あの当時、箱根駅伝のテレビ中継はなかった。ファンの関心も相当に薄かった。中継されたのは、82年からとされる。瀬古と同世代の私にしても、瀬古の記憶は、いつもマラソンで勝ってばかりいる選手。瀬古は早稲田大学1年からマラソンを走っていた。大学2年でも走っていたが、まだ勝て(優勝)なかった。瀬古がマラソンで初優勝したのは、大学3年の福岡国際。その彼は、ソウル五輪の32歳までマラソンを走るのだが、生涯のマラソン記録は、15戦して10勝(優勝)。凄まじいマラソンの成功率。しかし結論から言えば、失敗した(2位以下)5敗とは、先の大学1,2年と、ロス、ソウル五輪と、あと一つだけ。つまり福岡国際とか、後の自己記録のシカゴとか、ボストンとか、びわ湖などは、全部優勝した。今でいえば、大谷翔平か藤井聡太である。ドジャースに入って、ワールドシリーズを狙う大谷翔平に「日本シリーズで優勝する(16年)秘訣は何ですか」と聞くような愚問は、瀬古利彦に「キミの箱根駅伝の記憶は何ですか」と問うのと同じこと。だがしかし、昨今の箱根ブームの中では、早稲田の花の2区として、4年連続走った瀬古の意気込みとは何だったのかと、改めて思う。
そもそも箱根駅伝などは、マイナーな大学生の部活の記録会として、大正年代にスタートしたようだ。当時は大正デモクラシー。高校野球の甲子園も同じ頃にスタートした。共に100周年を経過した。それは、帝政ロシアが革命後にソ連になった頃で、世界の赤化(共産化)ブームとは、当時は理想社会を生み出すという、バブル時代でもあったらしい。
でもまだラジオ放送すらない時代で、どこに箱根が世間に知られようか。それが少しずつ時代に即すようになって、テレビ中継は瀬古が早大を卒業した3年後から。それでも二日に渡る長距離駅伝はマイナーであり、大東大や東洋大が活躍するようになって、青学に原監督が出現し、5区の山の神が三世代に渡って登場し、ブームになってきた。今は駒沢や青学の学校応援もさることながら、一人の学生選手の一挙手一投足まで関心が及ぶようになった。であるからの、瀬古時代の再訪になる。
瀬古の早稲田入学には、不可解さがあった。それは同年代の野球江川卓の慶応不合格から法政入学、さらに巨人入団と似たようなものだと記憶する。
当時の早稲田競争部は箱根に予選落ちするほどに成り下がっていたらしく、乞われるように受験した。あの頃は、早稲田にスポーツ推薦は公式に存在しなかったとされ、ところが瀬古に声を掛けた早稲田OBの陸連幹部と、受験処理をした大学の手違いだろう、瀬古は不合格となり、だからと言って中大からの推薦はすでに断っていた。高校時代にインターハイで優勝していた将来有望な選手が、一浪するという、人生の間違い。OBはメンツを保つために、瀬古に海外留学を指示した。それは南カリフォルニア大学であり、後に安倍晋三も留学した大学になった。ところがこの留学が瀬古の失敗で、体重が10キロ増えたというのは、知られた。
今の瀬古は、当時をこう振り返った。
「何人かの陸上選手と一緒に留学しましたが、それは名ばかりの隠れ生活で、ホームシックで泣いてばかりいたんですよ。だから練習も満足にできない、体重が増える。金髪女性に妙な関心ばかり湧いてくる。名目は語学留学でしたが、その取得はダメ。ボロボロの1年間を過ごして、翌年早稲田に入りました」
その早稲田で出会ったのが中村清監督になる。中村はベルリン五輪に出場したし、早大時代は箱根も走った。その後軍人になって、招集された。「オレは人を何人も殺した」と当時は喝破していた。「戦地から引き揚げたときに、まあうまくやったよ」とも。その中村の先見の明とは言うが、入学した瀬古をいきなりマラソン選手として育て始めた。一方瀬古自身は、明確には語らないが「この人の言うことを聞かないと、自分の人生が終わる」という自己規制を課した。それはドラフト外からレギュラーを取る姿勢に見えた。中村は「散髪は瀬古カット、外食禁止、恋愛禁止」その他、いくらでも監視した。
中村の自宅は絵画館に近い石垣の上の屋敷、今はもうないだろう。その二階に6畳一間がずらーと並んでいた。トイレは共同、風呂はなし。彼らの練習が終わった後に付いていったことがあったが、大部屋玄関のような様相で、そこに乱雑にマラソンシューズが脱ぎ捨てられ、瀬古の他に、ワキウリも、佐々木七恵も、学生下宿の生活をしていた。少しすると「キミは誰だ」と怒ったのは中村。他の選手は他人に文句を言うことすらしない。ちょっと見に来たと逃げ出したが、ああ懐かしい。
瀬古は大学4年間と、その後の5年間の9年間、従属した修行僧のような生活をそこで強いられた。その間に、先のマラソンの世界的な栄光を獲得する代わりに、一度もその従属から逃げ出さなかった。
瀬古は長距離走がどれくらい好きだったのだろうか。瀬古は楽しく走ったと言ったことがない。言うのは修行僧という言葉。仮に楽しくなかったとしても、走れば箱根の区間新、走れば福岡国際での優勝。栄光が付いてくれば、その練習も苦ではなくなるし、拒否する理由はない。好きでなくても、堪えられるという理屈になる。営業成績のいい社員は、ごますりなどは嫌いだが、でも耐えられるし、成果が励みになる。
逆を言えば、川内優輝こそは、狂ったような「走り屋」であり、マラソンは好きそうだと理解するしかない。瀬古の対岸のように見えるのだが、その瀬古は今では一番好きなランナーが川内優輝だともいうのだ。
「スターなんですよ。マラソンにスター選手がいないとダメなんですね。私もスターだった。ライバルの宗兄弟も。今は川内優輝と大迫傑がそうだ。ファンの記憶に残る選手を育てないと」
スター選手がいないとうのは、どうやら五輪の金メダリストが生まれていないのもその一つなのだが、何度もマラソンで優勝できる選手がいない(せめて連続優勝くらい)。例えば箱根のスター(山の神)が、卒業後のマラソンで活躍できていない。一発屋では記憶に残らない。
「何もケニア勢に勝てとは言っていません。視聴者の記憶に残るような走りができていないということ」
と今の瀬古は話す。その裏付けは、瀬古の過去の栄光はもちろん。さらに今のマラソンシューズと、今の練習環境が当時あれば、瀬古自身のマラソンベストの2時間8分台から、
「3分は速く走れた自信がありますね」
という達観した自信。2時間5分台は世界記録には4分遅かったとしても、日本記録になる。今は三枚目キャラの瀬古が、盛った話をお喋りするのは、これが理由なのだ。
瀬古の箱根は、1,2年はさほどでもなかったようだが、3,4年はその花の2区で区間新を連発した。1時間12分、1時間11分(当時の距離と記録)。しかも今では2区の区間賞とは、後続(2位)と、秒差、最大でも1分差でしかないのに、瀬古はその2回とも区間3分差でタスキをつないだ。当時の記録を検索しても、卒倒するほどのぶっちぎり。そのトップでタスキを渡した爽快感はと聞いても、
「それは僕の仕事の一つであるだけ。その後抜かれて、早稲田が優勝できないのも、しかるべき理由がありますから」
まあ仕方がないというわけだ。優勝は日体大とか順天堂。何故なら頭の8割はマラソンにあって、2割が箱根駅伝に過ぎないとう、当時の人生観によるらしい。
早稲田は、瀬古が入学する前年は予選会で敗退。本戦に出場できなかった。以前の遠い過去には、優勝経験がいくらあっても、100年の歴史の中では、どの大学も衰勢の過去を持つ。だからこそ「瀬古を見習え、瀬古のように走れ」と部員は言われていたが、さて理解できていたかどうか。早稲田は瀬古が卒業した4年後、ついに30年ぶりに箱根で総合優勝した。それは瀬古が在籍した成果が、そこで現れることになった。瀬古にとっての箱根は、この時にこそ使命が完結して「自分がいた時代よりも、ずっと嬉しかった」と話す。
瀬古にとっての箱根駅伝は、あまりに簡単だったという話になる。それは、持って生まれた素質があり、さらに修行僧の生活に堪えられたことが、その理由になるとしか思えない。
大学4年(79年)の12月、それは最後の箱根のひと月前の話になるが、その福岡国際は、翌年のモスクワ五輪(日本はボイコットした)の選考会でもあった。15戦したマラソンの中で、瀬古が最も記憶に残すレースはこの時だった。レースは40キロまで、瀬古と宗兄弟の三つ巴だった。ところがスパートした二人に、瀬古は引き離された。瀬古が振り返る。
「ダメだと思いましたよ。でも諦めたらいけないというのが、中村先生の教え。何とか追随していくと、宗兄弟が近づいてきた。おっ、追いつけるかと競技場に入った。ラストスパートならば、自身がある(高校時代は中距離トラックレーサーだった)。そこでようやく追い付いて、最後、まくって優勝したレースでした」
優勝した瀬古と、2位、3位、宗兄弟が、五輪出場資格を得た。と同時に、このレースこそが、瀬古と宗兄弟の人生の分岐にもなっている。負けた宗兄弟は、高卒からのたたき上げランナーであり、今でもその旭化成の指導者の立場で、後進の指導と、実業団のニューイヤー駅伝での成果に生涯を捧げている。他方瀬古は、一時はエスビーで活躍したが、その後、陸連副会長まで上り詰めた。長嶋茂雄のようなスター性を発揮した。宗兄弟はノムさんのように、マラソン界の月見草になった。
だが瀬古を見ていると、あのチャランポランさが、時には間抜けに見えるし、それが魅力にもなっている。今でも不参加だった80年のモスクワの恨めしい話をする。当時24歳だった。最速ランナーの適齢期だっただろとは思うが、その悔いを平然としゃべる。ならばアメリカに追随してボイコットした日本政府を批判すればよさそうに、それは全くない。それなら、柔道の山下も宗兄弟も同じである。山下はその4年後、84年のロス五輪で金メダルを獲得して、柔道連盟やJOCのトップまで登りつめた。宗兄弟も瀬古とその五輪に出場して、失敗した瀬古よりも上位で完走した。ついでにいえば、レスリングの富山英明も金メダルを獲得して、協会トップまでのぼった。その瀬古は、よくいえば今の大谷翔平のような騒がれ方をして、平静でいられない時期を過ごしただろうが、ゴルファー尾崎将司が一度として海外で勝てなかったように、瀬古もまた内弁慶でしかなかったかと思う。あの一浪した時代に、在米生活に適応できなくて、「毎日泣いていた、ホームシック」というのは、さらに4年後のソウル五輪で失敗した理由でもあろう(シカゴやボストン、ロンドンでは勝っているが)。
ちなみにレスリングの富山英明は、自由主義がまん延したそのロス五輪で、応じた日本選手団も、楽しい開会式閉会式を実践し始めたときに、入場行進中に、ポケットカメラでスナップ写真を撮ったことが、JOCでけしからんと罰則通達された(日本選手は、整列して行進しなければならない)。に対してレスリング協会の会長福田は、すでに五輪開催されているのに、日本に滞在したままで現地にもいかない瀬古(マラソンは最終日)が無罪なのはどうしてだと。
灼熱の現地よりも、日本に滞在して、レースの数日前に現地に入る方がコンディションを作れると、チーム中村は考えていた。今となって瀬古は、
「いや実際は現地の方がずっと快適でした。蒸し暑い日本よりも、現地は湿度が低い。そのコンディション作りにも失敗した」
と思い返す。そうした参加方法は、中村の構想に無理や勘違いがあったということだろう。またこれがすべて事実ならば、なお、へ理屈を一発かましたい。すでに女子マラソン(佐々木七恵)の監督として現地に入っていた中村清は、国際電話をしても、その快適空間へ瀬古を呼び寄せればよかったのに。子細な行き違いはいくらでもあったろうか。
レースの中継にしてもそうだ。箱根駅伝の難所といえば、海岸線から標高800mまで駆け上がる5区に決まっているのだが、解説の瀬古は自身が4回も走った2区の権太坂(横浜戸塚)を「2区の壁」と平然と言う。まあ大手町から1区、2区と平地ばかり走る中で、あの坂は標高60mまで駆け上がるわけで、トラックランナーにすれば驚きかも知れないが、高々箱根の10分の1以下。それを「壁」と言われても視聴者は戸惑う。平気な身びいきなのだ。
中村清との9年間の蜜月を経て、30歳直前の瀬古は、結婚しないと一人前の人間になれないという、昭和の正当な理屈で、お見合いをしていた。どうやら恋愛禁止令も雪解けしていた。同時に中村にしても、瀬古のお見合い宣言をして、全国から釣り書き(女性からのお見合い写真)を応募して一週間に300通集めたと豪語した。その行き違いはあったが、五輪後に結婚した。瀬古は、
「その一度きりのお見合いでも、私は練習ジャージーのまま行きましたね。派手な格好はするなという教えの元、普段着ですから。それが今も女房ですよ」
翌年の結婚式までのわずかな期間に、中村は休日の渓流釣りで不徳にも足を滑らせて事故死した。享年71歳。あれだけ老兵といい騒ぎを起こしたのに、若かったんだあと改めて思う。神宮外苑の絵画館の周回道路に仁王立ちして、マスコミを蹴散らかして、選手に説教垂れていたのは、60代半ばだったか。
実は制限された取材時間の中で、瀬古に聞き忘れたことが二つだけあった。一つは、明らかに日本政府いや、日本行政の汚点だと思うのだが、どうして日本は五輪種目に「駅伝」をブレゼンした過去がないのかということ。ソウル五輪ではテコンドーが競技になった。ロス五輪では、いい加減に辞めろと今でも言われているのに、野球を新競技にした。どこぞはサーフィンだったし、昨今はスケボーのそれもつまらない隙間産業を種目とした。だったら世界の格闘技「相撲レスリング」だって、種目になっただろう。しかしどうせ、答えは知れている。そんなの無理ですよ。日本はすべてを無理にした。
もう一つは、当時ワキウリ(彼は、世界陸上のマラソンで、後に優勝した)は、走らずに、鉄アレイを持たされて速歩だけをやらされていた。見た目に大いに違和感があった。しかし多分に、走る価値がないと思われていた。中村は当時「駄馬」といわれた佐々木七恵をエスビーに迎え入れていた。それをほんの1年でロス五輪の新種目「女子マラソン」の選手に仕立て上げた。彼女は、その大会で、国賊とまで言われた増田明美(マラソン解説者)は、なんと途中棄権してしまったが、しっかり完走して日本初代の五輪女子マラソン完走者になった(まもなく自衛隊員と結婚引退、早逝した)。中村学校は、駄馬のマラソンフォームまでも、理想的に改造できた。同じように、どうせ助っ人ケニアのワキウリもそれに違いない(今の女子大学駅伝などは、みんなゴリラ走りで見るに堪えない)。あの学校はそこまで徹底した。そこの従属生徒の瀬古は、優等生で卒業したのだろうが、やはり何かが足りないのだ、クリエイティブさに欠けた。それは日本の失われた30年と言わるように、世界にとは言わないが、第三者へのアピールそのものが、やはり足りないまま現在に至る。
瀬古がそれだけのランナーなら、花の2区で後続を10分ぶっちぎれば、20分ぶっ飛べばと妄想するならば、それは馬鹿話にしかならない。ただ、弱小早稲田で鼻にもひっかけない集団に、たった一人だけ場違いのようなぶっちぎりの瀬古利彦がいて、気の狂ったような独走をした。しかし成果はチームには反映されなかったし、瀬古本人も、それは「悔しくもない、チームの現状でしたから」と、案外冷めていた、角刈り瀬古カットの修行僧のような青年がそこにいたという、寓話のような過去を瀬古は持っていた。