南の国の会社社長の「遅ればせながら青春」

50を過ぎてからの青春時代があってもいい。香港から東京に移った南の国の会社社長が引き続き体験する青春の日々。

織田信長の事業計画表

2006-01-22 15:30:52 | 戦国時代
今回は、織田信長の事業計画に関して
図面にしてみました。ちょっとこれまで
の相関図とは違います。織田信長がどんな
ことをやった人物なのかを図解してみました。

織田信長はテレビで見ると、戦争ばかりしているように見えますが、
戦争以外にもいろんなことをやっているのですね。この図の意図は
歴史に詳しい人にはあたりまえのことかもしれませんが、あまり
詳しくない人のために整理してみたものです。

真ん中に「天下布武」という言葉が書いてありますが、これは
信長の事業計画のスローガンです。パチスロとかゲームにこの
名前のものがあるみたいですが、もとは信長が事業計画の中で
スローガンとしていたものです。武力を用いて天下を統一すると
いうような意味です。このようなはっきりしたスローガンがあった
ので、信長の事業はどんどん発展していくのです。

事業計画を大体四つの分野に分けてみました。
1.支配地を拡大するための勢力拡大事業:そのための戦争です。
2.斬新な政治改革事業:組織を改革し、大胆な改革を行います。
3.天下統一事業:具体的に天下を取るための手続きです。
4.そして文化改革事業です。
これ以外に、和平工作としてのネットワーク拡大事業などもあり
ます。これらを猛烈なスピードでトップダウンで行っていったのが
信長と言えるのではないでしょうか。

1.勢力拡大事業
天下を取るためにはまずベースとして国力を増強しなければいけ
ません。国土を拡大してより多くの資産、軍力を持たなければ
なりません。そのために戦をして次々と近隣諸国を吸収していき
ます。最大のプロジェクトは、桶狭間の戦いで今川義元を退けた
ことです。美濃攻め、浅井朝倉攻め、延暦寺の焼き討ちなども
すべて敵対勢力を退けての勢力拡大計画の一環です。

政治改革事業
領内の整備、人材の登用、軍備増強、市場活性化などいろいろな
課題がありましたが、信長はトップダウンで次々と手を打って
いきます。秀吉などの才能のあるものを採用していく人事政策、
鉄砲などの将来の兵器に着目した軍備増強計画、また軍人を農
作業から切り離し、プロの軍人集団を作っていくのも信長です。
さらに「楽市・楽座」という市場原理を導入します。自由市場
を作り、商業を活性化します。また検地を行い、土地の情報把握
を明確にしました。その他無駄な関所を撤廃したりとかの政治
改革を行いました。今の時代の郵政民営化以上の改革をどんどん
実行に移していたのです。

天下統一事業
天下統一の手続きを進め、それを内外に告知していく事業です。
美濃の稲葉山城およびその城下の井ノ口を「岐阜」とネーミング
します。これは古代中国の王朝「周」の国が起ったのが「岐山」
の麓であったということで、ここを日本の岐山にしようとした
ことでそのようにネーミングしたようです。(阜というのは小さ
な丘という意味とも、孔子の生まれた曲阜の地名からとったと
も言われています)。このネーミングによって、彼は、これから
私は周の国が天下を治め、善政を行ったようにがんばるよという
プレゼンテーションだったわけです。
また、足利義政を利用して(そのための明智光秀)の上洛作戦。
さらに安土城を築城しての天下人であることをアピールするなど
いろんな事業を行っていきます。

文化改革事業
信長は結構文化的な事業も行っています。戦争のイメージとは
全く違う茶の湯の世界。当時、茶の湯は武家の間に流行っていた
ようなのですが、それをネットワーク増強の手段としても使います。
今の時代でいうと、ゴルフのような雰囲気でしょうか。千利休など
がレッスンプロのような形で活躍します。さらには、西洋ファッ
ション、西洋文化の取り入れなど文化発展事業を行っていきます。
戦一辺倒でなく、粋な部分を持っていたのがまたかっこいいです。

これ以外にも自分の娘たちを嫁がせての和平工作など(妹の市を
浅井長政に嫁がせるのもこの一環)も行います。

信長はこんなにいろんなことをほとんど一人で決断していたので、
精神的なプレッシャーは相当なものだったと思われます。
それを、癒していたのがお濃の方などだったのですね。
蘭丸もその癒しに関係してくるのでしょうが、詳細は不明です。

信長は相当勉強していました。ドラマでは勉強している姿は全く
出てきませんが、中国の古代の歴史や、日本の過去の歴史も相当
勉強していたようです。やはり歴史を知ることは大切ですね。

4 コメント

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余談ですが・・・ (へいたらう)
2006-01-22 21:16:15
濃姫というのは、史実的には、早くから存在がわからないんだそうですね。

おそらく、斉藤家が滅びた辺りでご用済みになって、どこか行っちゃったんじゃないかという話もあるようです。



本能寺のときに、基本的に女性は逃げられたのに、なぜか、一人だけ、一緒に死んだ女性がいて、その人の名前がお能だったそうで、それで、戦国ロマンを描く作家などが、お能=濃姫にしたがるのだそうです。



ちなみに、来月は三方原に行く予定です(笑)。



あ、TBしっぱなしですみません。

この記事は、さきほど、目を通していたのですが、コメントもTBもする時間がありませんでした。

今も、時間に追われながら、書いてますので、お見苦しい点がありましたら、平に・・・。
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あ、ついでに。 (へいたらう)
2006-01-22 23:16:26
信長は割と家族思いだったようです。

対して、家康は驚くほど、子供達に対して酷薄だったようです。



実は、拙著前作「傾国の烙印」の中で、書いているのですが、「信長は、現代でも、他者には冷たいが、身内には派手な結婚引き出物などをしたがる尾張人気質であり、家康が対して、身内には酷薄なのは三河人の質実剛健な気質かもしれない。」と書いたのですが、三河人としてはどうでしょうか?



実際、家康は、長男自殺、次男飼い殺し、三男いじめまくり、四男・五男・六男早世、七男追放、八男早世・・・で、九男・十男・十一男を後の御三家にとりあげております。

(この御三家抜擢も色々と問題があるのですが)

つまり、早世しなかった子供達は、み~んなひどい目にあっており・・・。

この辺、何か、三河人気質と関わりがあるのでしょうか?



今度、豊橋人にもあったら、聞いてみようと思ってました。
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濃姫 (南の国の会社社長)
2006-01-23 00:23:54
へいたらうさん、濃姫に関する補足ありがとうごじます。ドラマなんかでもいつも尻切れとんぼでフェイドアウトしてしまう印象がありました。今回の大河ドラマ「功名が辻」では、本能寺の場面で、濃姫が長刀で交戦し、信長と添い遂げるという設定のようです。



来月は三方原ですか?!歴史の場所を訪ねるのはいいですよね。家康が鶴翼の陣で布陣し、武田信玄が魚鱗の備えで応じた戦場がどんなだったか見てみたいです。家康にとっては無謀な対戦でしたけど。
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三河人気質 (南の国の会社社長)
2006-01-23 00:33:33
家康が身内に対して冷酷であったのは、はたして三河人気質ゆえと言えるのかどうか、同じ三河人としてなんとも言えませんね。(笑)

身内に派手な結婚引き出物をしたがるのは、たしかに尾張人の特長であり、尾張の結婚産業は巨大ビジネスです。それに比べれば、三河はかなり地味ということはできますね。トヨタの経営なんかも三河気質だと思うのですが、堅実主義ですね。家康の子供の処遇に関してはちょっとわかりません。
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