道院には内修外慈があります。内修は、坐であり、外慈は慈善事業です。
発祥したのは、中国、山東省浜県です。尚仙人が南極老人と云う神様に取り次ぎを依頼し、太乙老人が親切為る御心を以って現化され、一大警告を発しました「いかに素晴らしい山河が有っても、それはたちまちにして塗炭の苦しみに変ってしまう。これもまた天数によるもので、如何ともしがたい。下元末期に至ると数多くの大災刧を発生する時代に入る。」と示されました。1920年(大正9年)神縁ある人々が集まり、初めて人類救済の筏である北極真経が授けられました。その壇に参列されたのは、36名であり、仏教、道教、儒教、キリスト教、イスラム教の五教の信徒がいらしたようです。
ところで南極老人は不思議な神様です。あらゆる次元に即応し、神様と神様の仲介をされます。日本で云えば塩土老翁のように時節に現れます。
道院は、北極真経を誦し災いを弭化することが主ではなく坐をするのが本来の道です。そしてそれが老祖の願いでもあります。
太乙北極真経は老祖の御神体でもありますが実は、先天坐法の奥義書でもあります。
道院の方で坐をされる方は少ないようです。坐は、なかなか難しいらしいです。北極真経を賜り心印を授けられているのに残念です。坐とは、継続であり、温めたり冷ましたりすれば、坐の功用が働きません。先天の炁に合化出来なくなります。
坐を以って道と合すれば、中心軸が自然に自ずから得られます。自分自身の中で神を確立するということです。覚神すれば、それは、地球の中心軸とも合化します。自己による坐中での中心軸の安寧は、地球の中心軸も安寧させるのです。それは、地球規模の災刧を化す働きになるともいえます。
笹目仙人も「万人が悉く打坐開悟すれば太平楽を謳歌することが可能であると。」
坐禅、瞑想、先天坐。門扉は、違えど行きつく頂上は、同じです。坐は、道であり、自己救済の法であり、地球安寧への祈りです。真我、真空へと至ります。
「真剣なる坐こそが己と地球を救う礎とこそ知れ。」
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ところで南極老人は不思議な神様です。あらゆる次元に即応し、神様と神様の仲介をされます。日本で云えば塩土老翁のように時節に現れます。
道院は、北極真経を誦し災いを弭化することが主ではなく坐をするのが本来の道です。そしてそれが老祖の願いでもあります。
太乙北極真経は老祖の御神体でもありますが実は、先天坐法の奥義書でもあります。
道院の方で坐をされる方は少ないようです。坐は、なかなか難しいらしいです。北極真経を賜り心印を授けられているのに残念です。坐とは、継続であり、温めたり冷ましたりすれば、坐の功用が働きません。先天の炁に合化出来なくなります。
坐を以って道と合すれば、中心軸が自然に自ずから得られます。自分自身の中で神を確立するということです。覚神すれば、それは、地球の中心軸とも合化します。自己による坐中での中心軸の安寧は、地球の中心軸も安寧させるのです。それは、地球規模の災刧を化す働きになるともいえます。
笹目仙人も「万人が悉く打坐開悟すれば太平楽を謳歌することが可能であると。」
坐禅、瞑想、先天坐。門扉は、違えど行きつく頂上は、同じです。坐は、道であり、自己救済の法であり、地球安寧への祈りです。真我、真空へと至ります。
「真剣なる坐こそが己と地球を救う礎とこそ知れ。」



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