで、ならば愛子が次の天皇だと誰もが思うはずだが、それが違う。まあいい。ついでに、眞子の歓迎されない結婚などは、彼に比べれば屁でもない。皇室ももっと自由に。

(以下はウィキのダイジェストなど)
エドワードは、1894年、日清戦争の頃の生まれで、13歳頃まで自宅で家庭教師によって厳格な教育を施された。海軍軍人となるべく教育を受ける。
1910年に祖父のエドワード7世が死去したことに伴い、翌年17歳でプリンスに。悠仁のようだ。これと前後して第一次世界大戦が勃発し、時代の影響を受けることに。
第一次大戦後は、海外領土や植民地訪問した。その一方で世界各国を歴訪し、訪問先では度々絶大な歓迎を受ける。1922年(大正11年)来日した。
多趣味であり、刺繍やキツネ狩り、乗馬、バグパイプの演奏、ゴルフ、ガーデニングなど。ヨーロッパでも屈指のプレイボーイとしても有名で、14年間愛人関係にあった下院議員夫人ほか、貴族令嬢から芸能人まで交際相手は幅広かった。
そんな中、アメリカ人既婚者女性ウォリス・シンプソンとの交際が1931年頃から始まる。母親からの愛情に恵まれないまま育ったことからマザコン系。
1936年1月父親のジョージ5世の崩御後、独身のまま42歳で「エドワード8世」として王位を継承した。問題は、その不倫愛を実現するために、ウィンストン・チャーチルと相談しながら、「私は愛する女性と結婚する固い決意でいる」という真意を国民に直接訴えよと。しかしボールドウィン首相は「政府の助言なしにわがまま不倫は撤回」と、立憲君主制への重大違反となる。国王の不倫問題は、政局に動揺を与える。
ごたごたの中で、彼の退位は、ドイツへの宣戦布告をも上回る衝撃が走ったといわれている。ロンドンの街は大混乱に陥った。いや英王室の退位混乱は、実は日常茶飯事だったのかも。
在位は11ヶ月程度で、「王冠を捨てた」または「王冠を賭けた恋」とも言う。
退位後は、弟のヨーク公が「ジョージ6世」として即位した。彼の長女がエリザベスだ。エドワードはオーストリアへ隠遁。イギリス政府には従わず、ロスチャイルド家によって準備された、古城で生活。その後はフランスへ渡り、翌1937年に「ウィンザー公」の称号を与えられた。5月4日にウォリスと約半年ぶりに再会し、正式に結婚。彼女はすでに離婚していた。眞子は小室と3年ぶりに再会し結婚。その間古城ではなくて、六本木のホテルに滞在。
 以後、彼は王室とは疎遠になり、特に弟ジョージ6世の妻エリザベス王妃とは完全な絶縁状態となった。ジョージ6世が「許可を得ずに帰国するな」という。対してドイツも助っ人になった。イギリス政府の忠告に反してアドルフ・ヒトラーの招待を受けてドイツを訪問し、ドイツによる国賓扱いや国民の歓迎を受けた。戦局はドイツのオーストリア併合やチェコスロバキア併合と、ドイツによる覇権拡大政策。英独関係が悪化したが、英国のチェンバレン政権はドイツへの宥和政策も、ウィンザー公夫妻による度を越したドイツへの肩入れも理由だったようだ。これによって、イギリス王室と政府は、強い反発を受けた。
1939年ドイツがポーランドへの侵攻を開始したことを受けて、英仏はドイツに宣戦布告。同時に夫妻は滞在先のフランスから海軍駆逐艦「ケリー」で帰国させられた。政府の都合に右往左往する。しかしウィンザー公夫妻は拒否しフランスに戻った。しかし、1940年5月のドイツのフランス国内への進軍に伴い、夫妻はスペインに滞在し、ポルトガルのリスボンへ。
リスボン滞在中の1940年7月に、ヒトラーがイギリス本土での全面戦争も辞さない緊張関係が走り、ヨーロッパの戦場から遠く離れたバハマ、アメリカフロリダ近くへ送られた。
1941年4月に夫人と共に、フロリダにいたときには、沖合でドイツ海軍のUボートが活動していたときは、ルーズベルト大統領の指令で、FBIの監視下。そのまま1945年8月の第二次世界大戦終了までアメリカでバカンスを過ごした。
第二次世界大戦後はフランスに戻り、パリ市から提供された住宅に住む悠々自適な生活。世界中の歓楽地を回るだけのつまらない生活になった。夫妻でアイゼンハワー大統領を訪問したり、好き勝手で贅沢な活動を続けていた。
1953年6月2日に行われた姪のエリザベス2世の戴冠式とは、現在彼女の在位70年祝賀の根拠なのだが、これには出席せず、パリの自宅でテレビ中継を観るだけに留まった。
晩年は、1972年にフランスで逝去。すると遺体はイギリスに帰り、葬儀。もはや政府のご都合主義に支配される。妻は1986年に亡くなり、子供はいなかった。
ああ嘲り笑う英王室のお遊び。そう王室も皇室もこの程度の再確認。
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