sptakaのブツブツDiary

sptakaさんは、毎日ブツブツ発言しています。

田舎者にはゴリゴリだ~福井、秋田、山梨

2011-01-31 19:29:22 | ブツブツ日記
大雪で福井の列車が立ち往生したといわれても、現場が「越前市」と聞くと、お前、越前ガニでも安く売っているのか?と、冗談を言いたくなる。福井県にして、越前市とは、お笑いで生きているのかよ、冗談は好子さんが先で、話を真面目に聞く気がしない。だったら、県名を越前県としてから、大雪が降ってくれ。
 秋田にスキーに行こうと思っても、大仙市と仙北市があって、角館も田沢湖町もすべて消滅してしまったのなら、出戻りには興味もない。山梨に至ってはいつもいうように、甲斐市、中央市、北杜市って、どこの架空のアニメシティですか。取り返しのつかない地方行政任せは、自ら崩壊して没落するとはこのこと。だから、地方行政に任せられなくて、バカな田舎者は中央集権に従えという論理も分らないでもないわけだ。田舎者とは相当ひどいことをする場合がある。
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東京ドームシティ~口先だけの自己責任

2011-01-31 09:40:20 | ブツブツ日記
 アルバイト女性は目視だけで、ロックを十分に確認しなかったとの説明をしている。東京ドーム側は「発進前のバー固定に問題はなかったと思う。必ず手で確認する」と説明しているが、不徹底だった可能性がある。


 安全バーなんてものは、シートベルトいや、ドア開閉みたいなもので、アナウンスだけすれば、確認しなくても客の責任だと、ドームシティは思っていたかも知れない。確かに自己責任とは最近よく平気で言うやつがいるのだが、それは自己責任コンプレックスというやつで、とりきれない者に限って、言いたがる。危険なことする人に限ってそれをよく口にするわけで、事故で死んだからと言ってそれは責任を取ったことにはならないのだが、それが分らないものが多い。
ドームが自己責任と思うなら、人一人くらいの事故で、いちいち閉園にするな。するということは、自己責任なるものに、ビビって、起こってから初めてことの重大性に気がついたという、愚か行為である。中国の見習え。食の事故は自己責任と思っているから、10人死んだ程度では、どこにも騒ぎが起こらない。いいことだとは思わないが。
 問題は危険なことをするという自覚があるかどうかの話で、公園のアトラクションに覚悟を決めて乗る人はいないのだが、でも年をとるとあんな危険なものに乗りたくはないと思う。ジェット機や新幹線の百倍以上は危険だろうと思うが。女の子はキャーキャーいうが、そこまで危険なことが好きか? 好きだ。

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福島県昭和村という過疎地は

2011-01-30 19:57:30 | ブツブツ日記
 東京都区部というのは、人口密度で2万人前後で、まあ世界の過密混雑地帯で、人が住むところではないという説もある。さいたま市くらいになると、密度5千人程度で、本来混雑はこの程度が限界かとも思うが。日本平均は400人くらいで、欧米はみんなこの程度。ところが北海道になると、40人くらいに下がって、広~い田園地帯とか、広~い牧場があると、相当のんびりって感じがするよ。
 さて、東北道那須塩原から塩原温泉過ぎて北に行き、桧枝岐方面に左折すると、そこは福島県の南会津町なんていう田舎なのだが、この辺りを通るといつもここは北海道か?と錯覚する。実にのんびりしているし人もあまり見かけないからだ。同程度の密度だ。
 さて、その隣の昭和村というところは、密度6人。おお、一けたになると、それはオーストラリアのことだし、北米カナダやアメリカの過疎地と同じことだ。よくぞ福島県ごときに、世界にまれに見るほどの過疎地があると、私は楽しくなった。そこは日本のチベットか? 古い例えだ。
1時間に車が5台くらいしか通行しないのだ。そのうち3台は除雪のブルで、マイカーは2台。これで黒字だったら、ほめてあげよう。大赤字に決まっているが、嫌いじゃない。
 でも田舎ってのはひどいもんで、宮城の田舎の日帰り温泉は、ぬるめで42度、熱めで45度、いい加減にしろと思うよねえ。福島の田舎の日帰り温泉は、隙間風が入って暖房があっても、脱衣所の気温8度なんて、ありかよ、おい。風呂場とトイレが寒いと、後進国を感じるねえ。さらにいえば、気温が低いときに「寒い、寒い」を連発するのは、貧乏人でボロ着しか持ってないやつのことで、今の日本人の98%までが、まあ貧乏人と言ってやる。ダウン着ていれば、暑いだろうに。暑いよ、暑い格好してスキーをやるもんだ。
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入広瀬の積雪4mオーバーとは

2011-01-30 19:38:09 | ブツブツ日記
30日19時0分現在.高温低温降水量積雪深風速
順位 都道府県 地点名 積雪深
1位 新潟県 入広瀬 403 cm
2位 山形県 肘折 327 cm
3位 青森県 酸ケ湯 319 cm
4位 新潟県 津南 310 cm
5位 新潟県 十日町 302 cm
6位 新潟県 小出 297 cm
7位 山形県 大井沢 276 cm
8位 鳥取県 大山 265 cm
9位 福島県 只見 262 cm
10位 新潟県 関山 256 cm

入広瀬って別にスキー場じゃないよ。新潟から福島方面に行く時の、途中の田舎町。ついに積雪4m越えたねえ。前に秋山郷が雪に閉ざされたと騒ぎになったが、その近くは津南で4位だ。今年は騒がないからあの時より雪は少ないか。

 前からずっと思っていたんだよ。新潟の家屋というのは、有史以来豪雪なのは当たり前なのに、どうして普通の家を建てるんだ。もっととんがり屋根にするとか、融雪屋根とは月に維持費が五万円超えるんだってさ。工夫してもよさそうなのに、東京の家屋と変わらんよ。
 ところが答えは分ったよ。かつて雪下ろしなどは、面倒な作業ではなかったということだ。あんなもんはゴミ捨て、薪拾いと、同程度の当たり前の家事に過ぎなかったわけだ。
 というのも、新潟の百姓一族には、若いものが必ずいて、それも10歳代から二十歳そこそこの者がいて、家屋の2階に登って雪下ろしなんか、放っておいても楽しくて毎日連中やっていたんだよ。屋根登りなんて、木登りと変わらん。だから雪下ろしなどは苦でもない。
 大きな勘違いは、日本全国子供がいなくなって、ついに爺と婆だけの世帯が、大半になることなど、過去の人類には予測できないことだったということなのだ。爺に木登りさせたら、そりゃ転落するよ。
 有史以来こんな少子化になったことは、世界中初体験だったんじゃないかと思うわけだ。その不都合とは、税収不足に始まって、枝葉末節な問題として、雪国の雪下ろしする若者がいなくて、年寄りにはつらいなんていう余波に見舞われたということだ。
 その答えがつまり限界集落問題であって、冬の無人集落ということだ。集落が無人になると、除雪もしてくれないから困るよなあ。
 だけどまあ、そんな雪国の世情なんてほとんど興味もなくて、もっと積雪期待する最近なのですが。
 降雪が続いてもあと2週間くらいだろうねえ。マックスはもう通り過ぎたのかもしれないが。
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いらっしゃいませ~流氷初日

2011-01-19 17:13:11 | ブツブツ日記
北海道の網走地方気象台は19日、網走で陸上から肉眼で流氷を確認する「流氷初日」を観測したと発表した

 流氷をなんだか知らない人には関係ない話。冬の観光で、網走というより知床で流氷を見よう(乗ろうと思ったらダメ)という人はどうせ1万人に一人、最近は中国人が多いが、それがきた。一度来た流氷君は、ひと月半かふた月は滞在してくれる。昨年はたった2週間しかいなくて、振られたよ。
 どうせ読者は知らない。流氷とはオホーツク海をすべて氷で埋めて、その氷とはアムール川を流れてくる氷で、ロシアの内陸とは、マイナス40度に平気でなるというところだ。オホーツク海とは日本の国土の5倍は広い。それが全部氷だ。そこに栄養があって、アザラシもクジラも魚もくる。私も行く。その余った氷が、日本に接岸するという、この行為自体が、世界遺産以上の地球遺産だと私は思う。理解できない人にはどうでもいい話なのだが。
 2月末に行きましょう、スキー持って。流氷君は芸術でした。
 
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50歳で独身は、死ぬまで独身。

2011-01-18 01:27:59 | ブツブツ日記
50歳で独身の男女は、その後結婚することはまずない。それは厚労省の統計の中で、生涯未婚率という数値に、50歳で独身男女はカウントされているというわけだ。人間50歳以降はキャラが変われないということだ。つまり、男女ともにベッドでいちゃいちゃ甘い時間を過ごすことに、それまで独身だった男女は、そのひとときを受け入れられないという、堅物だということ。
 逆にいえば、仁科亜希子や秋吉久美子が50歳以降で再婚したというのは、バツイチだったからこそできたはなれ技。×ゼロだったら、50歳以降はシーラカンスと同じ人生。ギャモンのNNとか、登山のSYとか、妻の友人のMRとかは、残りの人生独身で通すと、これは統計から明らかなり。
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寺田甲子男追悼

2011-01-17 02:34:12 | ブツブツ日記
寺田甲子男追悼
 昭和14年に創立した東京緑山岳会の、創立メンバーでもあった会長の寺田甲子男(きねお)さんが、昨年11月頃に亡くなっていた。大正13年生まれだった。医科大学に献体したということで、葬儀告別式も行われていなくて、生前にあれだけ知られていた人が、ひっそり亡くなったという印象なのである。
 昭和10年代にすでに谷川岳の一ノ倉沢に通っていた人なのだから、戦時中は徴兵されて新潟の高田で通信兵をしていたと聞いたが、あの食うや食わずの時代に、昭和18年頃までは岩登りを楽しんでいたという、ある意味で浮世離れした道楽ものであり(それは百名山の深田久弥もこの時代に女連れで登山していたものだ)、その素性は大半は華族の豊かな学生登山者か、稀に寺田のように、宮大工をしていた兄弟に囲まれた腕のいい繁盛していた職人だった。そして学生登山者は長期休暇を利用して北アルプスを登り、仕事を持っていた社会人登山者というか、町の登山者の寺田のような人たちは土曜の夜行上越線の各駅停車の運賃の安い汽車を利用して、日帰りで冬でも一ノ倉沢を登っていた。
 日常の仕事が大工の棟梁だったのだから、山岳会の会長職にあっても、社会人なりのピラミッド体制で、若いメンバーを統率していた。戦後のある時期には毎年50人以上の新入会員が入ってきたし、一声かければ、200人近いメンバーが集結した。その組織で、昭和33年に、一ノ倉沢コップ状岩壁の緑ルートを開拓し、40年代には、穂高屏風岩の青白ハングルートを、さらに黒部丸山東壁の緑ルートを開拓した。
 組織が強大なのだから、やっかみもあって、逸話がいくつも残る。
 昭和20年代に、復員兵もままならない時代に、文部省は登山界もスポーツ体育の一つとみなして、日本山岳連盟を組織化しようとした。その時代に東京に戻っていたのは、日本山岳会の裕福な学生登山者のOBたちで、戦後は松方侯爵の一人松方三郎がその組織のボスについて、日本の登山界の戦後の指導を始めたとされている。それに、寺田は噛みついて、寺田の武勇伝の第一歩が始まったと私は理解している。
 そもそも登山者の組織というのは、寺田がいうには、昭和10年代に京浜岳連とうい東京の徒歩渓流会とか緑とか、横浜のグループが中心になって、つるはしを振って谷川岳に指導標を建てたことが、第一歩になっている。谷川岳の登山者たちへの開山は、「トンネルを抜けると雪国だった」の小説の通りに、清水トンネルの開通前後、上越線に湯檜曽だとか、土合という駅ができた昭和の一桁時代になるだろう。夏はハイキングのいい山だとはいっても、天候の急変とか、一ノ倉沢の岩場の難ルートとかで、遭難事故は当時から多かったらしい。それを憂いた彼ら山岳会は、有志として登山道に道標を設置して、登山者の安全を図ったのだ。当時の国鉄も、地元の自治体も手も足も出さない時代のことだった。地元の群馬県に至っては、鉄道を敷いたために東京の登山客が勝手に群馬にやってきて遭難して、有難迷惑なのだなんていう程度の意識しか持ち合わせていない時代の話だ。
 こうした岳連の前段の行為があるのに、戦後の文部省は組織の名前だけを借用して、復員しないメンバーの代わりに、華族や裕福学生の、徴兵されない身分の優雅な日本山岳会のメンバーをそっくり横滑りさせて、京浜岳連だとか、東京岳連、後の東京都岳連を組織したのだから、寺田たちが文句を言うのも筋合いである。どうせ学生山岳部も学生なりのピラミッドであり、寺田の社会人組織も同じこと。何だって、軍国主義そのものが天皇制の国体組織だったわけで、当時の日本にピラミッド以外の組織なんてどこにもなかったわけである。
 こうして寺田は松方侯爵をこらしめて、昭和30年代以降は、岳連の半数は学生OBでもいいが、半数は寺田たちの社会人グループを入閣させるという、ここに寺田流の岳連政治組織が完成したのである。その中で寺田は、遭難対策本部を長年務めることになった。
 もちろん理由も至って簡単である。毎週のように大勢のグループで一ノ倉沢に入るのだから、そこで遭難が発生すると、寺田のグループ、東京緑山岳会に救援救助を要請するのが手っとり早いというものだ。遭難者遺族が群馬県警に救援を依頼しても、その連絡が経由して結局東京の寺田の自宅に入る。当時の警察組織では一ノ倉の遭難には手も足も出ない。若いメンバーを集めて、ボランティアで週末に救援救助に行く時代が、10年以上も続いていた。
 そしてその救助の基地になるのが、土合駅の裏に今でもある中島喜代志さんの土合山の家だった。ならば救援の総大将の寺田が、ある場合には傍若無人に他人には思えるほど、そこで大声で指令を飛ばしていたとしても、何も可笑しくはないのだ。当時山の家では登山用具も販売していたし、遭難の度に救助隊員が、ハーケン、カラビナ、ザイルをそこで調達したとなれば、そのたびに山の家も潤う。「遭難の度に山の家だって儲けている」と一言発すれば、まだまだ世間では言っていいことと、言ってはダメなことの暗黙の規律があった時代に、ホンネの寺田の発言は得てして誤解もされた。
 こんな話がある。緑の会員が冬山で頂上の肩の小屋に入った時に、あまりの寒さで小屋の羽目板を焚き木で燃やして問題になったことがあるらしい。もちろん行為は今の時代なら刑事罰に相当する事件ではあるが、しかし寺田のいい分としてはこうなのだ。
 本来冬期小屋には、非常時のための薪が備えられているはずなのだが、それがなかった。それが理由で仕方なくそういう行為に及んだというわけだ。後日、群馬県議会に呼ばれて事故の収拾に当たった時に分かったのは、薪は県の予算で装備されているはずなのだが(肩の小屋は今でも群馬県が管理している)、委託された中島さんが何かの勘違いで、薪を用意しなかった。その不手際が問題になって、寺田グループのその行為は相殺されて無罪放免になったというのだ。大工の棟梁であり、それが山岳会の親分であり、毎週通っている谷川岳の主ならば、中島さんのその怠慢は腹が立ったのだろう。無理ではあるが、理屈の一つかと私も思う。
 寺田は、昭和20年代の早い頃に、自分の知り合いを一ノ倉のアルファルンゼで遭難死させてしまっている。肩がらみの懸垂下降をした際に、不慣れな彼は手を滑らせて、しかも末端を体に縛っていなかったというミスで事故は生じたと私は聞いた。それ以来、強面のイメージには似合わずに、安全登山の意識が本人の中で急速に高まったのではないかと、私は思っている。寺田に言わせれば登山とは道楽であって、アルピニズムでもないし、スポーツでもないし、もちろん名誉行為でも、自己実現でも何でもない。ただの道楽なのである。だからこそ、思いきった楽しい大がかりな道楽をするべきであって、そんなことで命を落としては絶対にいけないという理屈になっていく。仲間の団体に、一グループで50人以上の遭難死を出した組織もあるのだが、緑は創立70年間で4人だけである。
 冬の第三スラブを初登したのは、有名な森田勝さんなのだが、その登攀の登山計画を寺田は認めずに「登るなら会を辞めろ」といい、森田さんはその通りに会を辞めてその計画を成功させた。ために記録は、元緑山岳会の肩書で書かれたのだが、寺田はそれも不満で、元緑とは何ぞやと言っていた。そんな奴はいつかは死ぬと、親しい仲間内の会話では話していたが、森田さんはグランドジョラスで死んだ。社会人のクラブだから、自由にどこでも登れとはいうのだが、寺田の判断で無謀なものは辞めさせた。だからいつもどこかで若い会員と衝突がある。「除名する」と寺田が怒ることもままあったことで、最終的に会長である寺田の意にそぐわないと「除名」する場合があったのだ。
 森田の次の世代のリーダーは、屏風や丸山で活躍した星川さんなのだが、彼も同じ目にあっている。そして近年では、過去のコップ状初登の山本さんも、会の運営上の理由で、同じことになった。組織を後輩に委譲しないのである。亡くなるまで、寺田だった。
 その寺田とは、そうそう安っぽく自分の話を他人には教えないという、この含蓄の深さもやっぱり親分っぽいと私は思う。
 戦後の早い頃に「武者修行」とうい荒っぽい登山を単独で行っていたことがあったらしい。一旦自宅を出ると登山を含めて、しばらくは野宿を繰り返して生活する。それを真似たのが後輩の立田実さんという人で、彼も単独で冬の一ノ倉南稜と、同じく単独で真冬の知床の知床岳の昭和30年頃の登頂で、緑では伝説的な登山家だった。40歳代で病死したが、その立田さんだけに真似られたという、武者修行の記録は、立田さんの方が残っていて、それと同様のことを寺田が先にしていたかと思うと、戦後の何も食い物がない時代に、よくぞそこまでの道楽をしたかと、感心する。その食い物の話では、ヤミ米を東北から運んでひと儲けしたというのも、堅気ではできない仕事を、思いきってできるという人物だった。
 長女に渓子(けいこ)、長男に岳人(たけひと)と命名したことからも、本人の登山観がどれほどのものかは分かる。一ノ倉では二ノ沢右壁の右に寺田初登のルートがあるらしいのだが、そういうすっきりしないルートであっても、記録に載るとか載らないとかには、やはり興味はない。自分にとってどうだったか。
 そういう登山観が根底にあるのか、どうにも大勢での夏合宿が成功したという、組織でまとまって大イベント登山を行ったこと自体を評価するのである。そこで登ったルートが初登だったか、未踏だったか、一般だったかには、あまり左右されないのだ。例えば昭和40年代に南米のアコンカグアで、南壁の2登をやっているのだが、この3人パーティの太平洋を客船で出た遠征にしても、あれは会山行ではなくて個人山行になってしまったと、苦言をいう。大組織を動かして、みんなで楽しむそのトップに自分がいること、寺田はそんな感じの人だった。
先の岳連の話の続きに、寺田の違法行為として朝日新聞社会面で糾弾されたことがある。昭和40年当時の岳連の年会費は百円程度だったが、メンバー十数人のその会費が、岳連に収められずに、寺田が個人で流用したというような事件だった。これも寺田流の解釈では、岳連の組織そのものが、遭難救助であって、それを組織しているのが寺田であり、会費もどうせ岳連に渡った後に寺田へ救助費用として還元されるのだから、同じことだというような理屈である。さらに、岳連の会員証とは、一ノ倉沢へ入山できるパスポートの役割も果たすのだが、それも個人で作成していたというのだ。新聞の見出しによれば「偽造登山者」となっていた。個性がそれだけ強ければ、反寺田のグループが、反旗を翻すこともあっただろうと思う。
 晩年はオヤジ会を組織していた。雲稜の南さんも、雲表の松本竜男さんも、同志会の斎藤さんも、あらゆる同年代は寺田の呼びかけで毎年酒飲み会に参加していた。オヤジ会は、日本の山岳会のオヤジ年代のボスの組織で、もはや何も政治的なことは一切しないで、飲み仲間と化していた。その誰もが、音頭取りは寺田が相応しいと思っていたものだ。
 ただこうしてひっそり亡くなると、どうにも納得がいかないものが少しだけ残る。人間は死んだときの葬式の人数で人生の評価があるんだと、私は聞いた気がしたのだが、本人が葬式なしの人生を選んだとは、20年ほど前に脳梗塞を起こして、その入院生活で何か人生観が変わったのか。その後に糖尿病の悪化で視力がかなり失われてしまった経過もあった。献体をすることと、葬式をするのは、別物だと思うのだが、どうにも水臭い最期になった。そして最後まで緑山岳会は寺田商店であって、組織の継続よりも、自分の統率を最後まで維持していた。戦前から戦後の高度成長に合わせて、登山界も高度成長してきたが、そこに寺田という大物ボスが存在して、そして静かに亡くなっていた。
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