15日の朝はテレビの朝のニュースの電話インタビュー受けからスタートした。
とても意気軒昂な対応であったと、今では情けない気持ちになる。
倒れた家具などはそのまま床の上に水平展開。
食器棚の食器はすべてダンボールに入れ、家電製品など台の上に乗っているものは全て床に下ろした。
電気も電話も通じていたしテレビも視聴でき情報は入手出来た。
余震に注意しながらその晩は早めに寝た。
ところが・・・
深夜日付が変わった1時半前に、布団ごと持ち上げられてドスンと落とされるような衝撃で目を覚ました。
真っ暗闇の中で携帯の地震警報が鳴り始めた。
強烈な縦揺れの後長時間に亘って横揺れが続いた。
真っ暗闇の中で、屋根瓦が落ちて割れる音が延々と続いていた。
咄嗟に考えたのは身の安全の確保だったが、揺れている最中暗い中の避難は危険と考えた。
それに屋根瓦が大量に落ちれば屋根が軽くなり倒壊した場合もダメージが少なくなると考えた。
二階の東の端が寝室だったが、とりあえず揺れが収まるまで布団を頭から被って寝た姿勢のままでいた。
やがて音も揺れも収まった。
夜が明けるまでその態勢を続け、少し明るくなった頃窓から庭を見下ろした。
両隣の屋根の瓦が我が家の庭に大量に落ちて割れていた。
不思議と小豆色をした我が家の瓦は一枚も落ちていなかった。
両隣は、昔ながらの鬼瓦を含めてすべて落ち、大きなガスボンベが境界の塀を倒して庭に転がっていた。
テレビもタンス類も事前に敷いて置いた布団の上に倒れていた。
驚いたのは重い仏壇が1m以上も飛び出して部屋の真ん中に倒れていたこと。
・・・・・
避難所に向かったが、入り口から奥まで駐車場を含め避難者で一杯になっていた。
仕方なく家に帰ると、玄関に大きく危険立ち入り禁止の赤紙が貼られていた。
聞けば我が家の倒壊ではなく、隣家が倒壊した場合我が家の玄関付近まで被害が及ぶのだという話。
それから10日間くらいは近くの駐車場の電柱が倒れても大丈夫な位置で車中泊となった。
途中から長男が持参した軽易なテントで寝泊まりした。
電気は4日くらいで使えるようになって冷凍庫の食料で食いつないだ。
相方もお産の手伝いを早期に切り上げて帰ってきた。
車中泊もままならず、玄関に赤紙をつけたままこっそり裏口から出入りし、安全な東端の部屋で生活した。
それから50日ほどは、毎日自衛隊の給水所のお世話になった。
風呂は2つ隣の町の温泉にでかけ向かいにあるコインランドリーとセットの生活が続いた。
建築や水道工事などの業者は、公共工事が最優先となって一般家庭までは手が回らない。
墓も倒壊してしまったので、骨壷を購入して先祖の骨を移し替え墓の再建まで自宅で保管した。
やがて両隣の家は解体され、我が家の玄関の赤紙も外された。
業者が対応できるまで、一人で家の周りや庭・塀・門柱などを修理した。
家は地震の半年前にリフォームしていたので、意外と家自体の被害は少なかった。
ただ、それ以降は動けるようになった業者ともども復旧の毎日が延々と続いた。
ちなみに2度目の震度7は一度目の地震で町の地震計が壊れ推定値となっている。
私的には一度目が震度7なら二度目は震度8以上だと思っている。
震度7以上がないのは、不思議でならない。
「残照にすがる足元もう暗い」・・・しろ猫
沢山の皆さんの善意に支えられての今であることを肝に銘じたい。