瞑想とは、自己を見つめる道である。
大手のゼネコンでは、僅かな時間であるが、瞑想を行い、危険作業への心構えを正す。
脳のリラックス。
此れがストレス、因果律、病、苦しみ、呪い、から解放される唯一無二の道でもある。
瞑想とは、怪しげな宗教では無いのである。
道院の先天坐法では、師は、神である。
故に、誰も教えてくれないと述べる人がいる。
いや、古今東西、自らが、行なう。故に瞑想と鳴る。
何時からであるのか。
瞑想に師が出来たのは。
古来、インドにはその風習があり。ヨガ自体の主体も神格化され、師から、弟子へと繋がる道となった。
瞑想の極意とは何であろうか。
瞑想の極意とは、黙って座ることのみ。
故に、黙って、座れない人間。利益を求める人が、師となり、弟子をつくり、帰依を求め、見返りに、瞑想の怪逆を述べ、自己から離れられない、ノウハウを作り、絶対の帰依とする。
人間とは依存する素質を持つ。そして神並ぶ存在に、依存する体質の方々にとって、師は、神に等しく、絶対の教えである。
やれやれだ。瞑想とは、自己を開く扉。
瞑想とは、1人で成す。他人から、介在される事は無い。
音楽を聴く瞑想。歩く瞑想。視覚の光滅による瞑想。
更にやれやれだ。音楽を聴き、瞑想するだと、それは、音楽を聴いてリラックスしているだけ。
歩く瞑想。運動して、集中力が増しているのは、運動中枢に於ける、脳内のドーパミンにしか過ぎない。
光の光滅によるのは、視覚による幻覚。それによるオナニーでしかない。
瞑想とは、吾、独り、黙々と自己と向き合うのみ。
良いか、聞け。
瞑想に、お金はかからない。静かな空間が、あればよいだけ。
瞑想にセミナーは、無用。瞑目し、自己の心を見つめる。それしかないから。
瞑想に教師は入用であるが、師は不要である。
教えて下さる親切な人のアドバイスは、初めての人には、大切。しかし、絶対的帰依を求めたり、肉体関係を求めたり、それは、詐欺であり、瞑想を教えるのではなく、貴方のお金と肉体を求めているだけ。
何度も、述べる。瞑想とは、静かに、吾を我を見つめるだけ。
そして、自己を覚醒する。
覚醒しても、唯の人。相変わらず、苦悩を友とするのみ。自己の幸いを戒め、無垢に他人の幸せを喜ぶのみ。