玄徳道

道を語るブログです。

瞑想志道

2021-02-25 19:52:00 | 坐道
瞑想とは、自己を見つめる道である。

大手のゼネコンでは、僅かな時間であるが、瞑想を行い、危険作業への心構えを正す。

脳のリラックス。

此れがストレス、因果律、病、苦しみ、呪い、から解放される唯一無二の道でもある。

瞑想とは、怪しげな宗教では無いのである。

道院の先天坐法では、師は、神である。

故に、誰も教えてくれないと述べる人がいる。

いや、古今東西、自らが、行なう。故に瞑想と鳴る。


何時からであるのか。

瞑想に師が出来たのは。


古来、インドにはその風習があり。ヨガ自体の主体も神格化され、師から、弟子へと繋がる道となった。

瞑想の極意とは何であろうか。

瞑想の極意とは、黙って座ることのみ。

故に、黙って、座れない人間。利益を求める人が、師となり、弟子をつくり、帰依を求め、見返りに、瞑想の怪逆を述べ、自己から離れられない、ノウハウを作り、絶対の帰依とする。

人間とは依存する素質を持つ。そして神並ぶ存在に、依存する体質の方々にとって、師は、神に等しく、絶対の教えである。



やれやれだ。瞑想とは、自己を開く扉。

瞑想とは、1人で成す。他人から、介在される事は無い。

音楽を聴く瞑想。歩く瞑想。視覚の光滅による瞑想。


更にやれやれだ。音楽を聴き、瞑想するだと、それは、音楽を聴いてリラックスしているだけ。

歩く瞑想。運動して、集中力が増しているのは、運動中枢に於ける、脳内のドーパミンにしか過ぎない。

光の光滅によるのは、視覚による幻覚。それによるオナニーでしかない。


瞑想とは、吾、独り、黙々と自己と向き合うのみ。

良いか、聞け。

瞑想に、お金はかからない。静かな空間が、あればよいだけ。

瞑想にセミナーは、無用。瞑目し、自己の心を見つめる。それしかないから。

瞑想に教師は入用であるが、師は不要である。

教えて下さる親切な人のアドバイスは、初めての人には、大切。しかし、絶対的帰依を求めたり、肉体関係を求めたり、それは、詐欺であり、瞑想を教えるのではなく、貴方のお金と肉体を求めているだけ。


何度も、述べる。瞑想とは、静かに、吾を我を見つめるだけ。

そして、自己を覚醒する。

覚醒しても、唯の人。相変わらず、苦悩を友とするのみ。自己の幸いを戒め、無垢に他人の幸せを喜ぶのみ。
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