(つづき)
昭和59年4月27日時点の「49番」の時刻表の一部。
「49番」は当初、弥永団地~天神間で運行をスタートした。
それまで弥永団地には「45番」のみが乗り入れており、昇町経由で井尻駅、博多駅方面、及び南福岡駅、雑餉隈営業所方面への路線が運行されていたが、香蘭短大前交差点から那珂川町方面に抜ける通称「新幹線通り」の整備により、この道路を通って大橋駅、天神方面に向かう「49番」が新設され、福岡都心部への利便性が向上した(現在、弥永団地に「45番」は乗り入れていない)。
昭和58年3月の福岡市営地下鉄1号線(現在の空港線)の姪浜までの開通のときの大改正により、「49番」は「西と南の副都心(西新と大橋)を結ぶ」という使命を担って、天神から先、貫線(現在の明治通り)、西新を経由して飯倉まで延長された。
なお、このときの改正で「西と東の副都心(西新と香椎)を結ぶ」ということで、「2番」が城浜団地、香椎花園まで延長された。
ただ、「2番」の城浜団地行きは香椎を通らないし、また「49番」についても、本当に西新と大橋を結ぼうという気があればもっと速いルートもある訳で、「副都心を結ぶ」というコンセプトも「後付け」の感が強い。
実際のところは、「とりあえずいろんなところを直通で結んで乗り換えの必要性を減らして、地下鉄に対抗しよう」という、現在も脈々と受け継がれる思想がバックにあったような気がする。
なお、飯倉行きは短期間で縮小され、西新止めが多くなり、最終的には天神から西へ向かうルートは廃止された。
また、弥永団地より南の郊外部分については、JR博多南駅の開業や、春日市南部や那珂川町の住宅団地開発(白水ケ丘や観晴が丘など)等に合わせて路線延長が行われている。
当時、弥永団地からの上りの本数(平日)は、
西鉄大橋駅止め 24本
天神止め 1本
飯倉営業所行き 28本
の計53本であったが、現在では、
西鉄大橋駅止め 44本
天神方面行き 41本(天神行き、那の津4丁目行き、「630番」と連続運行する呉服町方面行きの合計)
の計85本となっており、約1.6倍に増えている。
ちなみに、「49番」のオリジナルルート上には福岡市南区の曰佐(おさ)地区(「お」の字は「曰」であり「日」ではない)があるが、読みにくいという判断からか、「49番」が走り始めた頃の方向幕には「曰佐」に「ふりがな」が振ってあった。
(つづく)
昭和59年4月27日時点の「49番」の時刻表の一部。
「49番」は当初、弥永団地~天神間で運行をスタートした。
それまで弥永団地には「45番」のみが乗り入れており、昇町経由で井尻駅、博多駅方面、及び南福岡駅、雑餉隈営業所方面への路線が運行されていたが、香蘭短大前交差点から那珂川町方面に抜ける通称「新幹線通り」の整備により、この道路を通って大橋駅、天神方面に向かう「49番」が新設され、福岡都心部への利便性が向上した(現在、弥永団地に「45番」は乗り入れていない)。
昭和58年3月の福岡市営地下鉄1号線(現在の空港線)の姪浜までの開通のときの大改正により、「49番」は「西と南の副都心(西新と大橋)を結ぶ」という使命を担って、天神から先、貫線(現在の明治通り)、西新を経由して飯倉まで延長された。
なお、このときの改正で「西と東の副都心(西新と香椎)を結ぶ」ということで、「2番」が城浜団地、香椎花園まで延長された。
ただ、「2番」の城浜団地行きは香椎を通らないし、また「49番」についても、本当に西新と大橋を結ぼうという気があればもっと速いルートもある訳で、「副都心を結ぶ」というコンセプトも「後付け」の感が強い。
実際のところは、「とりあえずいろんなところを直通で結んで乗り換えの必要性を減らして、地下鉄に対抗しよう」という、現在も脈々と受け継がれる思想がバックにあったような気がする。
なお、飯倉行きは短期間で縮小され、西新止めが多くなり、最終的には天神から西へ向かうルートは廃止された。
また、弥永団地より南の郊外部分については、JR博多南駅の開業や、春日市南部や那珂川町の住宅団地開発(白水ケ丘や観晴が丘など)等に合わせて路線延長が行われている。
当時、弥永団地からの上りの本数(平日)は、
西鉄大橋駅止め 24本
天神止め 1本
飯倉営業所行き 28本
の計53本であったが、現在では、
西鉄大橋駅止め 44本
天神方面行き 41本(天神行き、那の津4丁目行き、「630番」と連続運行する呉服町方面行きの合計)
の計85本となっており、約1.6倍に増えている。
ちなみに、「49番」のオリジナルルート上には福岡市南区の曰佐(おさ)地区(「お」の字は「曰」であり「日」ではない)があるが、読みにくいという判断からか、「49番」が走り始めた頃の方向幕には「曰佐」に「ふりがな」が振ってあった。
(つづく)
今だったら、西鉄バス愛好家のサイトやblogで、方向幕のデザイン変更に関して賛否両論沸騰しそうですね(笑)
後継のデザインは、LEDになるまで20年ぐらい続いてることになりますね!!それだけ優れてたということですよねえ。
全面カラーの方向幕は、時代を先取りしすぎた感じでしたね。
表示などはすごくスタイリッシュだった印象があるのですが、方向幕の部分が今ほど大きくない車が主流の時代だったので、見にくさは否めませんでしたね。
この幕は昭和何年くらいに導入されてどれくらいの期間続いたのでしょうか…。
私も、頭の中にはぼんやりと残っているものの、写真や詳しい解説などを今まで見たことがないため、折に触れどこかに情報はないものかと考えています。
全面カラーのオレンジに白字は最悪に見づらかったです。でも、全面カラーの方向幕を見たことがあるおかげで、3[特快]や500番台や310番などを初めて見た時もあまり違和感がありませんでした。
懐かしいといえば、今の塗装がいずれ懐かしい存在になるんですよね。ちょっと複雑…。
私も当時、渡辺通1丁目から家に帰るとき、「17番」で帰ろうとする親にせがんで「49番」にしてもらった記憶があります(笑)。
「緑の方向幕」…一時期、全面に方向色がついていた(今の310番や400番みたいに)時期がありましたね!
評判が悪くて数年で変わってしまいましたが、懐かしいです。
「緑(もちろん方向幕のこと)のバス乗りたーい」と騒いで、親にせがんで乗せてもらった記憶が…笑
弥永団地なんかには連れていってもらえず、飯倉か西新から天神まででしたが。
昔はこういう雄大な(悪く言えば無駄な)路線がたくさんあったんですよね。前回紹介されてた26番が94本も走っていたなんてのも驚きです。