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玄徳道

道を語るブログです。

内外神への道

2012-05-05 21:15:33 | 坐道
坐禅や瞑想は、真我を得易い道であります。自己の内に在る真理を探究するからです。真我とは、人が心から解放された魂のことでもあります。伊勢白山道氏は内なる神を内在神と呼んでいます。この言葉は、私はピンと来るので使わせて頂きます。
ただし、私は内なる神が人の心の良心であるという考え方には、賛同しません。心を超えた存在であると考えるからです。

内在神と対照的にあるのが外在神です。崇拝する対象でもあり、畏敬する存在です。伊勢白山道氏は「人間の満たされぬ欲望を叶える為の外在神は本当の神ではない。」と言われています。
私は、赤ちゃんが親を頼み、親もその親、先祖を頼りにし、又命のもとをである神様を頼りにするのは、自然の道であると思います。(過度な自己の欲望を神に期待、祈願する事は、道から当然外れます。)
人の外には、自然が在り、至るところに精霊が存在し、そして目に見えぬ空気の如く神様は、すべてを覆っておられます。

人の内にも神が居るのは、真実です。人の外にも神が居るのも又真実です。

キリスト教は絶対主(エホバ)に敬謙な祈りを捧げ、又自らの罪を懺悔し、主もまたその罪を許します。その奇蹟を洗礼と称します。
イスラム教は絶対主(アラー)に祈り、日々の厳しい礼拝にて、自己研鑽を為し、魂の敬虔さと清浄な質が出現されています。そして常にイスラムの中心であるメッカに祈りを捧げる徳は、中心軸を表し、いずれ中心である真なる主のもとに還ることを意味しています。

外在する神に信仰しても心に誠あれば、必ず根源に至ると云うことです。

内在する神に囚われれば、惟我独尊。自己のみが正しく他を排斥するでしょう。
外在する神に囚われれば、盲信服従。自己の神性に気がつく事は出来ないでしょう。

内在する神、即ち「真我。」外在する神、即ち「空気。」内外揃って「真空。」これが神人合一の礎と成ると考えます。

「喜怒哀楽の未だ発せざる、これを中と謂う。発して皆節に中る、これを和と謂う。中は天下の大本なり。和は天下の達道なり。中和を致して、天地位し、万物を育す。」

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コメント (1)
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