何もしなければいいのに、つまらない助平根性発揮すると赤字になるといういい例がこれだ。東京ドームが971億円の赤字だと出ている。ドームとホテルだけでこれだけの赤字を作るとは、誰かが500億円くらい持ち逃げしたのかと思うほどだ。
東京ドームも福岡ドームも、建設費は500億円くらいだった。ああいうものは、普通は永久に赤字である。建設費は回収できないわけだ。つまり通常は国立競技場もそうだが、役所がポケットマネーでそれを作って、後の運営くらいはトントンでやってくれというものになる。ソフトバンクの福岡などは、絶対そうだと言い切れる。つまりそれ以下の競技場、野球場はすべてそのとおり。横浜サッカー、調布の味スタ全部そうです。ところが東京ドームだけは違った。立地があまりにも良すぎる。しかも巨人戦はこの間まで満員だった。
野球観戦が一人3千円平均だとして、満員の5万人では、1億5千万円の売り上げになる。その売り上げのうち野球場の取り分というのは、1割から2割。1500万円から三千万である。巨人戦は年間に140試合あって、ホームゲームはその半分で70試合足らず。3千万円だとしても、21億円にしかならない。これでは500億円の建設費は、その利息程度しか埋まらないというものだ。500億の4%は20億円。利息とはそんなものだ。ところが野球以外の日にもドームではイベントができる。コンサート、展示会。就職相談会なんてのもある。それが野球と同程度あれば、倍の40億円。3倍なら60億円。しかし野球と同じくらい儲けるというのも難しいはずであるが。
ところがドームは成績優秀につき、もう20年前くらいに建設されたのであろうが、建設直後の7,8年で、すでに500億円の償却は終わって、あとはウハウハ儲かるだけの状況になっていた。こんなことができるのは世界中で東京だけかもしれない。福岡では絶対に無理だ。福岡ドームは当初は、ダイエー中内のポケットマネーで建設したよ、返済はいらないといいこと言っていたが倒産同然でソフトバンクに買い上げられた。
そのドームが今年は900億円の赤字というのだから驚く。その一つというのが、関越道を石打で降りたところにある、舞子後楽園スキー場という田舎スキー場の経営らしい。かつてスキー場が儲かったという話はあるのだろうか。タダで雪が降ってリフトかけているだけで赤字というのは、物凄い体たらくだと思えるのだが。
ドームの赤字などは、何もしなければ、野球だけならそれで御の字というのに、余計なことして大赤字くらうまあ見本みたいなものです。それともテレビ朝日の5億円横領社員みたいのがいたのでしょうか。
葬式がつまらなくなった。葬式がつまらないものだと相場が決まっているなら行きたくない。つまらなくしたのは昨今商売繁盛の葬式屋だ。昔の葬式は面白かった。
故人というのは、大往生ならば思い出話があり、若くして亡くなったら病気はどうだったのかという話になる。しかし最近のゆとり教育の連中は、形式だけは国歌斉唱が重要に思うように、建前主義が一段と進んでいる。中味が伴わないのは私たちの年代以上にひどい。葬式は遺族が「あいつは来た、あいつは来なかった」と思われるのが嫌でいくだけになっている。
通夜も葬式も、清めの酒を飲む場がある。しかし会葬者内輪で飲むだけで、知り合いがいなければ「3分で帰れ」ということになる。そんなことで亡くなった人が喜ぶと思ったら大間違い。
喪主は、前のほうで参列するだけじゃなくて、さっさと参列者を接待しなくてはならない。喪主が涙に明け暮れているというのはウソだ。どうせ喪主は「葬式はABCのどれにしますか」というボッタクリ葬式屋とすでに打ち合せしていて、泣いている暇などない。私も家族を亡くしたことがあって、事実泣いている暇などなかった。だから、くだらん坊主の経など聞かずに、参列者を接待するべきだ。そして参列者の愚痴を聞くことが、亡くなった人への喪主の責任である。それがなされていない。
結婚式も、新郎新婦がひな壇にいるだけで、客は2時間見るだけでおしまいという下らん挙式は流行らなくなった。手作り挙式というのは新郎新婦も客を楽しく歓談する。同じことだ。
そもそも葬式は喪主は参列者に頭を下げる必要がないというのが本来である。召されるものの介添えで、来る客は勝手に来るというのが寺の教えである。坊主に布施を渡すにしても「ご苦労」と坊主は言うことになっているが、「有難う」と昨今は言う。馴染まないわけだ。頭を下げないというのは。喪主は片隅で頭を下げている。しかしそれだけじゃ、あまりにもつまらない。客は喪主に声を掛けたい。100歳で死んだなら、「生前は怒られました」でもいい。「妖怪だった」でもいい。そういう場が葬式にも通夜にもない。それはどんどん形骸化しているだけだ。
偶像崇拝はいけないというのがキリスト教始め主流の宗教の教えである。死んで焼かれるその寸前がいいとか、事故で死んだその現場がいいというのは同じく少女趣味である。どうであれ、亡くなったものは天に召されるとすれば、各自の心の中でそれを弔う。せめて焼かれる前日であれば、そこに言葉をかけたいのだが、その相手が参列前列で黙っていたのでは、これは何もできない。どうせ昨日まで会っていた人が亡くなる場合はそう多くない。半年、1年、5年前に会ったきりの人が死ぬ。身内同士は親族でいちゃいちゃ泣きあえるが、友人は「3分で帰れ」とは、遠くの身内よりも近くの友人を大切にしていない。どうせ本来「死人に口なし」と日本人は他人が死ぬのを喜ぶ。形骸化するのは面白くない。喪主は、友人の愚痴、恨み、小言、借金、全部引き受けてくれ。それが喪主の責任である。
東京ドームも福岡ドームも、建設費は500億円くらいだった。ああいうものは、普通は永久に赤字である。建設費は回収できないわけだ。つまり通常は国立競技場もそうだが、役所がポケットマネーでそれを作って、後の運営くらいはトントンでやってくれというものになる。ソフトバンクの福岡などは、絶対そうだと言い切れる。つまりそれ以下の競技場、野球場はすべてそのとおり。横浜サッカー、調布の味スタ全部そうです。ところが東京ドームだけは違った。立地があまりにも良すぎる。しかも巨人戦はこの間まで満員だった。
野球観戦が一人3千円平均だとして、満員の5万人では、1億5千万円の売り上げになる。その売り上げのうち野球場の取り分というのは、1割から2割。1500万円から三千万である。巨人戦は年間に140試合あって、ホームゲームはその半分で70試合足らず。3千万円だとしても、21億円にしかならない。これでは500億円の建設費は、その利息程度しか埋まらないというものだ。500億の4%は20億円。利息とはそんなものだ。ところが野球以外の日にもドームではイベントができる。コンサート、展示会。就職相談会なんてのもある。それが野球と同程度あれば、倍の40億円。3倍なら60億円。しかし野球と同じくらい儲けるというのも難しいはずであるが。
ところがドームは成績優秀につき、もう20年前くらいに建設されたのであろうが、建設直後の7,8年で、すでに500億円の償却は終わって、あとはウハウハ儲かるだけの状況になっていた。こんなことができるのは世界中で東京だけかもしれない。福岡では絶対に無理だ。福岡ドームは当初は、ダイエー中内のポケットマネーで建設したよ、返済はいらないといいこと言っていたが倒産同然でソフトバンクに買い上げられた。
そのドームが今年は900億円の赤字というのだから驚く。その一つというのが、関越道を石打で降りたところにある、舞子後楽園スキー場という田舎スキー場の経営らしい。かつてスキー場が儲かったという話はあるのだろうか。タダで雪が降ってリフトかけているだけで赤字というのは、物凄い体たらくだと思えるのだが。
ドームの赤字などは、何もしなければ、野球だけならそれで御の字というのに、余計なことして大赤字くらうまあ見本みたいなものです。それともテレビ朝日の5億円横領社員みたいのがいたのでしょうか。
葬式がつまらなくなった。葬式がつまらないものだと相場が決まっているなら行きたくない。つまらなくしたのは昨今商売繁盛の葬式屋だ。昔の葬式は面白かった。
故人というのは、大往生ならば思い出話があり、若くして亡くなったら病気はどうだったのかという話になる。しかし最近のゆとり教育の連中は、形式だけは国歌斉唱が重要に思うように、建前主義が一段と進んでいる。中味が伴わないのは私たちの年代以上にひどい。葬式は遺族が「あいつは来た、あいつは来なかった」と思われるのが嫌でいくだけになっている。
通夜も葬式も、清めの酒を飲む場がある。しかし会葬者内輪で飲むだけで、知り合いがいなければ「3分で帰れ」ということになる。そんなことで亡くなった人が喜ぶと思ったら大間違い。
喪主は、前のほうで参列するだけじゃなくて、さっさと参列者を接待しなくてはならない。喪主が涙に明け暮れているというのはウソだ。どうせ喪主は「葬式はABCのどれにしますか」というボッタクリ葬式屋とすでに打ち合せしていて、泣いている暇などない。私も家族を亡くしたことがあって、事実泣いている暇などなかった。だから、くだらん坊主の経など聞かずに、参列者を接待するべきだ。そして参列者の愚痴を聞くことが、亡くなった人への喪主の責任である。それがなされていない。
結婚式も、新郎新婦がひな壇にいるだけで、客は2時間見るだけでおしまいという下らん挙式は流行らなくなった。手作り挙式というのは新郎新婦も客を楽しく歓談する。同じことだ。
そもそも葬式は喪主は参列者に頭を下げる必要がないというのが本来である。召されるものの介添えで、来る客は勝手に来るというのが寺の教えである。坊主に布施を渡すにしても「ご苦労」と坊主は言うことになっているが、「有難う」と昨今は言う。馴染まないわけだ。頭を下げないというのは。喪主は片隅で頭を下げている。しかしそれだけじゃ、あまりにもつまらない。客は喪主に声を掛けたい。100歳で死んだなら、「生前は怒られました」でもいい。「妖怪だった」でもいい。そういう場が葬式にも通夜にもない。それはどんどん形骸化しているだけだ。
偶像崇拝はいけないというのがキリスト教始め主流の宗教の教えである。死んで焼かれるその寸前がいいとか、事故で死んだその現場がいいというのは同じく少女趣味である。どうであれ、亡くなったものは天に召されるとすれば、各自の心の中でそれを弔う。せめて焼かれる前日であれば、そこに言葉をかけたいのだが、その相手が参列前列で黙っていたのでは、これは何もできない。どうせ昨日まで会っていた人が亡くなる場合はそう多くない。半年、1年、5年前に会ったきりの人が死ぬ。身内同士は親族でいちゃいちゃ泣きあえるが、友人は「3分で帰れ」とは、遠くの身内よりも近くの友人を大切にしていない。どうせ本来「死人に口なし」と日本人は他人が死ぬのを喜ぶ。形骸化するのは面白くない。喪主は、友人の愚痴、恨み、小言、借金、全部引き受けてくれ。それが喪主の責任である。