玄徳道

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荘子物語、自分自神を知る道1。

2022-11-09 19:07:00 | 道院
荘子は、孔子の名を借りて、一つの物語を紹介している。


「昔、一羽のカモメが魯の国の宮殿に飛んで来た。

魯の国の王さまは、この珍しいカモメを尊重して、宮殿の中で飼う事にした。

そして、最高の音楽を演奏して、このカモメの歓心を買い、更に美酒や美食を以って歓待につとめた。

しかし、この世にカモメは困惑し、戸惑って、美酒を、飲まず、美食を口にせず、悶々として、楽しまず、三日にして死んでしまったのである。」

荘子が言うには、これらは、人の考えをカモメに押し付けて失敗したのである。

カモメを飼育する方法を以ってカモメを飼えば問題は無かったのである。

仮に、人の好みや礼儀作法を以ってカモメに強制しても、カモメはこれを、全て受け入れることは出来ず、カモメの習性に任せるのである。

このような考え方や、やり方はわれわれの日常の生活に、於いてもつねに存在するのである。

これは、自分の友達やまた、親子親戚に対しても、常に人は自分の考え方を人に押し付ける傾向がある。

我々は、常に親の考え方を子供に押し付ける傾向がある。

そこで、子供の時から将来の事を考えて、あれこれと色々な事を学ばせる。

例えば、三歳になるとピアノを学ばせ、四歳になると絵を学ばせ、五歳になるとバレエを学ばせ、六歳になると、小学校に入っても何か優れたものを小さい時から教育するのである。

更に小学校に入っては塾に行って補習し、この様に受験勉強の為に学ばせ、受験戦争に勝ち抜く事が出来るのである。

これらの親の身勝手な考え方を押し付けた結果、逆に悪い結果をもたらす事もある。

これに付いて、荘子は次の様に述べている。

「昔、南海の帝王にシュンという人物がおり、また、北海の帝王にもシュンと言う人物がいた。

南海と北海は遥かに遠くかけ離れていた。

この二つの国の帝王が会見する時は、常に中央の渾沌の国であった。

この渾沌は未だに開発されていない混沌の状態であった。

この渾沌の王様は、誰に対しても親切で友好的であった。

そこで南北の帝王が渾沌の国で会見する時には、至れり尽せりで、南北の帝王は大変世話になって、御恩返しをしようと思い、二人で相談した。

その結果、渾沌の国王には眼が無く、耳が無く、鼻が無く、口が無く、それでは、世間の全ての快楽を味わうことが出来ず非常に不自由な身であった。

一般の人には眼があり、耳があり、鼻があり、口があるが、渾沌には、この七つの穴が無く、世間の快楽を味わう事が出来ないので、何とかわいそうな事ではなかろうか。

そこで七つの穴を開けて快楽を楽しむ事が出来るようにしてやろうと考えた。

それから、二人の帝王は毎日、渾沌の身に七つの穴を開いてやった。

最後に七つの穴を開けた時、渾沌は死んでしまった。」

この物語は、渾沌が七つの穴を開けた為に、自己の本体を失ってしまった。

彼が生きているのは、渾沌の本体を堅持しているからであり、また、渾沌の体こそが、天地宇宙の本体でもあった。

そこで天地宇宙に七つの穴を開ければ、その本体を失ってしまうのである。


いわゆる、人間が成長の過程において、学校や社会から多くの教育を受けて、われわれの七つの穴が、一つ一つ、開かれて行き、この様にして社会的な人物が養成されて来るが、しかし、われわれ本来の純朴にして、素朴な本性は、これによって、徐々に失われていく。

正に渾沌の本体より、遠くかけ離れることになる。

それでは、荘子の物語は、人間社会と何ら関係がないのであろうか。

その実、われわれにとって、最も身近にして重要な問題である。


これを一つの物語として、次に紹介してみよう。

「昔、一羽のタカがおり、小さい時から、他の鶏と一緒に養育してきた。

そこで、タカは、自己も鶏と同じような生活をしてきたので、遠く飛ぶ事が出来ないと思っていた。

主人がこのタカを飛ばせようとして、あらゆる訓練をしてきたが、無駄で何の役にも立たなかったと失望した。

そこで主人はタカを見捨てて、高い崖から突き落とした。

そこでこのタカは未だ大地に到達するまでに、必死になって羽を動かしたので飛べる様になった。」

これはどうしてであろうか。

それは高い崖の上から突き落とされたので、必死になって羽を動かし、そこでタカ本来の天性が甦ったのである。

もし、機会が与えられなければ、一生涯この能力が埋没されたままでいたのである。

多くの人は、自己が最も愛する仕事に巡り会う事が出来ず、生活の為に、やむなく働いている人が多いのである。

現在、われわれの仕事の中で、自分の才能を発揮する仕事に恵まれず、また、自己の才能を発揮する機会も無い為、従って、自己の内にある優れた、潜在能力は永遠に日の目を見る事が出来ないのである。

更に生涯を自己の生命を燃焼させる事なく、終わってしまうのである。