鹿児島市の天文館近くの中町に、俊寛の碑があります。
平安時代末期、俊寛は平家を倒すため、京都の鹿ケ谷で会合をしていたことが発覚し、平清盛に捕らわれました。
治承元年(1177年)、鹿児島県の南の島、硫黄島(鬼界島)に流されました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/45/39/a65fa2f5651f8588cc915efb20855985.jpg)
中町のビルの谷間にある「俊寛之碑」。
そのとき船出したのが、この辺りなのです。
明治31年ごろ埋め立てられるまでは堀があって、俊寛堀と呼ばれていました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/a9/c256642bd2d6a5773a8e86366dfafb0e.jpg)
俊寛が流された硫黄島の港。
恋人岬から眺めたものです。
集落は、この港周辺だけです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/50/a0/a1ba8c2303cc324a414d4401fa80fe82.jpg)
俊寛が住んでいたお堂。
港から離れたところにあり、当時は地の果てに流された心境だったでしょう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/0c/47e846e9f3db605f5ca95f35f53b6ae8.jpg)
港にある俊寛の像。
一人だけ赦免が許されず、船を追いすがる姿です。
前の写真とこの写真は、以前「硫黄島」という記事でUPしました。
平安時代末期、俊寛は平家を倒すため、京都の鹿ケ谷で会合をしていたことが発覚し、平清盛に捕らわれました。
治承元年(1177年)、鹿児島県の南の島、硫黄島(鬼界島)に流されました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/45/39/a65fa2f5651f8588cc915efb20855985.jpg)
中町のビルの谷間にある「俊寛之碑」。
そのとき船出したのが、この辺りなのです。
明治31年ごろ埋め立てられるまでは堀があって、俊寛堀と呼ばれていました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/a9/c256642bd2d6a5773a8e86366dfafb0e.jpg)
俊寛が流された硫黄島の港。
恋人岬から眺めたものです。
集落は、この港周辺だけです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/50/a0/a1ba8c2303cc324a414d4401fa80fe82.jpg)
俊寛が住んでいたお堂。
港から離れたところにあり、当時は地の果てに流された心境だったでしょう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/0c/47e846e9f3db605f5ca95f35f53b6ae8.jpg)
港にある俊寛の像。
一人だけ赦免が許されず、船を追いすがる姿です。
前の写真とこの写真は、以前「硫黄島」という記事でUPしました。
テレビで歌舞伎を見る番組では
よくとり上げられてますね。
昔 みてました。 その時 俊寛 もありましたが
まさに!この銅像のこの恰好ですね。
遠くから硫黄島をみたことがあります。
最後の写真のこの場所で、実際に歌舞伎が行われました。
まさに、実際の場所で演じたわけです。
役者さんたちも、熱が入ったでしょうね。
観客も、胸に迫るものがあったでしょうね。
私はテレビで見ました。
史跡を訪ねる面白さは、歴史的事実が実際にあったその場所に身を置くことですね。
歴史を知っているといないでは、見る風景も違って見えますね。
あの人も、この同じ風景を見たんだと・・・