人の身は、神の御魂の生く宮と申してあるぞよ。
神々は、天地世界、大自然を宮として鎮まり、創造化育の神業(かむわざ)を進めてあるが、高天原の神の四九三(仕組み)を、この地上に実らすにつけては、八百万の神々は神霊を分ち、人の身に鎮め、この地球に住まわせて、地上天国(うましみくに)を開かんとせるのであるぞ。
人の身魂は、神氣霊氣の受信器であり、発信器と四九三(しくみ)であるぞ。
神界や霊界の氣を受ければ、様々の霊も憑って来るから、常に我が身を神の鏡(神意)に照らして正邪を審神(さにわ)しておらねばならぬぞよ。
思い上がったり、利己主義(われよし)の思いでありたら、善き神は憑って来ぬぞ、響いて来ぬぞ。
神は霊、人は体と申してあるが、人の身が善き思いに磨かぬと、神界で善き事を計りても、現の世に実らぬのであるぞ。
余りにも、利己主義の思いが強いと、神の授けた御魂は自我の凝りた岩戸閉めとなり、獣の霊の器となしてしまうぞよ。
本人はその事に氣づかぬが、道義礼節の道から外れた行いをするから、審神(さにわ)出来るぞよ。
その者相応の霊が憑って来るのであるぞ。
霊界へ帰った時は、現の世の想念、相応の霊層界に行くのであるから、この世でしっかりと身魂を磨いておかねばならぬぞ。
この世は、身魂磨きの修業の世と申してある事、常に忘れてはならぬのじゃぞ。
過ぎ事、何程悔やんでも、どうにもならぬぞ。
その時の御魂相応に、通らせてある道であるから、辛く苦しい道でありても、人のせいにしたり、うらんだりしては、ならぬぞよ。
どんな、嵐の日も、黒雲の奥には太陽が輝く如く、我が身の内には、神の授けた御魂(直霊)のある事を忘れず、勇気を出して進む事じゃ。
その事に、はっと氣づけば、御魂の光が道を照らすぞよ。
今は過去の結果であり、未来の原因であるぞ。
その道を人は歩みて、身魂磨きをするのであるぞ。
今の世は、根を忘れた切花の世であり、人民が目先の損得で迷うのも、せんなき事であるが、原因結果(めぐり)の道に狂いは無いから、今が辛く悲しければ、今から気持ちを改め、日の出心で前向きに、一歩踏み出す事であるぞ。
辛いからと求めるばかりでは、ならぬぞ。
辛い中でも、ちょっとでも、人の喜ぶ事をしてみなされ。
それが我が身の喜びとなり、心の闇を晴らす光となるぞ。
何程、世の為人の為に尽くして居ると、申しても、して、やっておると、言うような精神では、不平不満不足のもととなり、道を外れる事となる。
常に、させて頂いておると言う感謝の心を忘れてはならぬぞよ。
その、精神となりたら、人も喜び、我も喜び、嬉し、楽しの結構な道の開きとなるぞよ。
情けは人の為ならずと申してあるぞよ。
良き受信器、良き発信器となる磨き忘れてはならぬぞよ。
それは、常に我が身を省みる、自己審神が真に大事であるぞ。
今のところ、人の身は、未だ未だ未完成であるから、失敗もあるぞ。
その失敗を土台にして、一歩成長となるのであるぞ。
どんな辛く悲しき時でも、あきらめず、自己啓発の勇氣奮い起こす事であるぞよ。
ン。
神は分けへだて等いたさぬが、人民皆、利己主義(われよし)になりておるから、人民が分けへだていたすのじゃ。
世の元の神の意は、天照国照る太陽の、光や空気の如く、万民平等に天照し、国照らして、あるのじゃ。、
神の光を受けるも受けぬも、人民の自由であるぞよ。
どんな者でも、現の世にあるのは、御役目があっての事。
生かしてやりたい、暮らしてゆけるようにしたい、それぞれの使命を果たさせて、現の世に生きる喜びを与えたいのが神の意(こころ)で、あるぞよ。
ン。