9月3日(水)ロッキー青木の痛快人生
「遺産を100億円くらい残した」といわないと、外国で成功した日本人なのに、やっかみ半分でみんなは嫉妬する。実際そのくらいらしい。7月に亡くなったロッキーの「痛快人生に乾杯」というような趣旨で先日行われたパーティは、日本語に訳すと「偲ぶ会」ということになるらしい。あんなしみったれた葬式みたいのは、やらないでくれというのが、彼の遺言だったというわけだ。
50年前に日本から潜りのような感じで渡米した青年が始めた、「鉄板焼き」程度のレストランが、どうして今では世界に120店舗に拡大して、年間売上300億円もの会社になって継続しているのか不思議である。店を出したのが、64年。東京五輪の頃だ。その頃からアメリカのマーケットで成功している企業とは、トヨタかソニーかパナソニックくらいなもんで、ダイエーにしても、西武もリクルートも潰れている。たかが鉄板焼きなのに、40年を越えた人気商売に、やっぱりこの人の商才というのは、トヨタと同程度と言ったら、笑う人がいるんだろうか?そう思うのだが。
本当にそうだ。64年頃のトヨタなどは、エンジンが焼きついて日光のいろは坂は登れないと言われたものだ。アメリカで走らせると、5キロでエンジンが焼きついた。それをわずかに40年で駆逐して、GMもフォードも潰そうというのがトヨタである。しかし思えば、米国の企業を潰して自分だけが進出していったことを思うと、トヨタとは泥棒企業でもある。トヨタ50周年なんていうイベントが最近あったが、時間の経過もベニハナと一緒だ。比べれば、米国人の腹の中も、ビーフから日本食へ変えて言ったわけだから、泥棒といえばそうなるが、しかし食文化は、文化の移行である。そう思うと、ロッキーの方が、トヨタの食い散らかしよりも、共存できたんじゃないかと、評価する。
60年頃にレスリングの選手として渡米して、USでは3年間のチャンピオン。ローマ五輪の育成選手だったらしいが、んなテレビもない時代の五輪に出たところで意味がないと思ったのだろう、実を取って、アイスクリーム売りからの立身出世はすでに有名になっている。64年の東京五輪のときに、鉄板焼きのベニハナ開業したのも縁か。
それから10年間くらいが、商売一辺倒だった時代だろうと思われる。NYの店が成功して、2号店、3号店とどんどん出していく。シカゴにもロスにも。ホテル王のヒルトンを鉄板焼きのファンにしたり、マフィア連中もうまく丸めこんで宣伝に使ったなどは、見ご過ぎて笑いが出る。
世間の中小飲食街のオヤジは、「3店舗までだ」とはよく言うのだ。それ以上店が増えると目が行き届かなくなって、品質が落ちる。ところが瞬く間に店舗を増やすとは、従業員にどんどんのれん分けさせることを含めて、フランチャイジーの優秀なスタッフの知恵を、利用して言ったわけだ。拡大の様子は、かつてのコンビニであり、マックである。
それであっても、吉野家もかつては倒産したし、すかいいら~くは、今倒産状態にある。メニューが単一で飽きられるというわけだが、鉄板焼きの単一メニューから、寿司へも拡大したろうし、その後のカリフォルニアロールの日本食ブームにしても、どうせベニハナの影響がないわけはない。メニューの拡大スタッフ要員もいたわけで、やぱり現在まで40年以上続いているなんて、もう信じられないくらいである。
ロッキーは意外と飽きっぽい性格だったんじゃないかと思うのだが、10年たつとほとんど人任せにして、自分は遊びの世界に入っていく。75年にギャモンのUSチャンピオンになり、80年にパワーボートで記録を作る。ところがこのときに24か所の複雑骨折を起こして、心臓手術の時に肝炎に感染する。命取りの始まり。ところが翌年ガス気球で太平洋横断に世界二人目として成功する。昨年埼玉の冒険家が熱気球で同じことをしようとして行方不明になった。今でも成功率は7割くらいしかないと言われる。その後もモスクワのラリーに出る。自分の趣味がベニハナの宣伝になるということなのだが、自分を広告塔として演出するうというアイデアも、彼のオリジナルだった。
もちろん結婚離婚もそうだし、最初の離婚で数十億円らしい慰謝料を支払ったという外電のニュースにしても、松方弘樹の日本記録を簡単に越えていた。これも宣伝になった。
資料の中には、89年に株主代表訴訟の敗訴、98年にインサイダー取引の敗訴とあるのだが、まあナイーブな日本マスコミはこれだけでビビッて何の事だか分からなくなるわけだが、実質彼はオーナー筆頭株主だけを継続して、実務から離れたというだけのことになった。最初の訴訟は、どうせ企業の儲けを自分の趣味に流用したというだけの話だろうし、次のは少しの悪さが過ぎて代表権からも外されたというだけのことだ。いずれにしても、今のUSベニハナの企業HPを見ても、創業のロッキーは企業の沿革として健在であるし、彼の写真ももちろん使われている。役員の実務外し程度でも、従業員が訴訟を起こすというのが米国流である。しかしその後も現在まで、オーナーとして自分が媒体に出ることで、それは宣伝になっていた。いや他にも、USでは外された代表権でも、欧州、アジアの店舗では、彼自身もマネジメントしていたらしい。
亡くなる前に、7人の子供と妻へ、保有株式財産の相続は、全部遺言としてあるようで、あとは弁護士がそれに則って、分配していくだけである。亡くなり方もスマートだった。
補足ながら、ひと月前に同じようなことを書いた頃に、阿呆な読者が週刊新潮に出ていた弟との確執記事を見つけて、私に文句を言ってきたものがいたのだが、日本のベニハナの数店舗のオーナーが弟さんのようで、パワーのある兄弟は、どこかで仲が悪かったというだけの話なのだが、真に受ける読者もナイーブである。トヨタやソニーの悪口は、世間に五万とあることと変わりがない。
ただ不思議なのは、レスリング野郎だった人が、どこに自分の商才と、他人にその商売を任せるというマネジメントの能力が備わったのかが、彼の話になるといつも不思議なことだ。どこかで大きな失敗がいくらでもあったはずなのだが、その時代と並行したウォッチャーがいなかったことで、この辺りの苦労話はいつも飛ばされてしまう。ただ前回ロッキーにあった時に、オーバーステイとか商売の問題で当局に追い回されたり、取り締まられたりを含めた苦労は相当あったのだろうと聞いたときに、
「そんなものは、数が多すぎて思い出せないよ」
と笑った一言で、かなりのことは想像できる。なぜか達観しているし、そういうトラブルも実は楽しんでいたんじゃないかと思ったりする。そして晩年しか知らない私としては、この6年、三度目の結婚生活のなかで、最後の奥さんと一番いい時に彼は亡くなったと思うのである。
「遺産を100億円くらい残した」といわないと、外国で成功した日本人なのに、やっかみ半分でみんなは嫉妬する。実際そのくらいらしい。7月に亡くなったロッキーの「痛快人生に乾杯」というような趣旨で先日行われたパーティは、日本語に訳すと「偲ぶ会」ということになるらしい。あんなしみったれた葬式みたいのは、やらないでくれというのが、彼の遺言だったというわけだ。
50年前に日本から潜りのような感じで渡米した青年が始めた、「鉄板焼き」程度のレストランが、どうして今では世界に120店舗に拡大して、年間売上300億円もの会社になって継続しているのか不思議である。店を出したのが、64年。東京五輪の頃だ。その頃からアメリカのマーケットで成功している企業とは、トヨタかソニーかパナソニックくらいなもんで、ダイエーにしても、西武もリクルートも潰れている。たかが鉄板焼きなのに、40年を越えた人気商売に、やっぱりこの人の商才というのは、トヨタと同程度と言ったら、笑う人がいるんだろうか?そう思うのだが。
本当にそうだ。64年頃のトヨタなどは、エンジンが焼きついて日光のいろは坂は登れないと言われたものだ。アメリカで走らせると、5キロでエンジンが焼きついた。それをわずかに40年で駆逐して、GMもフォードも潰そうというのがトヨタである。しかし思えば、米国の企業を潰して自分だけが進出していったことを思うと、トヨタとは泥棒企業でもある。トヨタ50周年なんていうイベントが最近あったが、時間の経過もベニハナと一緒だ。比べれば、米国人の腹の中も、ビーフから日本食へ変えて言ったわけだから、泥棒といえばそうなるが、しかし食文化は、文化の移行である。そう思うと、ロッキーの方が、トヨタの食い散らかしよりも、共存できたんじゃないかと、評価する。
60年頃にレスリングの選手として渡米して、USでは3年間のチャンピオン。ローマ五輪の育成選手だったらしいが、んなテレビもない時代の五輪に出たところで意味がないと思ったのだろう、実を取って、アイスクリーム売りからの立身出世はすでに有名になっている。64年の東京五輪のときに、鉄板焼きのベニハナ開業したのも縁か。
それから10年間くらいが、商売一辺倒だった時代だろうと思われる。NYの店が成功して、2号店、3号店とどんどん出していく。シカゴにもロスにも。ホテル王のヒルトンを鉄板焼きのファンにしたり、マフィア連中もうまく丸めこんで宣伝に使ったなどは、見ご過ぎて笑いが出る。
世間の中小飲食街のオヤジは、「3店舗までだ」とはよく言うのだ。それ以上店が増えると目が行き届かなくなって、品質が落ちる。ところが瞬く間に店舗を増やすとは、従業員にどんどんのれん分けさせることを含めて、フランチャイジーの優秀なスタッフの知恵を、利用して言ったわけだ。拡大の様子は、かつてのコンビニであり、マックである。
それであっても、吉野家もかつては倒産したし、すかいいら~くは、今倒産状態にある。メニューが単一で飽きられるというわけだが、鉄板焼きの単一メニューから、寿司へも拡大したろうし、その後のカリフォルニアロールの日本食ブームにしても、どうせベニハナの影響がないわけはない。メニューの拡大スタッフ要員もいたわけで、やぱり現在まで40年以上続いているなんて、もう信じられないくらいである。
ロッキーは意外と飽きっぽい性格だったんじゃないかと思うのだが、10年たつとほとんど人任せにして、自分は遊びの世界に入っていく。75年にギャモンのUSチャンピオンになり、80年にパワーボートで記録を作る。ところがこのときに24か所の複雑骨折を起こして、心臓手術の時に肝炎に感染する。命取りの始まり。ところが翌年ガス気球で太平洋横断に世界二人目として成功する。昨年埼玉の冒険家が熱気球で同じことをしようとして行方不明になった。今でも成功率は7割くらいしかないと言われる。その後もモスクワのラリーに出る。自分の趣味がベニハナの宣伝になるということなのだが、自分を広告塔として演出するうというアイデアも、彼のオリジナルだった。
もちろん結婚離婚もそうだし、最初の離婚で数十億円らしい慰謝料を支払ったという外電のニュースにしても、松方弘樹の日本記録を簡単に越えていた。これも宣伝になった。
資料の中には、89年に株主代表訴訟の敗訴、98年にインサイダー取引の敗訴とあるのだが、まあナイーブな日本マスコミはこれだけでビビッて何の事だか分からなくなるわけだが、実質彼はオーナー筆頭株主だけを継続して、実務から離れたというだけのことになった。最初の訴訟は、どうせ企業の儲けを自分の趣味に流用したというだけの話だろうし、次のは少しの悪さが過ぎて代表権からも外されたというだけのことだ。いずれにしても、今のUSベニハナの企業HPを見ても、創業のロッキーは企業の沿革として健在であるし、彼の写真ももちろん使われている。役員の実務外し程度でも、従業員が訴訟を起こすというのが米国流である。しかしその後も現在まで、オーナーとして自分が媒体に出ることで、それは宣伝になっていた。いや他にも、USでは外された代表権でも、欧州、アジアの店舗では、彼自身もマネジメントしていたらしい。
亡くなる前に、7人の子供と妻へ、保有株式財産の相続は、全部遺言としてあるようで、あとは弁護士がそれに則って、分配していくだけである。亡くなり方もスマートだった。
補足ながら、ひと月前に同じようなことを書いた頃に、阿呆な読者が週刊新潮に出ていた弟との確執記事を見つけて、私に文句を言ってきたものがいたのだが、日本のベニハナの数店舗のオーナーが弟さんのようで、パワーのある兄弟は、どこかで仲が悪かったというだけの話なのだが、真に受ける読者もナイーブである。トヨタやソニーの悪口は、世間に五万とあることと変わりがない。
ただ不思議なのは、レスリング野郎だった人が、どこに自分の商才と、他人にその商売を任せるというマネジメントの能力が備わったのかが、彼の話になるといつも不思議なことだ。どこかで大きな失敗がいくらでもあったはずなのだが、その時代と並行したウォッチャーがいなかったことで、この辺りの苦労話はいつも飛ばされてしまう。ただ前回ロッキーにあった時に、オーバーステイとか商売の問題で当局に追い回されたり、取り締まられたりを含めた苦労は相当あったのだろうと聞いたときに、
「そんなものは、数が多すぎて思い出せないよ」
と笑った一言で、かなりのことは想像できる。なぜか達観しているし、そういうトラブルも実は楽しんでいたんじゃないかと思ったりする。そして晩年しか知らない私としては、この6年、三度目の結婚生活のなかで、最後の奥さんと一番いい時に彼は亡くなったと思うのである。
英語で喋ったのですが発音があまりよくなくて、いわゆる
日本語英語でした。そのことにかえって感動しました。
アメリカで成功するのに流暢にしゃべれる必要はなくて、
コミニュケーションがとれればいいんだなと。
今ではわかりきったことですが当時は私も変に固定観念が
あったようです。
よくよく考えるとチャレカに来てること自体、彼が非常にギャモン好きで、かつ晩年においても新しい場所におもむく好奇心
とパワーが有った事の証明といえます。