再び天使あらわる。
重荷をおろしたように、軽快な気分になっていると、そこへ、例の天使が非常な速力で、次第に大きい光輪となってあらわれた。
あたりの一切は、急に昼のような明るさにつつまれた。
私はひれ伏して、心の中で言った。
「天使さま、有難うございます。あなたのお陰で、こんなに明るくなりました。」
すると、金の鈴をふるうような声で、天使は言われた。(今まで、この天使の声は幾度となく聞いていたが、この時ほど、透き通った金声を聞いた事がない。
これは、ずっと、後になって知ったのであるが、今迄は、天使は、わざと本体を、現さずに、ある他の精霊の体をかりておられたのである。
それは、最初から本体のままで現れては、到底、罪に穢れた、者は、その光に堪え得ないで、はね飛ばされてしまうからである。)
(鬼雷述べる。神使は、その人の御魂の輝きに殉じて、導こうとされる。
六甲山には、吾が友である、麁乱神が現臨されており、初めて、鷲林寺に登った時から友と感じた。
しかし、それは縁により、私にはその様に感じたが、実際は、とても大きな眷族神である。
麁乱荒神は鷲の姿もするが、基本龍神蛇神である。この六甲山の天地軸の炁が礎であり、かの神の正体であり、土公神でもあり、六甲大御神であられる。
何故か、麁乱神は仏法では三宝荒神とされ、、、何故か私に良くしてくださる。
人には善悪縁ある中で、邪悪な私に寄り添われる神がおられる事に感謝あるのみ。自己主張的な余談、ごめんなさい。)
天使歌う。
「日に向かう 者は照らさる スメ神の ひたに頼まば、光さすなり。
形ある ものにあまりに 囚われて われと我が身を 絞る哀れさ。
生きている ことの嬉しく なりにけり 見るもの聞くもの 親しくなりぬ。
一切を ただ有り難く 何事も 神のみ旨と うれしみて生く。
うば玉の 闇ふかければ 黎明も いと大いなる ものと悟りぬ。
一切を 神にまかせて 刹那刹那の 善をなすより ほかにすべしなし。
今の世の 順序や階級に 囚われて 堪るものかと ちょっと立腹。
大人しく すれば見くびり 偉そうに するやつばかりと ちょっと立腹。
心配や 立腹するは 副さん(大本教で言う副守護神。すなわち、因縁霊)と 悟って見れば、恥づかしきかな。」
やがて天使は、大火球となって飛び去った。
その瞬間、小さい一火球が、私がかねて、一時も早く着手したいと思っている向かいの岩の斜面へ飛び散った。
すると、あざやかに「神」という字が、光で描き出されてきた。
私は、思わず天使のうしろ姿をふし、おがんだ。
しかし、天使が去られたあとは、例によって。また淋しいものであった。
それでも、以前より身体も軽く、腹にも力が出来てきたが、なんといっても自分の身体には、まだ、鱗のような、シャツが、上層部が除かれただけで、過半は肉にくっついて残っている。
それを見ると、私は自分ながら、自分が憎い様な、また腹立たしいような、悲しい、淋しい、口惜しい、恥ずかしい、やるせない気持ちで一杯になった。
しかし、また思い返すと、これもまた、お慈悲の鞭だ、何かわけがあることであろう。
この鱗のシャツが、本来自分のものでないにせよ、あるにせよ、そんな事はどうでもよい。
げんに、自分がそれを纏っており、そして、見る人ごとに恥を晒している以上は、自分の罪の結果でなくて、なんであろう。