今日のこの日は、日月地と天王星、一直線に結ばれる、真に大事な月食の日であるぞよ。
宇宙の氣も新しくなり、この地球も新星に向かい、一段と立替立直しの神業が世界に進むぞよ。
(注 日月地、天王星が重なる皆既月食は千五百八十年以来四百四十二年ぶりの事である。千五百八十年は土星食であった。)
先月の神示には、日の丸扇が神の四九三の大本の型であると申してありたが…さあどうじゃ、扇を開き、手にもてば、要(かな)は、手の中に隠れてしまうであろうがな。
人に現の世を任せて三千年。
扇の要を手にかくし、人間だけの世の中であると思い上がり、肝心要(かんじんかなめ)の神あって生まれた人の身である事を忘れて、頭でっかちとなり、人知人学で何でも自在になるものと、我が我がで…争いをいたし、未だに大事な人の生命を犠牲にしながら、国取合戦をいたしておる世界の様であるぞ。
肝心要の事を見忘れての争いであるから、扇の要が外れた如く収集がつかぬのじゃ。
この大宇宙は地球だけが存在するので無く、果て無き宇宙、無数の星があり、その調和があってこそ地球の存在もあるのじゃぞ。
この小さな地球の上で未だに国取合戦をいたしておるような事では宇宙の星からも笑われるぞよ。
争いに明け暮れ、物質文明の発展のみに走り、益々、地球を汚し穢し、我が身で我が身の首を締める如くであり、自ら地球に住めぬようにいたしておる人類であるぞよ。
神あっての人、生命あっての物種(ものだね)であるのに、要(かなめ)の事が判らず、少しの土地を我が物にして天下を取った如く思い上がりておる愚かな様は、如何に理屈を申すとも末は、共倒れとなると申してあるぞよ。
上に立つ者の意地張りで人民は右往左往(うおうさおう)いたし犠牲になり、真に可哀そうな事であるぞよ。
個人の事から、国の事から、勝った負けたの利己主義(われよし)の争いは、我が身をかえり見ぬ限り、おさまらぬぞよ。
日の丸扇の理を今一度、しかと返り見て、扇の要は、我が手の内に隠れておる事に気づかねば、収集はつかぬぞよ。
要を忘れ、根を忘れ、皆、我が我がの自己主張意地張りで、我が身を返り見ぬ事は、哀れであるぞ。
(注 扇(王義)の最も大事な要(神目)を隠す我が手とは、自我や欲、利己主義(われよし)の心である。)
要とは何であろうか。
神ありて生まれた人、親ありて生まれた我が身とも申してあるが、要とは、神目(かなめ)であり、神理であり、宇宙が存在し地球も存在し、その上で万物が生成化育いたすのは、命の力じゃ。
命とはミコトじゃ、神言(みこと)じゃ。
現の世を修理固成(つくりかため)のは、神の言霊の力であるぞ。
人間、我が力で現の世に生まれた如く思いておるが、人が現の世に生まれる時、魂の親神から魂を授かり、それぞれの使命の神言を頂いて生まれて来ておるのであるが、その事に気づいておる者は、少なく、肉体の霊の自我や欲、自己保存の本能の為、我が御魂を押し込めておる者がほとんどであるぞ。
それぞれ、御魂の使命があり、親神から、頂いた神言を果たしてゆく事が、命持ちであり、真の命の果たしであるぞ。
肉の身の自我や欲も神ある事は知っており、神の祭祀はいたせども、形ばかり。
人間都合勝手のご利益を頼むばかり。
神を世に出すどころか、祟らぬよう、障らぬよう、神押し込めの祭りをいたして来た三千年でありたのじゃ。
明治以来封じられて居りた神々が、段々世に御現れの時となり、闇に隠れた、夜の世より、何事もありやかに見えて来る日の出の世の開きとなりた今の世であり、ありやかに見えて来ると、人間とは、こんな事をして来たのかと驚かねばならぬ事ばかり…さあ、今こそ、この地球を存続させ、人類滅亡を防ぐか、世界中で真剣に考えねばならぬ時であるぞよ。
要の事が隠れておる事に、気づかぬ内は、右よ左よ、善よ悪よと、世は治る事無く、地球上に、荒事重なるから、くどく申すのであるぞ。
神々の働きは、一神にして多神、多神にして一神の四九三であり、それぞれ異なる神々の働きを括り結んでおるのが、白山菊理比咩の神の働きであり、龍宮神界では、金勝要神の働きと現れるのであり、悪事を重ねても闇に隠れて判らぬ夜の世から、日の出の神の御現れの昼の世となりて、何もかも見透しの水晶の三六九世となるのであるぞ。
その大四九三を開くのが要の神の働きであり、その要の働きは、人民の頭の良いの知恵学では無く、腹の中に生命の智恵と仕込みてあるのであり、損得に走る頭の知恵でなく、神に順(したが)い、生命に任せる腹の中の要の智恵でないと、これからの世を渡る事は、出来ぬぞよ。
そして、月に要と書く、腰じゃ。
腰が浮いているような、事では、これから歩まぬぞよ。
腹に力を入れ、腰を入れ、一歩一歩と落ちつきて歩むのじゃ。
肝腎要の生命の源は、腹にある。
神の授けし、分霊(わけみたま)も腹の中に鎮まるのじゃぞ。
地球に当てはめれば、生命の源の大海原じゃ、大産腹(おおうむはら)じゃ。
海のはたらき、忘れてならぬぞ。
万物の生命の種は、海から産まれたのじゃ。
人も口から食物を食い、腹の中で、栄養を取りら体を養いておるのじゃぞ。
出雲神も稲佐浜から龍宮の神を迎える神事がをなす。
龍宮と出雲は、深き縁があるぞよ。
(注 出雲から見て、丹後は東方である。
古代、旦浦(たには)の国は、日出る、天照国照神の国であり。天照国照神は、籠神社に祀られている。)
海人族と出雲族の結びで日本は成りておるのじゃ。
さあ、日の出の三六九世を迎えるには、地球の浄めを急がねばならぬ、荒事は重なれど、荒事無ければ、新事は開かぬのが現の世の四九三であるぞよ。
気候も変わり自然の恵みも変わりて来る。
一人じめはならぬのじゃぞ。
皆で分け合う心養いておかねばならぬぞ。
荒事の節を越へ、出雲分けて昇る日の出の御世を待つぞよ。
言霊神也
ン。
令和四年十一月十日
天橋道士龍華斎 修聖拝写。