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NO5 「ニューイヤー」駅伝の優勝請負人、白水昭興(しろうずてるおき) 日産自動車時代に、駅伝優勝した教え子、森田修一が語る

2024-03-28 04:12:35 | ブツブツ日記
 高校生の頃から瀬古を目標にしていた、森田修一は、白水の勧誘を受けて日産自動車に入社した。専修大学で箱根を走っていた。目立った記録はなかったが、白水の目にとまったことになる。
「専大の3年先輩に、慕っていた加藤覚さんがいて、やはり日産に入りました。「ここのメニューに耐えられたら、相当な長距離ランナーになれる」と聞かされていましたね。就職の時には白水さんが川崎の我が家にまで来て、プレゼンしてくれました。長距離人生を、しかも地元の日産自動車で継続できるわけですから、そこに人生を賭けてみることしたわけです」
 と森田は話し出した。
 当時日産は横浜の子安に一周360mの企業内トラックを持っていて、サッカーのマリノスはその隣で練習していた。
「箱根を走っていたとはいえ、学生上がりでは、あの実業団のガツガツした練習にまともについていったら、あっという間に潰される(体が壊れる)ことは明らかでしたね。「自分のメニューで練習していいですか」と当初の頃から監督に提言していました。というか、我がままを言っていたんです。「明日はチームを離れて、山に登ってきます」といい丹沢に行ったり、高尾山へ出かけたり。
 チームの課題としては、例えば駅伝3週間前の5000m走の時には「14分を切ってくれよな」とか「13分半ば」とか目標タイムが出て、それに合わせられなければメンバーを外れてしまうわけですから、それは自分で調整することですね。
 あるいはレースの直前になると、むしろタイムを抑えて体を休ませるのですが、仲間と合同練習すると、調子がよくて凄いタイムで走ってしまう。そうなるとレース当日は、案外ダメなんですよ。それを自己規制の中で処理しないといけないとか。
 例えばメンバーの中には、明日が記録会だというのに、遅くまで酒を飲んでいて、二日酔いみたいなのに、設定タイムで走ってしまう猛者もいるんですね。でも自分にはそんなことできないし、よほどのことじゃないと酒の席は遠慮していました。他人よりも休息の時間は多く必要だったし、同量の練習も時間をかけていたのかな」


 80歳を過ぎたが、元気な白水昭興監督

森田からメニューを聞いた白水は「ああ、それでいいよ」というばかり。日産が活躍すれば、監督の白水も取材に囲まれた。
――今日の勝因は
「それは、選手個人がよく走ってくれましたから」
――森田選手にはどんなアドバイスを
「いや、私は何も言いませんよ。すべて彼にまかせていますからね」
 隠し事をしているわけではない。しかしどうにも気の利いた記事にはならない。記者にしても、見かけ恐持て風貌の白水に、それ以上は話しかけられなかった。過去にメディアへの露出は、さほど多くなかったのはそういう理由だろうか。

 森田修一は入社1年目で「ニューイヤー」は7区アンカーを走って2位。89年の2年目にも7区アンカーを走って、首位で渡されたタスキでそのままゴールを走り抜けて、ついに日産自動車は初優勝に輝いた。白水の生涯初優勝の時でもあった。

 そこから森田は次のステップアップを考えた。毎年12月の福岡マラソンに照準を当てていった。92年のバルセロナ五輪の選考会の一つに、91年12月の福岡があった。五輪の選考基準は依然としてあいまいで「不確かな選考」と言われた時代だった。森田はそれまでに5回マラソン経験はあったが、4位が最高。どうしたら勝てるのか。およそ35キロまでは順調に走れるのだが、残り7キロで遅れた。マラソンでは「魔の35キロ」と言われるが、彼にはそれが全く当てはまった。
「少なくとも選考会レースでは優勝しなくてはならないわけですね。そのためには35キロから40キロまでの5キロを、15分を切るペースに上げなければ、優勝できない計算になる。今でいうアフリカ勢のロングスパートに、離されないように。ところがほとんどの選手は、日本人も外人も、この35キロからの5キロでペースアップした例はありません。だから私は、どんな状況でも前に出ずに、トップグループ集団のまま走って、35キロからペースアップできる選手になろうと」

 5キロ15分(1キロ3分=時速20キロ)で走ると、42・195キロのフルマラソンは2時間6分35秒で走れることになる。これは今でもおよその設定タイムとなっている。ところが実際の大会のトップグループは、35キロ時点で、これより遅い場合が多かった。であっても、集団の中に留まって、残り7キロは、5キロ15分を切るようなタイムで走りきるという課題なのだ。

 そのために森田は、例えば50キロ走というメニューを考えた。せめて50キロまでイーブンぺースで走れれば、42キロ以降の8キロは、こちら側の走力として蓄積されるのではないか。あるいはその翌日には、たったの2キロ走というメニューを数本消化するだけにした。一晩寝ただけでは、パンパンになって治らない足に、40キロからの2キロ走だけを想定して、2キロ6分のメニューを課す、そんな練習もやった。
 さらに合宿の設定である。マラソンや駅伝ランナーが合宿と称して地方に行くのは「時速20キロで信号もなく、突っ走れる道」が必要だからという理由は、あまり知られていない。400mトラックがあれば十分だというのは、多分1万メートルまでのトラックランナーに限ったこと。マラソンや駅伝ランナーは、トラック周回練習だけでは足りないのだ。森田はトレーナーと二人っきりの合宿をおこなった。
「夏には北海道の別海町。何もないところですよ、直線道路が一本あるだけですね。冬には九州宮崎とか徳之島とか。近郊では千葉の白浜海岸でやったこともね。私一人と付き添いにトレーナー一人。一回行くと、1週間から10日間。集団で行く合宿ももちろんありますが、私は一人の方がやり易かったですね」

 監督の白水はいう。
「駅伝練習というのは、知られるように「護送船団方式」が一般ですよね。1キロ3分のペースで仲間と走りますね。ところが速い数人は「それでは遅い」と言い出すわけです。2分55秒くらいがいいと。すると集団が二つに分かれてしまうわけですよ。スタート直後に二つの集団ができると、それ以降10キロまでの間に、どんどん離れてしまう。つまり遅い集団からも駅伝選抜されたいときには、どこかでスパートして、集団を吹っ切らないといけないわけですね。ということは、どこかで一人っきりで走りきる力が必要だということです。それはつまり、最初から一人で設定タイムだけを目安に走れればそれがいいし、これができる選手は、駅伝でも速いですよね。最後まで集団で走りたいというなら、残り500mからのスパートだけで、仲間を引き離しても、駅伝メンバーに選ばれるということになりますね。要するにここでも、目標設定と、そのための自分なりのメニューをどう消化していくかということですよね」
 話は実に細かいことになっている。1キロ3分のペースと、5秒早い2分55秒にどれだけの違いがあるのか。計算すれば、1キロで28mの違いが出る。10キロ走ると50秒差になって、280m離れる。これだけ離れると、前の選手が見えなくなる。10キロ走っておよそ1分差。これが日本人と助っ人外人の違いにもなっている。
 白水は思い出す。
「前々回の東京五輪で3位になった円谷選手と、優勝したアベベ選手のタイム差がおよそ4分でした。アフリカ勢と1万mで1分離されるわけですから、マラソンなら4分離される。今でも日本人のマラソン設定が2時間5分であるなら、世界記録は2時間1分になっていますね。駅伝の場合は、だからこそ助っ人外人が必要とされ、エスビーがワキウリを獲得したのも、中村清さんはすでにこれを見抜いていたと思うんですよ」

 森田にとっては、一人練習がよかった。
「自分で決めたこうしたメニュー(練習計画)を提言すると、白水さんは「そうだね、やりなさい」とOKしてくれたことですね。長距離ランナーに基本的な練習メニューはもちろんあります。でも他に、より効果的なメニューというのは、自分で考え出さないことには、どうしようもないことなんですね。監督がこうしろ、ああしろといっても、本人が納得しなけれぼ、さほどの効果はないでしょう。自分なりのメニューを考えださないとね。日産自動車の6年間では、ほとんどそんな毎日でした」

 目標の福岡マラソン(91年12月)のその日がきた。レース目標を言いきってしまえば「タイムよりも勝負」。昨今のペースメーカーを揃えた大会では、その逆である。「順位よりもタイム」。どのマラソンも同じ条件と設定して、2時間以上のコースに対しても「タイム」だけを求めている。昨今はこういう傾向になったが、以前は違っていた。
 レース当日、当時の資料によれば「気温16度」と真冬の福岡にしても暖かく、31キロまで18人集団のスローペース展開となっていた。途中には5キロ16分台まで落ちる集団走だった。ところが35キロから仕掛けたアフリカ選手がいて、森田もまた自身の課題だったように、加速した。
「35キロからは、5キロ14分台で走りましたよね。この5キロを自分の設定で走りきることが、私のマラソン人生の課題になっていましたからね。それをやりきって優勝したのですから、こんな満足はありませんでしたよ」
 35キロからの5キロを森田は、14分56秒。2位に入ったメコネンという選手は、15分29秒。この15分で30秒差は、170mの距離が開いた。森田が優勝できた理由はこれだった。
 彼に言わせれば「強い選手」というのは、どういう条件でも勝てる選手であること。「速い選手」というのは、得意な条件が揃ったときにのみ、勝つことができること。森田は強い選手になっていた。

 この優勝で、過去には、瀬古利彦も新宅雅也も中山竹通も優勝した大会に、森田修一も名前を連ねた。2時間10分58秒。
 ただバルセロナ五輪の選考結果としては、すでに世界選手権で優勝していた谷口浩美の他には、翌年の「東京国際」で優勝した森下広一と、2位の中山竹通が、タイムで上回るという理由で、派遣選手になった。「優勝」という成果よりも、森田の経験の少なさとタイムが問題視された。
 今になれば、森田は、
「不満を言えばいくらでもありますが、2時間10分を切っていれば、ああいう話にはならなかったんでしょうけれどね。ただ自分としては選考レースの中でも歴史のある「福岡国際」で、どんな条件でも勝てるマラソンを頭に描いたし、それを実践できたことに、自分の価値を感じたわけですからね」
 五輪出場にはあと一歩及ばなかった。

 長距離ランナーのハードスケジュールとは、12月に福岡国際を走って、1か月後には「ニューイヤー」を走って、その2週後に福岡で「朝日駅伝」(すでに終了)があった。日産自動車は、朝日駅伝では、85年から7年間に5回優勝していた。7区間で99キロ。サイズは「ニューイヤー」とほとんど同じものだった。シーズン中とはいえ、この3者を並立させることは不可能に近いのだが、森田はそれをすべて走ったことがある。負荷が重なった。まもなく故障も相次いだ。
 森田の駅伝では、優勝した89年に続いて、90年にも連覇がかかった。確かに6区まではトップ3人が並走してきた。さてアンカーの森田は、この時風邪気味だった。そんな理由で、並走から遅れて3位。その翌年は順位を一つ巻き返したが、2位。人々の記憶には、優勝しか残らないものだが、ちょっとした不運だけで、栄冠の運命が左右された。そのチームが駅伝に強いことには、ほとんど代わりはないのであるが。

 一方、成功したマラソンでは、森田が優勝した福岡国際(91年)は、その後は招待の外人選手ばかりが優勝して、日本人は永遠に勝てないのかと不安がよぎっていた。次に日本人が優勝したのは、9年後の2000年に、駒大から富士通に入った藤田敦史(現駒沢大学陸上部監督)だった。その2時間6分台は当時の日本最高。すでに引退していた森田にしても、次世代の画期的ランナーに見えた。と同時に自分に照らし合わせると、少しの不安もあった。
「福岡で勝つのは、日本のマラソン史に残るほどの快挙ですよ。でも心配しましたよねえ。まさか、ひと月後の「ニューイヤー」は、回避した方がいいはずなんだけどねえ。無理して体を壊したら、どうにもならない」

 藤田が在籍した富士通にとって、実は前年2000年1月の「ニューイヤー」は、その藤田の快走もあって初優勝に輝いていた。しかも、その年末にはメンバーの藤田が「福岡」でも優勝。ひと月後とはいえ、富士通2連覇へ向けて、周囲はお祭り騒ぎでもあった。
 杞憂は的中した。藤田はその「ニューイヤー」でも、区間賞の走りをした。しかし残念ながら2位。彼もトップには追いつかなかった。当時の報道では、
「最後は足が伸びなかった。でも絶対に勝てない相手(コニカミノルタ)ではない」
 と2位に甘んじだ理由を話した。
 しかし危惧されたように、以降のマラソンレースで彼は自分の記録を越えられなかった。怪我にも泣いて、五輪出場にも失敗した。およそどんな選手でもすべてに優勝することはできない。そんな両立をいとも簡単に成し遂げていたのは、この50年来で、瀬古利彦と宗兄弟だけと言われる理由でもある。藤田もどこかで無理に泣いた。

 森田は日産に6年間所属した。まさに1990年のバブルをこの会社で過ごした。
「振り返ってみても、いい時代に日産自動車という大企業で走れたのだと思いますね。例えば、入社して初任給というのをもらいますよね。それが2年目の社員よりも多いんですよ。バブルの時期には、新入社員の給料がどんどん上がって、在籍社員のベースアップを越えてしまったなんてこともね。
 ただ駅伝優勝(1989年)して数年すると、バブル崩壊ですよね。日産もあっという間に会社縮小だし、陸上部に同じような支援ができない。そんな空気は分かりますよね。6年間所属して監督と共にダイエーに移籍(1993年)しました」
 現役引退してからは、ホクレンで北京五輪長距離の赤羽有紀子を育てた。(続く
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