(つづき)
「RKBベスト歌謡50」のパーソナリティを長く担当された元RKBアナウンサーの林幹雄さんが昨年お亡くなりになりました。
2021年1月1日に放送された「RKBベスト歌謡70~Be colorful.~」で、追悼企画が放送されましたのでその模様を。
登場人物は以下の通り(敬称略)。
仲:仲谷一志 坂:坂田周大 服:服部義夫
仲谷さん、坂田さん、服部さん、そして林さんの声をイメージしながらお読みいただければ幸いです。
なお、手書きで急いで書き留めたものをテキストにしたので、相槌やクロストークで拾えていないところもあるかもしれません。
では、スタートです。
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仲:さあ、先ほど私は間違えてね、「ベスト歌謡70」というところを「ベスト歌謡50」って言ってしまいました。それはもうそのはずです。もう皆さんもですね、あのおわかりになっていると思いますけれども、この番組タイトルが「RKBベスト歌謡70」と付いているからには、あの番組、もう九州を代表するお化け番組だったあの「ベスト歌謡50」を意識しているということは皆さんお気づきだと思います。えーそしてですね、ここからの時間はこの番組とパーソナリティについて、私たち3人から触れさせていただきましょう。「ベスト歌謡50」と林幹雄さんです。
坂:まず「ベスト歌謡50」について簡単に説明させてください。始まったのは昭和49年、1974年の4月14日、日曜日でした。日本で最初に企画された長時間ランキング番組と言われています。あのテレビでベストテンってありましたけど、それに4年先がけて始まってるんですよね。平成7年、1995年12月31日まで続いた長寿番組、音楽番組でした。当初は昼の12時15分から午後3時55分まででしたが、1年後には時間が延長され、夕方の5時まで、12時15分から夕方5時まで放送されました。50位から1位までの50曲を全て紹介、放送するというコンセプトだったんですね。東京の歌手たちの動向を伝える鬼沢慶一の芸能リポートですとか、福岡にやってきた歌手を紹介する有吉ひろこのミニミニインタビューですとか、ブロッククイズなど人気を集めていました。
仲:これ1975年、昭和50年の聴取率調査で16.1%という、すごい数字を叩き出していたと聞いています。
服:あとあれですよね。ランキングでいうと、さっきね坂田君も言ったように、あの「ベスト歌謡50」で1位になったっていうと、全国にその情報というかニュースが流れたっていう、まあ古いプロモーターの人に聞きましたけどねぇ、そのぐらい権威があった。
坂:なんか「ザ・ベストテン」のランキングの参考資料になったっていうのもなんか聞いたことありますねぇ。
仲:で、パーソナリティを務めていたのは、16年間パーソナリティを務めた林幹雄さんでしたね。番組の後半のほうは石上正憲さんでしたが。えー、その林幹雄さんですが、昨年10月17日に誤嚥性肺炎のためお亡くなりになりました。85才でした。
坂:林さんは福岡市の出身で西南学院大学を卒業され、そのあと昭和35年1960年10月にRKBに入社しました。高校・大学時代は演劇部に所属されてたんですね。また地元NHKの放送劇団にも所属して、アナウンサー志望の仲間に誘われてRKBの入社試験を受けたんだそうです。RKBに入社したあとは、「RKBリビングショー」の司会など、テレビやラジオ番組で女性を中心に高い支持を受けた看板アナウンサーとして活躍されました。
仲:林さんのソフトで優しい語り口ね、われわれあのベルベットボイスとかいうふうに表現しておりましたが、今も忘れることができません。先ほど番組の中でもね、お送りしましたけども、えーあの声を聴くとね、なんかジーンときますが。で、林さんは「ベスト歌謡50」のパーソナリティを降板されたあとは「歌謡曲ヒット情報」のプロデューサーを務められまして、えーまあこのスタジオに居る3人含めもう多くのね、アナウンサーそして福岡のタレントを育ててくれました。私たち3人はまあそのうちのメンバーということでして、まあ言わばね、林チルドレンと言わせてもらいたいとも思っております。ここからの時間はですね、林さんを偲んで林さんの好きだった、えー、音楽と思い出に浸らせてください。で、僕あのー林さんが亡くなったっていうのを聞いたのが、えーこれ10月の23日だったんです。その時は既に林さんのご家族があのー、通夜やご葬儀もされていたあとで、全て終わってから私たちが耳にすることになりました。その瞬間思ったのは、また林さんにやられたなと思いました。あの、林さんは自分のプライベートなことを人を巻き込むことをね、比較的嫌ってらっしゃったというか、何度かご病気で入院なさったときも絶対にお見舞いに来させないと、で、できるだけこそっと、そういうことは表に出される人じゃなかったので、ぼく一度メールのやりとりもしたことあるんです、そのときに。いやもうこれは遠慮してくださいとはっきり言われたんで、なんだか林さんらしいなあと思って、あの受け止めました、心的には、たまたまその日が舞台の仕込みの日だったので、えー、受け止めざるを得なかったっていうか、とても苦しい思いをしましたが。一緒に今日はじゃあ3人で林さんを偲ばせていただきましょう、まずはこの曲、カラオケに行くとね、林さんが歌ってましたね、よく歌ってました。
坂:この曲ですね、林さんと最後にお会いしたのが3年…2018年、あの、ライブのあの、ライブハウスでばったりお会いして、RKBの関係者が出演するライブだったんですけど、お会いして、まあ久しぶりにお会いして、でもこれだけは聞かなくちゃと思って、林さん、あのーひとつ聞きたいことがあってずっと聞きたいと思って聞きそびれてたんですけど、林さんがお持ちのレコードの中で一番たくさん聴いた曲あるいはお好きな曲って何ですかって、もうストレートにぶつけまして、ポンと返ってくると思ったらちょっと逡巡して、で、1分くらい考えて、うーんって言ってこれだねって言ったのがこの曲でしたね。
仲:お送りしましょう、南佳孝「モンローウォーク」。
(曲)
仲:この時間は昨年10月17日にお亡くなりになった林幹雄さんのことを思い出しながら、林さんの好きだった曲と一緒にお送りしておりますが、実はここで1990年4月1日にですね、「RKBベスト歌謡50」、830週目のですね、林さんの最終回のエンディングの声がありますのでお聴きください。
仲:これが林さんが「ベスト歌謡50」を卒業なさる時の放送ですね。これもまたなんか林さんらしさが伺える放送ですね。自分の最終回というよりかは、これからのこう新人さんたちに対してのご配慮、ラジオをお聴きの皆さん、スタッフに対してのご配慮というのはすごく感じられますね。
坂:人柄が伝わってきますね。
仲:だからそう思うと今日この時間、林さんのことをしゃべろうっていうのは服部さんがわれわれに、そして放送やる中で準備してくれたけど、なんか絶対メソメソしちゃいかんなって気になりますね。
服:ね、ほんとそうですね。
坂:あのー、「ベスト歌謡50」に届いたハガキを推計したのを放送で林さんおっしゃってたそうで、440万枚だそうです。16年間で。
仲:すごいなー。
服:林さんハガキをとても大切にされてたんですよね。だからあの、ハガキは当然目を通してますし、あの、お亡くなりになった方ですかね。なんかあの女性の、高校生だったかな中学生だったかの女の子のハガキを読んで、それが反響があって、学校の授業でも使われたっていうエピソードがありますよね。
坂:あの、その話も私聞いたんですけど、そのハガキがそのー、真偽が確かめようがないと、ハガキなので。でもこれは、真実なんだという受け止めで、紹介するっていうことにするっていうね、やっぱりリスナーに誠実であるっていうのがやっぱり林さんだなーって気がしましたね。それが830週440万、1週間に5,300通ですよ。そういうことなのかなぁっていう気がしましたね。
仲:えー林さん僕は一番林さんにこうかわいがってもらった人間の中では一番出来が悪いほうだったと思うんですけど、一回も怒られたことがなくて。あるアーティストにインタビューしたときに、非常に、もちろん悪気はないんだけれど、失礼なことを言ってしまって、ディレクターにも怒られ、林さんに何て言われるかなーって思ったら林さんはそれには一切触れず、トシ坊、僕は放送は優しさだと思うんだって、その一言だけ言っていただき、だからあの優しさって何だろうっていうのをね、探りながら、まだたどり着いてないけど林さんの中に流れていた優しさっていうのをずーっとこう感じてまして、あの実は、あのー、「ベスト歌謡50」卒業されてプロデューサーになった後も、僕の主宰する劇団の若手の指導をずっと引き続き、えー、昨年、おととしまで、末までやって、昨年ちょっと遠慮したほうが、勇退したいなーってお話があったんですよね。その時は体調はそんなに悪くないと思っていたんですけど、そんとき、直接お会いしたかったなーと、今となってはちょっと悔やまれはしますけど。
坂:劇団に対する指導っていうのは、それは演技ではなく、
仲:朗読です。
坂:朗読の指導、はー。
仲:で、林さんご自身もよく酔っぱらわれて言うのは、言っていたのは、林さんも演劇お好きだったから、なんだか演劇の世界から、林さんの表現ですよ、僕は逃げて放送に行っちゃったような気がすると、というのはその演劇ってやっぱ食えないっていう、当時、特に当時そういう世界だったから、そこから放送のほうに逃げたみたいなこと、よく酔っぱらっておっしゃって、だからあの、がんばってね、やってるトシ坊はがんばってねっていうこと、いつもね、応援していただきました。
坂:重ねてらっしゃったのかもしれませんねー。
仲:ではここでもう一曲、この曲も林さん好きでしたね、お送りしましょう、日野美歌「氷雨」。
(曲)
仲:林さんが好きだった日野美歌「氷雨」、お送りしました。この時間は昨年10月17日にお亡くなりになった林幹雄さんの思い出と林幹雄さんの好きだった曲をお送りしていますが、あのお茶目な面もありましてね、あの、林さんなじみの居酒屋とかに私たちもよく連れていってもらっていたんですけど、そこにあのお店の方がおっしゃるのは、林さんは来るとき紳士だけど帰るとき普通のおっちゃんやもんねーというふうにおっしゃって(笑)、というのが林さんあのー、お酒飲まれると周りを盛り上げようとして、ネクタイを必ず頭に巻いてらっしゃったんですね(笑)。高橋真梨子「桃色吐息」。
(曲)
仲:えー、この時間は昨年の10月17日にお亡くなりになった林幹雄さんを思い出しながら、林幹雄さんが好きだった曲と一緒に番組をお送りしています。まーあのー、林さんのこと話すときりがないんですけど、一つ言えることは、こうとてもー、みなさん、ほんとみんなに優しい人だったんですけど、その場の中で一番こう立場がなさそうな人のことも、こう大切になされた方でして。特にまだ僕と服部君がね、「ヒット情報」についた頃とかは、ぼくなんかは周り誰も知らないわけで、で、
坂:「ヒット情報」にアナウンサー以外で外部から入ったっていうのは、仲谷さんが最初ですよね。
仲:最初ですね。今でも思い出すんですけど、林さんからその、家に僕電話がなかったんで、劇団事務所に電話があって、RKBラジオの林幹雄と申しますが、実はある番組で仲谷さんをという話がありまして、本来ならばこちらからそちらに行くのが普通でしょうが、よろしければ何時何分にRKBのロビーに来ていただけませんかっていう電話いただいて、びっくりして、あのラジオで聴いてる林さんから何で僕に電話があったんだろうと思って思わず、僕のことはどこで聞きましたか?って言ってしまったんですよ(笑)。大笑いされたんですけど。しかもその一番最初の林さんとの出会いの日に遅刻して行っちゃったんですよ。
坂:なんか事情があったんですか。
仲:ほとんど、年に1、2本しか入らないコマーシャルの録音の仕事が何かその日にあって、それでどんどんどんどん押してしまって、当時そんなにタクシーも乗らないのに慌ててタクシー飛び乗ったんだけど、携帯電話もない時代だから、もう連絡の術もなく。で、もうこれはダメなんだろうなあと思ったんですけど、ロビーに行って林さん呼び出したら、当時の渡辺通りのロビーって、あの、階段上から、あのとき制作が2階にあったのかな、そこから降りてくるとまず足が見えるんですよ。林さん、足が見えて、それから体が見えて最後に林さんが全部見えるっていう、まさになんかね、スターが上から下りてくるような、林さんが第一印象でしたね。
坂:あの、オーラみたいなものは感じましたですか。その、スターアナウンサーとしての。
仲:あー、そのときは感じましたねー、えー、それからお酒飲むと感じなくなりましたね。
坂:そう、私の初対面も研修で、講師として、で、僕は小学校3年生、五島の福江に住んでて、それこそラジカセでチューニングしながら県外のラジオを探しまくって、そこで日曜日の午後、「ベスト歌謡50」を拾って、わ、すごい番組だ、こんな革新的な番組があるのかと思って、もう夢中になって曲を録音してたんですけど、はたとあるとき気付いたら、ハガキでみんな林さん聞いてください、林さん林さんってみんなハガキに、なんかもう林さんを慕うようなコメントがいっぱい書いてあって、うわー、この人はスターだと思って、まさか自分がRKBに入るとは思わずに入って、対面したんですけど、でもすごいこうダンディな格好で、すごいこう着てるお召し物もすごいかっこいいんですけど、対面して話すと、普通、ごく普通、そのオーラを感じさせない、包容力みたいなのがありましたねー。
仲:そうですねー。そのスターの林さんに、ぼくは調子に乗っていろんなご迷惑をおかけしてるんですけど、一番大きな迷惑っていうか、その、一回目の結婚の仲人さんまでしてもらっちゃってもう、林さんの奥さんにまで出てきてもらって、それからダメになっちゃったときにちょうど僕もその生活が荒れていたので、あの、林さんにどう報告するかっていう報告の仕方も不義理しちゃって、もう、放送局の社員食堂で林さんこうなりましたっつった時の林さんの一言が、水に流すっておっしゃったんですよね。だから水に流すってことは許して下さってることだろうけど、本来はそれだけ、やっぱりそうなってしまった時は仕方ないけれども、こう、人としての礼節みたいなものをやっぱりぼくは欠けていたんだなっというね、その、水に流すっていう言葉一つでぼくはなんか、あー、悪かったなーという気になりましたねー。
服:重い言葉ですよねー、ある意味ねー。
仲:あと、服部君が風邪がひいてるときに僕はね、なんか知らないけどね、リンゴかなんか持っていったのよ。
服:あー、行きましたよ。
仲:それをものすごい喜んでくれてね。
坂:服部さんのもとにリンゴを持ってったことを、職場に、
仲:いや自宅に。
服:僕が高熱で寝てて、なんとなくこう目が覚めたら、リンゴが置いてあって、これ誰がむいてったんだろうと、塩がちゃんとこうしてあってね、色が変色しないようにしてあって、女性は付き合いなかったから、誰だろうこれって思って、そしたらトシ坊だったっていう、
仲:意外と僕らはそんなことできないもんだから、そんなことしてくれてありがとうっていう、もう。
坂:まわりまわって林さんの耳に入ったってことです…
仲:あの普通の会話で出てきて、林さんものすごく喜んでいただいて、なんかなー、あの優しさねー。
坂:優しさで言いますとね、僕の仕事、見ていてある時「ヒット情報」で、担当日が週3回入ってたんですけど、外れてる日は見学させてもらってサブで見てた、僕は先輩のしゃべりを盗んでやろうと思って、当時、スタジオ、金魚鉢なんて言い方してましたけど、中の先輩のしゃべりをずっと聴いてたんですけど、ある時、曲を絞る時に林さん、その曲を絞る動作に僕はもうびっくりして、どういう状態だったかっていうと、ディレクター卓に座って、ミキサーの卓にですね、手の平を下にしてミキサー側のほうに手を伸ばしてそれをミリ単位でジワジワジワジワジワジワってゆっくり手を下ろしていくんです。で、背中から見てるからわかりませんけど、林さんの目は多分虚空を見つめて全神経を曲に集中してるんです。で、隣りに座っている、まーあのー、技術のミキサーはその林さんの手のミリ単位で動く手の動きに合わせて手元のフェーダーをちょっとずつちょっとずつ絞っていってフェードアウトしたんです。で、その時に、なんという愛情かと、曲に対する敬意、つまり、完成されたレコードを途中で絞るっていうのはそれはちょっと傷つけることであるっていうのの等しい考えが、あの林さんにはあるんだな、あ、そうか、だからこそリスナーの信頼を得てたんだなぁっていうことを考えましたね。
仲:そのリスナーさんからもメッセージ届いています。
(リスナーさんからのメッセージを4通紹介)
仲:それでは最後に、やはりこの曲も林さんが好きだった曲です、お送りしましょう、かまやつひろし「我が良き友よ」。
(曲)
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「RKBベスト歌謡50」は、私が自分の意思で聴いた初めてのラジオ番組でした。
ご冥福をお祈りいたします。
ありがたいことに、バス以外の話題の過去記事にも一定のアクセスがあります。
以下は、個人的にまとめといてよかったと思う記事です。
(つづく)